第一章:記憶を聴く耳
晴れ渡った空を見上げながら、ユウは思っていた。
なぜ、自分だったのか?
なぜ、音に触れた瞬間にだけ、ナギサの気配を“確かに”感じたのか。
ある日、ユウは実家にある古い荷物を整理していた。
中から一冊の小さな日記帳が出てきた。それは、子どもの頃の自分が書いたものだった。
「雨の日、知らない女の子とピアノを弾いた。
すごく上手だった。でも、名前を聞いたら“ナギサ”って言ってた」
それは7歳の頃の日付だった。
――自分は、ナギサに会ったことがある。
しかもその時、すでに彼女は“この世の存在ではなかった”可能性が高い。
さらに、日記にはこう続いていた。
「その人が帰るとき、“この曲、忘れないで”って言ってた。
忘れたら、雨が止まなくなるって」
ユウは震えた。
自分は“鍵”だったのだ。
ナギサが記憶を託した、唯一の“聴く者”だった。
第二章:ナギサの罪
音守神社の老人を再び訪ねたユウは、もう一つの真実を告げられる。
「市川ナギサは……町を救うため、自らを犠牲にした」
昭和63年、山間部の地すべりによって町は壊滅の危機にあった。
当時、音守神社には古くから伝わる“封音の儀”が存在していた。強い想念を旋律に込めることで、災いの流れを止めるという禁術。
ナギサは、神楽の家系の末裔だった。
町の大人たちは、儀式を拒んだ。代償が“魂を閉じ込めること”だったから。
だが、ナギサはひとりでそれをやった。
鍵盤に“自分の存在すべて”を封じ、雨に変えて流した。
「雨は、災いの流れを押しとどめるために降っていた。
だから止めてはならなかった。
だが、お主が“ナギサの旋律”を完成させたことで、結界は解け、雨も止んだ。
……災いは、再び動き出すかもしれん」
ユウは呆然とした。
雨が降り続いていた理由は、彼女の“罪”ではなかった。
町を守るための祈りだった。
そしてその旋律を“解いてしまった”のは自分だったのだ。
第三章:音が止む日
その晩、ユウの夢にナギサが現れた。
「……ごめんね。全部、伝えておけばよかった。
でも、私は嬉しかったの。
雨の中で、ユウくんが音を覚えていてくれたこと」
「僕は……君を、自由にしたと思ってた。
でも、それは……町の封印を壊しただけだった」
「それでもいいの。
次は、ユウくんが“選んだ音”で、町を守って」
ナギサの姿が、まるで光の粒のように薄れていく。
それは消滅ではなかった。
転生のような、再誕のような何かだった。
最後に彼女は言った。
「私じゃなくてもいい。
でも、音を愛せる人がいてくれるなら……この町は、きっと大丈夫」
最終章:新しい旋律
数ヶ月後、雨の町に再び雨が降った。
それは静かで、柔らかな春の雨だった。
かつてのように重くはない。まるで“恵み”のような雨。
ユウは町のホールで、小さなピアノ教室を開いた。
子どもたちが、自由に鍵盤を叩き、笑いながら旋律を紡いでいく。
音は、もう“封じるもの”ではない。
祈るためでも、忘れられないためでもない。
音は、生きている者が、未来へつなぐものだ。
ユウがふと窓の外を見ると、雨の中に立つ小さな女の子が、こちらを見ていた。
長い黒髪。灰色の制服。
だが、それは“ナギサ”ではなかった。
もっと幼く、どこか新しい存在だった。
彼女は一言だけ口を動かした。
——「ありがとう」
そう言って、静かに微笑んだ。
まるで、音の中から生まれた命のように。