鍵山優真の振付師『インスピレーションは宮沢賢治「アメニモマケズ」だった』ローリー・ニコルが語る『フィギュアスケートの高潔さを守る』使命

浅田真央、カロリーナ・コストナー、デニス・テンやパトリック・チャンや宮原知子など多くのトップ選手を、振付を通して育ててきた振付師のローリー・ニコル。今やスケート界のレジェンドであるニコルが、カナダから電話での独占取材に応じて鍵山優真について語ってくれた

 

  初のタイトルを目指して全日本選手権に挑戦する鍵山優真。1年前は左足首の怪我を抱えたまま出場し、8位に終わった

 

『ユマ(鍵山)はスケートが好きすぎるから、どうしても滑りたかったのでしょう。思い通りに滑れないことは、彼にとって耐えがたいほどつらかったと思います』とニコルは語り始めた

 

『でもそれによって彼は、アスリートは休む必要があるときは休まなければならないということを学んだんです』

 

『あらゆる芸術に関するビデオをユマに見てもらった』

  ニコルが振り付けたフリー『Rain,In Your Black Eyes』を2年持ち越してGPフランス大会で3位、NHK杯では優勝し、GPファイナルでは3位に入って初のメダルを手にした。ジャンプの難易度は怪我をする前よりも落としているとはいえ、演技のクオリティは以前よりも明らかに成熟している

 

『彼が回復中に私はズームミーティングで、滑れなくても成長することはできるのよ、と話したんです』。それはどういう意味なのだろうか

 

『私はアートイマージョンと呼んでいますが、モダンダンス、バレエ、過去のスケートの映像だけでなく、造園などあらゆる分野の芸術に関するビデオを順番にユマに送って見てもらいました』

 

 Immersionとは没頭すること質の高い一流の芸術に浸り、それらを理解し、知識を増やして目を肥やすことに専念させたのだという。イリ、キリアン、マーサ・グラハムなどのモダンバレエの巨匠たちの作品、1976年インスブルック五輪チャンピオン、ジョン・カリー映像なども見せた

 

ニコルが語る『理想的なスケーティング』

  ニコルはかつて、男子フィギュアスケート界に初めてクラシカルバレエを持ち込んだと言われるジョン・カリーのショーのメンバーの一人だった。彼から伝授された『フィギュアスケートの表現力というのは、滑り、足元から始まらなくてはならない』という信念の元、氷にブレードで様々な図形を描くフィギュアを必ず生徒たちに教える

 

『図形を描くうちにスケーターがはっと気付く瞬間が、必ずあるんです。身体の使い方、重心のコントロールなどのコツをつかみ、氷と靴と自分の身体が一体になっている、という感覚を得た時です』

 

  スケーティングの巧みさといえば、必ず名前が挙がるパトリック・チャンとカロリーナ・コストナー。二人ともニコルが若い時から手塩にかけて育ててきたスケーターだった

 

『今のユマも、まるでスケートとブレードが身体の一部のようになっているでしょう。それが理想的なスケーティングなんです』

 

『ユマは純粋さを体現したような人』

  鍵山の振付は2020年からやっているが、パンデミック中のため初めて直接会ったのは2022年の5月だった

 

『ユマは純粋さを体現したような人。そして鍵山(正和)コーチが仕込んだ基礎のスケーティングが素晴らしいと思いました。でも当時の彼は、まだそれほどボキャブラリーを持っていなかったんです』

 

  彼女の言うボキャブラリーというのは、表現方法の多様さ、という意味だろう

 

『でも彼は、あっという間に吸収していきました。まるでスノーボールが転がりながら大きくなっていくように、急激に成長していったんです』

 

フリーのインスピレーションは宮沢賢治『雨ニモマケズ』

  フリー『Rain,In Your Black Eyes』は、メランコリックな美しいピアノで始まる。淡々としたメロディの繰り返しが、鍵山の端正な滑り、肩甲骨からすっと伸びる腕、関節の一つ一つを丁寧に使った伸びやかな動きを引き立てていく

 

  このプログラムは、どのようなものを表現しているのか

 

『インスピレーションは、ケンジ・ミヤザワの詩「雨ニモマケズ」なんです』

 

  いきなり予想外の名前が出てきて、驚いた

 

『どうしてそんな作品を知っているんですか?』と聞くと、笑いを含んだ声で『私は色々と勉強しているのよ』とニコルは答えた。一つ一つの動きが具体的なストーリーを語っているわけではない。だが弱いものに寄り添いながら、最後まで諦めない意志の力を表現しているのだという

 

『フィギュアスケートの高潔さを守っていく』

『私にとって、フィギュアスケートの高潔さを守っていくというのはとても大切な事なんです』。そういうニコルにとって、もはや振付とは表面的な美しい動きと得点のみを追求していくものではないのだという

 

『それは真実か、必然性があるか、正しいタイミングか、そして優しさがあるか。こうしたことを考えながら、振付をしているんです』

 

  ニコルが引用したのは、13世紀ペルシャの詩人ルーミーに遡ると言われている、スピーチの心得とされる箇条だ。鍵山の滑りから『巧い』『美しい』以上の心に刺さる何かが伝わってくるのは、ニコルのこうした哲学を本人が本能的に理解しているからに違いない

 

  だが競技として考えると、今の男子は6種類の4回転を跳べるイリア・マリニンのような選手と戦っていくのが現実である

 

『アスリートはルールを作るわけではないので、自分がコントロールできることに集中するしかありません。彼自身がなれるベストな自分になってほしいと願うのみです』

 

『私たちにできるのは、優れたお手本を率先して見せること』

  フリー『Rain,In Your Black Eyes』でもっとも印象的なのは、後半のクライマックスに差し掛かるコレオステップである。まさに氷と、ブレードと鍵山の身体が一体となり、波が押し寄せて盛り上がってくるかのような迫力を醸し出す

 

『あのステップが、どれほど難しいのか、全ての人に理解できるわけではありません』

 

  ニコルは、ジャッジに対する不満とも受け止められる言葉をポツリともらした

 

『でも私たちにできることは、優れたお手本を率先して見せることのみです』

 

  パンデミック前は、ISUの依頼で国際ジャッジたちにコンポーネンツのセミナー講師もやっていた

 

『ベテランの優れたジャッジたちが引退していったのは残念ですが、若いジャッジたちも学ぶことに真剣です。私のセミナーを聞いて涙ぐんでくれた人もいます。大会の前夜は緊張で眠れないという人もいるほど、真摯に向き合ってくれているので』

 

コストナーのコーチ就任のきっかけ

  今季からニコルの愛弟子であるカロリーナ・コストナーが鍵山のコーチに就任したのも、彼女が振付のアシスタントをしたことがきっかけだった

 

『カロリーナは私の振付を深く理解しているので、私の代わりに氷の上に立って指導をしてくれました。彼女とはもう長い間一緒に振付作業をしてきたので、視線をちらりと交わすだけで、こちらの意図をすぐに理解してくれるんです』

 

  春のイタリアでの合宿後、鍵山からコストナーにコーチの依頼が行ったのだという

 

『鍵山コーチはとても礼儀正しく、理解力が深く、オープンな人です。一方カロリーナはこの前まで現役でしたので、選手の気持ちがよくわかる。誰も気付いていないところまで、彼女は細やかに配慮してフォローしています。鍵山センセイとカロリーナは、素晴らしいコーチチームだと思います』

 

フィギュアスケートの″スポーツと芸術”

  イタリアの合宿中には、不思議な運命を感じることもあった

 

  ニコルがコストナーと一緒にエキシビションの作品を振り付ける際に、ジュール・マスネによるオペラ『ウェルテル』のアリアを選んだ。『ここはイタリアだからオペラの公演をしていないかと調べてみたら、何とベローナで44年ぶりにこの作品を上映中であることがわかったんです』

 

  早速鍵山と同行して、見に行ったのだという

 

『ユマにとって、オペラを生で見るのは人生で初めてだったんです。彼はほとんど身動きせずに、食い入るように最初から最後まで見ていました』

 

  スポーツであり、同時に芸術であるといわれるフィギュアスケートでも、ニコルほど芸術的な理解と教養が深い振付師は稀有で貴重な存在だ。そのニコルに惚れ込まれた鍵山優真が、この先どのようなスケーターに育っていくのか、楽しみである