大谷翔平ドジャースが″名門中の名門”たるワケ『ド軍でなければ僕のキャリアは…『だから、言い訳できないんですよ』日本人の先輩が刻んだ足跡

  ドジャース大谷翔平、誕生!  パイオニア・野茂英雄を皮切りに、数々の日本人メジャーリーガーが所属してきた名門球団は、どのようなチームなのか。雑誌『Sports Graphic Number』『Number Web』に掲載されたレジェンド、大谷にとって″先輩”となる日本人選手の言葉とともに、ドジャースの背景を知る

 

<名言1>

ノモが、MLB各球団が日本の選手についてのスカウティングをもっと真剣に行ない、契約を結び始めるための″本当の扉”を開くことになったんだ

(ノーラン・ライアン/Number804号  2012年5月24日発売)

 

◇解説◇

  大谷翔平の新天地は、メジャー屈指の名門・ロサンゼルス・ドジャースに決まった

 

  契約合意に至ったその内容は10年総額7億ドルと伝えられ、現在のレートに換算すると約1015億円というもの。MLBどころかリオネル・メッシがバルセロナ時代に結んだ4年6億7400万ドルを上回る、プロスポーツ史上最高額での契約となったとも。その破格ぶりに世界一奪回を目指すドジャースの本気度がわかる

 

パイオニア野茂英雄とドジャースの幸福な関係

  ドジャースと日本人プレーヤーとの関係が始まったきっかけとして、絶対に忘れてはいけない人物がいる。『ドクターK』こと野茂英雄である

 

  近鉄バファローズ入団後、4年連続最多勝と最多奪三振、ルーキーイヤーに沢村賞を獲得するなど圧倒的なピッチングを見せた野茂だったが、球団と折り合いが合わず任意引退となる。紆余曲折ののちに選んだ選択肢はMLBとなり、95年にドジャースとマイナー契約を結んだ

 

  野茂の前にNPBを経験した日本人メジャーリーガーは村上雅則のみで、それも1960年代のこと。環境が大きく異なるアメリカの地でどうなのか……と懐疑的な見立てばかりだったというが、野茂は代名詞のトルネード投法でアメリカの強打者から三振を次々と奪い(野球のスコアで三振をKと記すことから『ドクターK』に)、その好投はストライキによって人気低下が叫ばれたMLBの″救世主”となった

 

  95~98年、2002~04年の2期にわたってドジャースに所属した野茂は、計5回の2ケタ勝利を記録した。その活躍ぶりに、メジャー伝説の投手ライアン氏も称賛を送り、日本人選手がMLBに挑戦するきっかけを作った。その″扉”となったドジャースに、大谷も在籍することになる

 

7度の世界一、地区優勝の常連でいられるワケ

<名言2>

ドジャースでなければ、僕のキャリアはもっと早くに終わっていたでしょう

(斉藤隆/Number903号  2016年6月2日発売)

 

◇解説◇

  ドジャースは1833年創設とメジャーで最も伝統のある球団の1つで、1958年にニューヨークのブルックリンからロサンゼルスへと移転してきた

 

  ナショナルリーグ西地区での通算リーグ優勝は24回、ここ10年で地区優勝は9回、ワールドシリーズも通算7度制して世界一に輝いているなど、″名門中の名門”と評しても差し支えないだろう。このチームが勝利を積み重ねられる要因として、野球をするための最適な環境と勝利に対する情熱の強さが挙げられる

 

  それはかつてドジャースに所属した日本人選手も声をそろえている。右ひじの手術をした大谷は、2025年の投手復帰を目指してトレーニングも並行すると予想される中で――ケーススタディとなるのは、06年にドジャースとマイナー契約を結んだ斎藤である

 

  NPB時代の斎藤はケガに苦しんだものの、西海岸特有の温暖な気候によって調整を進めた。そこからメジャー昇格すると、1年目にして72試合登板24セーブ、防御率2.07という素晴らしい成績を残したのだった

 

  選手補強と投資を惜しまないフロント陣に、多士済々の監督コーチ陣と同僚たち。まさに最高の環境が整っているが、それは勝利への渇望が非常に大きい証でもある。02~04年にドジャースに所属した石井一久の言葉が端的に言い表している

 

『だから、選手は言い訳できないんですよ』

 

『優勝を狙える』超一流の仲間が大谷を待つ

<名言3>

本当に優勝を狙える球団だというのが一番

(黒田博樹/Number695号  2008年1月10日発売)

 

◇解説◇

  ドジャースで長年にわたってエースとして君臨し続けたレジェンド、クレイトン・カーショー。今シーズン、大リーグ通算200勝を飾ったサウスポーとの関係性で知られるのが、黒田である

 

  広島カープを背負って投げた黒田が、メジャー挑戦のスタート地点として″勝てる球団”ドジャースを選んだのは2008年のこと。当時の年齢で″33歳のオールドルーキー”となった黒田は優勝を求めて太平洋を渡ったわけだが、そのチームにいたのは同じルーキーという立場のカーショーで、キャッチボール相手として厚い信頼を育んだことで知られる。13歳の年齢差を超えた切磋琢磨が、その後の成績を見ればお互いにとって好影響を与えたことは容易に想像がつく

 

  現在カーショーはフリーエージェントとなっているが、もちろん彼だけのチームではない

 

  打線を見てもWBC決勝で対峙したスター野手のムーキー・ベッツ捕手(や)ウィル・スミス、さらにはフレディ・フリーマンら強打者ズラリとそろっている。新たな超一流の仲間と、大谷はどのような″ドジャースでのふれ合い”を見せるのか