現在開催されている東京五輪。東京五輪と同じ状況下で行われていた五輪があったようです(一部を抜粋して紹介しますね)
今日と同じ状況だった、1920年アントワープ大会
ちょうど100年前、1920年に開催された第7回アントワープ大会は、今日と同じ状況だった。『人類最悪のパンデミック』と称される『スペイン風邪』の世界的な蔓延である
スペイン風邪は第一次世界大戦下の1918年3月、米国カンザス州の陸軍基地で発症したとされる。米国の欧州戦線投入によりヨーロッパ全土に拡大。南北アメリカは当然、北アフリカから中東、革命進行中のロシアや中国、インド、そして日本に広がり、オーストラリアに至る。第1波は比較的穏やかであったが、夏から秋にかけた第2波で死者が急増。1919年上半期まで続いた
歴史人口学者の速水融著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ-人類とウイルスの第一次世界戦争-』(藤原書店)によれば、当時の世界人口の約3割にあたる5億人が感染し、実に4500万人の死者が出たとされる。ほぼ半年遅れで波を迎えた日本では1921年まで感染が続き、人口の約半分にあたる2400万人が感染し、39万人が亡くなったと推計されている
なぜ、アントワープ大会は開催されたのか?
新型コロナウイルスの世界的な感染者数については、米国ジョンズホプキンス大学の集計が連日、公開されている。10月19日に4000万人を突破、死者も111万人を超えた。
当時との社会環境の違い、新型コロナウイルスの感染拡大が終息していない状況では単純に比較できないが、改めてスペイン風邪がいかに猛威をふるったか、想像に難くない。のちに、スペイン風邪は『H1N1亜型インフルエンザウイルス』によるものと判明した
余談ながら、アメリカ発症にも関わらず『スペイン風邪』と呼ばれるのは、第1次大戦下で国が一斉に情報を機密扱いとしたことに対し、中立国スペインの状況ばかり大きく報じられたことによる。今日、中国がことさら『武漢発症』に敏感な態度を取り続ける理由でもある。また、当時の新聞をくると、対策として講じられているのは『患者の隔離』、『密集地の回避』 『マスクの着用』さらには『休校』や『イベントの中止』など、現在と何ら変わるところはない
それにしても、スペイン風邪がヨーロッパで猛威をふるうなか、なぜベルギーのアントワープで第7回オリンピック競技大会が開催できたのだろう素朴な疑問をもつ
ひとつは1920年までにヨーロッパでの感染が収束していたことがあげられよう。全世界での収束はみられなくても、欧米で収まっていれば、それでよかった。今日と異なり、オリンピックは『欧米のもの』といわれた時代である
また、ベルギーは奇跡的に感染拡大を免れた国だったとされている。確たる傍証は持たない。ただ、東洋文庫所蔵の内務省衛生局編『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』を紐解くと、『白耳義(ベルギー)』の独立した記述はなく、わずかに『独逸(ドイツ)』の記載の中に『白』として書かれているにとどまる。フランス、スペイン、イタリア、オランダ、ポルトガル、そして英国、米国など世界の国々を挙げて言及されているなかで、その名がみられないのは大きな影響のなかった証明ではなかろうか…
第一次世界大戦の影とクーベルタンの闇
むしろ、この国には第一次世界大戦の影が色濃く落ちていた
第一次大戦は1914年7月28日、当時のオーストリア領サラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)でオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人の民族主義者に暗殺されたのが発端である。オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、セルビアの後ろ盾であるロシアが総動員を出して対峙。オーストリア側に同盟を結ぶドイツがつき、一方ロシアにはフランス、英国が加勢し、戦火が広がった。ベルギーは永世中立国としての立場を貫いていた。しかし、それを無視したドイツの侵攻によって占領下におかれ、国土を蹂躙されるなど大きな被害を被ったのだ
1918年11月11日、長きに及んだ戦が止んだ。その間、1916年にドイツのベルリンで開催が予定されていた第6回オリンピックが中止された。1912年第5回ストックホルム大会に日本人初の出場を果たしたものの、リタイア、生活のすべてをかけて屈辱を期していたマラソンの金栗四三が悲嘆の涙にくれたことはよく知られている
そんなアントワープにオリンピック開催の道を開いたのは、IOC、いやIOC会長に復帰したピエール・ド・クーベルタンの強い意向にほかならない
平和を希求する『オリンピック・ムーブメント』を提唱してきたクーベルタンには、ぽっかりあいたIOCとの空白がある。それは見事に第1次大戦と重なる
※オリンピックムーブメントとは?
スポーツを通じて、友情、連帯、フェアプレーの精神を培い相互に理解し合うことにより世界の人々が手をつなぎ、世界平和を目指す運動
1915年4月、クーベルタンはパリの自宅に置いていたIOC本部をスイスのローザンヌに移す。戦火を避けるための移動であった。その翌1916年、彼は突如として信頼するIOC委員、ゴドフロワ・ド・ブロネを会場代理に指名し、オリンピックに関わる活動を休止してしまう。そして自ら志願しフランス軍に従軍。ドイツとの戦いに身を投ずる。1863年1月1日生まれ。50歳を超えた彼が前線に送られることはもちろんありえず、戦闘意欲高揚のために学校などを巡り、いわゆる銃後教育をになった
『IOCは、軍人に率いられるべきではない』とブロネ会長代理を託した思いは理解できる。なぜ“50歳を過ぎた反乱”を起こしたのか。その意図がわからない。祖国の危機に立ちあがる貴族としての矜持なのか、反戦思想と指弾されて著書が発禁処分になったことへの抵抗か。それとも、ベルリン大会開催によりドイツの好戦的傾向を抑制するねらい、つまり『オリンピックによる平和』が絶たれた絶望だったのだろうか
1919年3月、クーベルタンは何事もなかったように会長職に戻る。すでに終戦と同時に活動を再開。ベルギー出身のIOC委員で後の会長、アンリ・ド・バイエ=ラツールを訪れ、ベルギー政府に第7回大会の開催を持ち掛けている。そして1919年4月、ローザンヌで開いたIOC総会でアントワープを1920年大会開催都市に選出するのだった
