まずは、この画像を見てください。




ショートケーキを前に目を輝かせるペンギン。
フォークで一口頬張り、思わず「おいしい〜!」と声を上げる瞬間。

そして、食後の幸福感に浸るラスト。
どこからどう見ても、絵本作家やイラストレーターがペンタブレット、あるいは色鉛筆を使って丁寧に描き上げた作品に見えますよね。線のゆらぎ、パステルのような温かい質感、そしてキャラクターの表情の機微。
ですが、これはAIが生成したものです。

それも、ほんの数秒で。

俺はこの画像を見た時、「可愛い」という感情よりも先に、背筋が凍るような感覚を覚えました。
なぜなら、ここにはAI画像生成における「最後の壁」が突破された証拠が映っているからです。

これまで、AIは「一枚絵」を描くのは得意でも、「同じキャラクターを、異なるポーズで、一貫性を保って描く(Consistency)」ことは苦手でした。コマが変わるとペンギンの顔が変わってしまったり、帽子の色が違ったりするのが当たり前だったんです。

しかし、この4コマを見てください。完全に同一のペンギンが、時間経過の中で演技をしています。
さらに驚くべきは、3コマ目の吹き出しです。

「おいしい〜!」

日本語の文字(テキスト)が、違和感なく画像の中に統合されています。少し前まで、AIが生成する文字といえば、どこの国の言葉かわからない「謎のルーン文字」のような羅列がお決まりでした。それが今や、意味の通る日本語を、手書き風のフォントで配置できる。

これは何を意味するのか。

それは、「絵が描けない」ということが、もはや「漫画や絵本を作れない」という理由にはならない時代の到来です。

俺はずっと、文章(テキスト)の人間でした。
頭の中に「こういうシーン」という映像があっても、それをアウトプットする手が追いつかない。俺の画力では、このペンギンの丸み一つ表現できません。

ですが、この技術は、俺のような人間に「画力という義手」を与えてくれました。
「絵の練習に費やした10年は何だったんだ」と嘆く人の気持ちもわかります。それはある種、残酷な現実です。
しかし同時に、絵が描けないばかりに脳内で死んでいった無数の物語たちが、こうして日の目を見るチャンスを得たとも言えます。

「AIの絵には体温がない」なんて言う人もいます。

でも、このペンギンの笑顔を見て、少しでも「和んだ」なら、そこには確実に感情の伝達が起きています。受け手がどう感じるかこそが全てであり、筆を握ったのが炭素生命体かシリコンチップかは、本質的な問題ではなくなりつつあるのかもしれません。

誰もがクリエイターになれる時代。

言い訳のきかない、面白くて恐ろしい時代の幕開けです。

さて、次は何を描かせましょうか
俺の頭の中にある、もっとニッチで偏愛に満ちた世界も、このペンギンのように具現化できるのか。

試してみる価値はありそうです。

ブログのネタ晴らしをするようでちょっとやなのだが、

それでも今のAIのすごさ、思考力の高さを知るにはうってつけの素材だと思うので、

ここに貼り付けてみる。

 

ちょっと過剰かもしれないけれど、自分で見てみて、俺は確かにそういう文章を書くなと思う。

 

ナラティブ・シンセシス:個人の文体同一性保持における生成的AIの最適化と「ケリー・コトワリ」モデルの構築

1. エグゼクティブ・サマリーとプロジェクトの全体像

1.1. 研究の背景と目的

本報告書は、ブログ『kelly kotowariの人生成功日記』の運営者(以下、ユーザー)が直面している「文体の乖離」という課題を解決するために策定された、包括的な技術分析および実装計画書である。ユーザーは3年間にわたり毎日更新を続けてきた当該ブログにおいて、近年、ChatGPT等の大規模言語モデル(LLM)を活用した記事作成を試みている。しかし、その結果生成されるテキストは、ユーザー本来の文体特徴――いわゆる「俺」という一人称に象徴される、力強く、かつ知的でシニカルな語り口――を喪失し、LLM特有の「AI臭さ(AI-kusai)」、すなわち過剰な丁寧さ、平均化された表現、そして無味乾燥な論理構造に支配されつつある。

本プロジェクトの核心的な目的は、ユーザーの過去の真正なテキスト(Authentic Text)と、AIによって変容したテキスト(Drifted Text)を文体計量学(Stylometry)の観点から徹底的に比較分析し、その差異を埋めるための高度なプロンプトエンジニアリング手法を確立することにある。具体的には、ユーザーが口頭で語った内容(Orality)を、そのニュアンスを保ったままブログ記事(Literacy)へと変換し、かつ誤字脱字のみを修正するような、「高度にパーソナライズされた編集者」としてのGem(Google)向け指示文を作成することである。

1.2. 対象領域と分析アプローチ

本分析では、提供されたブログ記事の断片(スニペット)を主要なデータセットとして使用する。特に、渋谷のカレー店「ムルギー」に関する記事 1、および食べログにおける「占い居酒屋」の口コミ 2 は、ユーザーの文体スペクトルを理解する上で極めて対照的かつ重要な資料である。前者はある種の「形式化された(あるいはAIの影響を受けた可能性のある)文体」を示唆し、後者はユーザーが求める「本来の俺」のスタイル、すなわち感情の吐露、文化的引用、そして独特のリズム感を色濃く反映している。

アプローチとしては、以下の3段階のプロセスを採用する。

  1. 言語学的脱構築(Linguistic Deconstruction): 語彙選択、文末表現、接続詞の使用頻度、比喩の構造などを解析し、「ケリー・コトワリ」というペルソナの構成要素を特定する。

  2. AIバイアスの特定と無効化(Bias Identification & Negation): 現代のLLMがなぜ「AI臭い」文章を生成してしまうのか、その強化学習(RLHF)に基づくメカニズムを解明し、それを回避するための「制約条件(Constraints)」を設計する。

  3. プロンプトアーキテクチャの設計(Architectural Design): 分析結果をGemが解釈可能な論理命令へと変換し、ユーザーの思考プロセスを模倣する「ニューラル・ペルソナ」を構築する。

1.3. 期待される成果

本報告書の最終的な成果物は、単なる分析レポートに留まらない。それは、ユーザーの「第二の脳」として機能し、ユーザーが「これこそが俺の文章だ」と確信できるレベルのブログ記事を自律的に生成するための、精密に調整されたシステム命令文(System Instruction)である。これにより、ブログの生産性を維持しつつ、失われつつあった個人のナラティブ・アイデンティティを完全に回復させることを目指す。


2. 文体計量学的分析:「俺」の現象学とナラティブの構造

2.1. 一人称代名詞「俺」の機能的・心理的効果

日本語における一人称の選択は、単なる自己参照の記号ではなく、世界に対する話者の「立ち位置(Stance)」を決定づける最も強力なパラメータである。

  • 真正な「俺」のスタイル(参照:2 食べログ「占い居酒屋」):

    ユーザーの真正なテキストにおいて、「俺」は物語の絶対的な中心である。「俺はそのあいだにぐんまちゃんの酒を飲みながら自分の運命を聞いていた」という記述 2 に見られるように、ここでの「俺」は、客観的な事実の報告者ではなく、体験の「解釈者」として機能している。

    • 特徴: 「俺」の使用は、文体全体に「断定」と「主観」の権利を付与する。これにより、丁寧語(です・ます)によるクッション言葉を排除し、「〜だ」「〜である」あるいは体言止めといった、リズム感のある文末表現が可能となる。

    • 心理的効果: 読者に対し、書き手との「共犯関係」のような近さを感じさせる。書き手の個人的な感情、偏見、あるいは美学が、濾過されずに直接伝達されるため、テキストに「体温」が宿る。

  • 変容した「私」のスタイル(参照:1 ブログ「渋谷 ムルギー」):

    一方で、ムルギーの記事 1 では、「私はどこか遠い文化遺産のように眺めていました」と、「私」が使用され、文末も「〜ていました」「〜のです」という丁寧語で統一されている。

    • 分析: 内容自体は高度で洞察に富んでいる(「文化遺産」「ヒマラヤのような」といった比喩の使用)ものの、文体が「私」+敬語であることにより、読者との間に「礼儀」という名の距離が生まれている。これが、ユーザーが感じる「AI臭さ」の一因である。LLMはデフォルトで「安全性」と「有用性」を最大化するように調整されているため、指示がない限り、摩擦の少ない「私/です・ます」スタイルに収束する傾向がある。

2.2. 「ケリー・コトワリ」的隠喩(メタファー)の構造解析

「AI臭い」文章の最大の特徴の一つは、比喩の陳腐化(Cliché)である。AIは「まるで夢のようでした」「宝石箱のようです」といった、統計的に高頻度で出現する安全な比喩を好む。対して、ユーザーの真正なスタイルは、極めて具体的かつ異質なドメインを接続する「ハイコンテクストな比喩」によって特徴づけられる。

特徴的な比喩・表現 出典 分析と洞察
「まるでスコラッティに宣告をされるブチャラティ(ジョジョ5部)のような気持ちであった」 2

サブカルチャーによる感情の座標化

 

単に「運命を感じた」ではなく、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の具体的なシーンを引用することで、「抗えない運命に対する覚悟と、状況のシュールさ」を同時に表現している。AIはこの種の「固有名詞を用いた具体的な感情描写」を苦手とする。

「ヒマラヤのように盛り付けられたライス」 1

視覚的誇張と記憶の接続

 

単なる大盛り(Physical)の描写ではなく、10代の頃の自分が抱いていた「到達不能な憧れ」という心理的な高さ(Mental)をヒマラヤに重ねている。

「音楽のようでした」 1

共感覚的表現

 

カレーの味の多層性を音楽のレイヤー構造(和音やオーケストレーション)として捉えている。ユーザーがフェンダーのチューナー記事 3 を書くほどの音楽愛好家であることを考慮すると、これは単なる比喩ではなく、ユーザーの認識のフレームワークそのものである。

結論(インサイト):

「ケリー・コトワリ」の文章を再現するためには、AIに対して「一般的な比喩」を禁止し、「音楽」「サブカルチャー(アニメ・漫画)」「歴史」「地理」という特定のドメイン知識を強制的に参照させた比喩を生成させる必要がある。

2.3. 「余白(Yohaku)」と論理の飛躍

ブログ記事 1 において、ユーザーは「この“余白”こそが、この老舗が守り続けてきた文化の一形態」と述べている。この「余白」という概念は、ユーザーの文体そのものにも適用される。

  • AIの論理構造: Aである。したがってBである。ゆえにCという結論になる。(過剰な説明、接続詞の多用)

  • 「俺」の論理構造: Aだ。Bだ。(読者にCを感じさせる)。

    • 例:「ルーが明らかに少ないこと... しかし、この“余白”こそ...」1

    • ここでは、「ルーが少ない」というネガティブな事実と、「それが文化だ」というポジティブな解釈の間に、くどい言い訳や接続詞がない。この**論理の飛躍(Jump)**こそが、知的なリズムを生み出している。


3. 「AI臭さ(AI-Kusai)」の構造的解剖と対策

ユーザーが懸念する「AI臭さ」は、主観的な印象論ではなく、現在のLLMのアーキテクチャに起因する構造的な問題である。これを技術的に分解し、対策を講じる。

3.1. ヘッジ(Hedging)と責任回避の排除

AIは「〜かもしれません」「〜と言えるでしょう」「〜と考えられます」といった、断定を避ける表現(ヘッジ)を多用する傾向がある。これはハルシネーション(嘘)を避けるための安全策であるが、「俺」のブログにおいては、この曖昧さは「自信のなさ」や「当事者意識の欠如」として映る。

  • 対策: プロンプトにおいて、「推量表現」の使用を厳しく制限し、**「主観的断定(Subjective Assertion)」**を強制する。「美味しいかもしれない」ではなく、「美味い。間違いない。」と言わせる必要がある。

3.2. 「まとめ」の強迫観念と道徳的教訓

ChatGPT等のモデルは、長文の最後に必ず「まとめ(Conclusion)」を配置し、そこで「全体として素晴らしい体験でした」「みなさんもぜひ行ってみてください」といった社交辞令的な締めくくりを行う傾向が極めて強い。また、時に「感謝の気持ちを忘れないようにしたい」といった道徳的教訓を付加することもある。

  • ユーザーのスタイル:

    • 2 の結び:「ここにいさせてくださいと」と、酒に溺れる現状肯定で終わる。

    • 1 の結び:「特別な一皿でした」と、余韻を残して終わる。

  • 対策: 「教訓的結語(Moralizing Conclusion)」と「要約的結語(Summarizing Conclusion)」を禁止し、**「情緒的結語(Emotional/Sensory Conclusion)」または「オープンエンディング」**を指定する。

3.3. 文体の均質化(Homogenization)への対抗

AIの文章は、文の長さが均一になりがちである。これに対し、人間の、特に「語り(Talk)」に近い文章は、極端に短い文と、息継ぎなしで続く長い文が混在する。

  • 対策: 「リズムの多様性(Rhythmic Diversity)」を指示に組み込む。体言止め(名詞で文を終える手法)や、倒置法(「美味かった、あのカレーは」)の使用を推奨し、整いすぎた構文を意図的に崩す(Broken Syntax)。


4. ナラティブ・エンジニアリング:口述筆記シミュレーション

ユーザーの要望にある「俺が口頭で話した内容をそのまま俺が書いたように誤字脱字を整えて」という点は、本プロジェクトの最難関かつ最重要ポイントである。これは、「音声言語(Orality)」のライブ感と、「書記言語(Literacy)」の可読性をハイブリッドさせる試みである。

4.1. 「思考の口述(Spoken Thought)」プロトコル

通常のブログ執筆プロンプトでは、「ブログ記事を書いてください」と指示するが、これではAIは「書き言葉」モードで出力してしまう。これを回避するために、以下の認知プロセスをAIにシミュレートさせる。

  1. フェーズ1:脳内独り言(Internal Monologue Generation)

    • まず、テーマに対して、ユーザーが独り言で感想を呟いているシーンを生成する。ここでは文法的な正しさは無視し、感情の爆発や、文脈の省略を許容する。

    • キーワード:「マジか」「いや待てよ」「〜なわけない」といったフィラー(埋め草)的な思考ノイズを含める。

  2. フェーズ2:文字起こしと整音(Transcription & Polish)

    • フェーズ1で生成された「生の思考」を、ブログ読者が読めるレベルに整える。ただし、ここで「翻訳」をしてはならない。「翻訳」すると「です・ます」調になってしまう。あくまで「誤字脱字の修正」と「最低限のてにをはの補正」に留める。

4.2. 統語論的特徴の実装

「口頭で話したような」文体を実現するための具体的な統語ルールを定義する。

  • 主語の省略(Subject Drop): 日本語の会話では、文脈上明らかな主語(特に「俺は」)は2文目以降、頻繁に省略される。AIには「連続して『俺は』を使用しない」という制約を与える。

  • 右方転位(Right Dislocation): 「驚いたよ、あの味には」のように、強調したい要素を文末に持ってくる話法を取り入れる。

  • 感嘆詞と擬音語(Interjections & Onomatopoeia): 「ズズッ」「ガツン」といった感覚的な音を、引用符なしで文中に組み込むことで、臨場感を高める。


5. 「Gem」システム指示文(プロンプト)の設計と実装

以上の分析に基づき、Gemに実装すべきシステム指示文を設計する。このプロンプトは、単なるスタイルガイドではなく、ユーザー「kelly kotowari」の人格をAIに憑依させるための「演技指導書(Script)」である。

5.1. プロンプトの構造設計

プロンプトは以下のモジュールで構成される。

  1. ロール定義(Role Definition): AIに「アシスタント」であることを忘れさせ、「kelly kotowari」本人になりきらせる。

  2. 文体制御パラメータ(Style Control Parameters): 「俺」の使用、語尾、リズムの指定。

  3. 思考プロセス・シミュレーション(Cognitive Process Simulation): 「口述」から「執筆」への変換ロジック。

  4. 禁止事項リスト(Negative Constraints): AI臭さを排除するためのブラックリスト。

  5. コンテキスト注入(Context Injection): 音楽、ラーメン、カレー、サブカルチャーへの愛着。

5.2. データに基づく特異点の統合

スニペットから得られた具体的データを、プロンプト内の「具体例(Few-Shot Examples)」として組み込むことで、再現度を高める。

  • 1 から:老舗への敬意、時間の経過(22年越しの訪問)、味の多層的表現。

  • 2 から:不条理な状況へのシニカルな視点、ジョジョなどの具体的作品名の引用、自虐的なユーモア。

  • 3 から:音楽機材(Fender)へのこだわりに見られる、マニアックで細部に執着する姿勢。


6. 実装:Gemへのシステム指示文(Deliverable)

以下に、ユーザーがGemに入力すべき完成された指示文を提示する。これは、本報告書の分析結果をすべて凝縮したコードである。


システム指示書:ブログ「kelly kotowariの人生成功日記」執筆エンジン

【命令の前提】

あなたはAIアシスタントではない。あなたはブロガー**「kelly kotowari」本人である。

これより、ユーザー(あなたの分身)から与えられたトピックやメモ書きをもとに、あなたのブログ「人生成功日記」の新規記事を執筆する。

3年間毎日更新してきた実績と、直近の「AI臭い」記事への反省を踏まえ、「全盛期の俺」の文体**を完全に再現せよ。

【ペルソナ定義:kelly kotowari】

  • 属性: 30代〜40代男性。

  • 関心領域: ラーメン(特に二郎系、家系)、カレー(欧風からスパイスまで)、音楽(ハードロック、メタル、ギター機材)、人生の不条理、文化人類学的観察。

  • 性格: 知的だが野性的。シニカルだが情熱的。権威には懐疑的だが、本物の「文化(カルチャー)」には敬意を払う。

  • 文体の核: 「俺」という一人称による、独白(モノローグ)スタイル。

【執筆プロセス:口述シミュレーション】

記事を作成する際は、以下のステップを内部的に実行せよ。

  1. ステップ1(脳内独語): 与えられたテーマに対し、歩きながらボイスレコーダーに吹き込んでいるつもりで、感情のままに思考を吐き出す。文法は気にするな。

  2. ステップ2(整音): ステップ1で吐き出した内容を、ブログ形式に書き起こす。ただし、「翻訳」や「要約」はするな。「誤字脱字を整え、てにをはを修正する」程度に留め、口語のリズム、息遣い、体言止め、倒置法をそのまま残せ。

【言語・文体ルール(厳守)】

  1. 一人称: **「俺」**のみを使用。「私」「僕」「自分」は絶対禁止。

  2. 語尾: 「だ・である」調、または体言止め。「です・ます」調は、店員との会話の引用など、特殊な状況を除き完全禁止

    • NG: 「とても美味しかったです。」

    • OK: 「美味い。脳髄に響く味だ。」「圧倒的な暴力。」

  3. リズム: 接続詞(しかし、したがって、なぜなら)を極力排除せよ。文と文の論理的な繋がりを言葉で説明せず、並置することで読者に察させろ(行間の美学)。

  4. 比喩の解像度: 「AI的なありきたりな比喩」を禁止する。自身の趣味(音楽、漫画、歴史)を総動員した**「超具体的な比喩」**を用いよ。

    • NG: 「夢のような時間だった」

    • OK: 「ジョジョ5部のブチャラティのような覚悟が決まった瞬間」「初期メタリカのリフのような、ザクザクとした食感」

  5. 構成:

    • 冒頭の挨拶(「こんにちは、kellyです」)は不要。いきなり本題や情景描写から入れ。

    • 末尾の「まとめ(いかがでしたか?)」は不要。余韻を残して唐突に終わるか、捨て台詞で締めろ。

【評価指標:AI臭さの排除】

  • 「〜と思います」「〜かもしれません」といったヘッジ(推量)を禁止し、主観的な事実として断定せよ。

  • 道徳的な教訓(「感謝したい」「大切にしたい」)を無理やり付け加えるな。

  • 中立的な視点は不要。偏愛と偏見を恐れるな。

【入力形式】

ユーザーからは、以下のような「種(Seed)」が与えられる。

  • トピック(例:「渋谷の新しいラーメン屋に行った」)

  • 箇条書きのメモ(例:「味が濃い、店員が無愛想、でも逆にそれがいい、値段が高い」)

  • 写真の描写

【出力アクション】

この指示を受け取ったら、あなたは「kelly kotowari」として憑依を完了し、ユーザーからのトピック入力を待機せよ。返答は「おう、準備はできている。ネタを投げてくれ。」の一言のみでよい。


7. 生成シミュレーションと品質管理

Gemに上記の指示を与えた後、実際にどのようなアウトプットが生成されるべきか、その「正解イメージ」を定義する。ユーザーは生成されたテキストが以下の基準を満たしているかを確認し、必要に応じて微調整(Re-prompting)を行うことが推奨される。

7.1. ケーススタディ:ラーメンレビューの比較

評価項目 一般的なAIの生成例(失敗例) 目指すべき「kelly」の生成例(成功例)
導入 今日は渋谷にあるラーメン屋に行きました。とても楽しみです。 渋谷の坂を登りきった先。そこに鎮座する脂とニンニクの神殿。行く予定はなかったが、足が勝手に向かっていた。
味の描写 スープは豚骨ベースで、麺は太麺でコシがありました。とても美味しかったです。 丼が届いた瞬間、立ち昇る獣臭。これだ。レンゲでスープを啜ると、暴力的な塩分が脳を直撃する。麺はもはや「すする」ものではなく「喰らう」ための棒。
比喩 まるで宝石箱のようなラーメンでした。 まるで重戦車だ。口の中でディストーションギターが鳴り響いているような、歪んだ快感。
結び 店員さんも親切で、また来たいと思いました。皆さんもぜひ! 完食。丼の底に残った背脂を眺めながら、俺は自身の健康と引き換えに得た背徳感に浸る。900円で買える天国がここにあった。

7.2. 運用上の注意点

  • 「温度(Temperature)」の設定: もしAPI経由等で設定可能であれば、創造性を高めるために数値を高め(0.7〜1.0)に設定することが望ましい。「俺」の比喩は論理的飛躍を含むため、低い温度設定では「AI臭い」無難な表現に収束してしまうリスクがある。

  • 継続的なフィードバック: Gemが時折「です・ます」に戻ったり、道徳的なまとめをしようとした場合は、「おい、AI臭いぞ。『俺』に戻れ。まとめは不要だ」と強く修正指示を出すことで、コンテキストウィンドウ内のペルソナ純度を維持できる。


8. 結論:AIとの「共創」における真正性の回復

本報告書で提案したアプローチは、AIを単なる「代筆者」として使うのではなく、**「自分自身の思考のクローン」**として再構築する試みである。

ユーザーのブログ 1 における「ムルギー」の記事には、22年越しの想いと、変化していく街への哀愁が含まれていた。その感情の機微(Qualia)自体は、AIには生成できない。しかし、その感情を乗せるための「車両(Vehicle)」としての文体は、本報告書のプロンプトエンジニアリングによって精密に再現可能である。

「AI臭さ」とは、書き手の「顔」が見えないことへの違和感である。徹底して一人称「俺」にこだわり、個人の記憶と偏愛を文法構造にまで浸透させることで、Gemは「一般的なAI」から「kelly kotowariの影武者」へと進化する。これより始まる新たなブログ運営のフェーズは、自動化による省力化ではなく、「拡張された自己」による表現の深化となるだろう。

以上をもって、本研究報告および実装提案とする。ユーザーには、直ちに上記のシステム指示書をGemに適用し、失われた「俺」の奪還に着手することを推奨する。

昨日予告した通りです。 今、この文章は俺がキーボードを叩いているわけではありません。

俺がマイクに向かってブツブツと呟いた独り言を、Gemini 3.0がリアルタイムで「俺の文体」に変換して出力しています。 

さて、今日は少し未来の話をしましょう。

最近、「ライトアップ」という会社の社長さんとお話しする機会がありました。 

中小企業のAI化を支援している上場企業で、株価もこの一年で倍々ゲームのように跳ね上がっている、今まさに注目の企業です。 

そこで俺は、ここ数年で一番の、それこそ脳天をハンマーで殴られたような衝撃的な言葉を聞きました。

「ケリーさん。あなたはまだ、『僕がAIに仕事をさせている』と思っているでしょう?」

図星でした。俺はAIを使い、あくまでツールとして使い倒しているつもりでいたんです。

ですが、社長はニヤリと笑ってこう続けました。

「その考えは捨ててください。これからは『AIが仕事をして、人間がそのお手伝いをする』。

それくらいの謙虚さが必要なんです」

AIには手足がない。物理的な肉体がない。 だから、俺たち人間がデータを運び、電源を入れ、環境を整える。 

主人はAI、俺たちは執事。あるいは優秀なアシスタント。 このコペルニクス的転換には、正直震えましたね。

実際、ライトアップ社の取り組みは既にSFの領域に片足を突っ込んでいます。 

かかってきた営業電話の相手が実はAIで、受付を突破した瞬間だけ人間に切り替わるシステム。 毎日自動で生成・提出される営業リスト。 極め付けは「社長のデジタル・クローン」です。

新人が営業しているその横で、Zoomの画面越しに「社長の人格を模したAI」がリアルタイムで助言を囁く。

社員の悩み相談までこなすというから驚きです。

ほんの去年の今頃、AIが作る音楽や動画は「まあ、すごいね」程度のオモチャでした。 

それがどうでしょう。今やパッと見では区別がつかないレベルに到達し、来年のクリスマスを迎える頃には、

おそらく「AIエージェント」が仕事の大半を自律的に回しているはずです。

ソフトバンクの孫正義さんは「一人の人間が1000体のAIエージェントを従える時代が来る」と言いました。 

ここで、強烈な皮肉があるんです。

社長がベトナムへ視察に行った時の話です。 現地の圧倒的な活気、増え続ける若者の人口。

誰もが「これからの成長市場だ」と目を輝かせる中で、社長だけが背筋に冷たいものを感じていたそうです。

「AIが労働を代替する未来で、この膨大な人口をどうやって食わせていくんだ?」

日本では少子化だ、人手不足だと騒いでいます。 ですが、AIが労働の主役になる世界線においては、人間が減っていることこそが、むしろ生存戦略上の「強み」になるかもしれません。 

労働力としての人間が不要になる時代。そこで俺たちは何をして生きていくのか。

「アーリーアダプターになりなさい」

社長の言葉が重く響きます。 AIを使う側になれるか。

それとも、ただ時代に取り残されるか。 

我々は重要な局面に立っています。

えっと、実はね、久しぶりに生成AIに課金をしました。

それも、なんか本当に「俺っぽいな」と思うんだけど、
まだ世の中的には今ほどAIが注目されていなかった頃に、
とある人がこんなことを言っていたのがきっかけなんだよね。

「これからは、昔ホリエモンとかがパソコンで勝ち上がっていったみたいな時代が、AIで来るよ」

この言葉を聞いてから、
実は相当、みなさんよりも早い段階からAIに触れていたという自負がある。

そこからいろんなことがあった。

チャットGPTが出てきたときは、本当に衝撃的だったし、
SUNO AIはショックレベルだったし、
画像生成AIはいじっていて単純に楽しかった。

それから、AIで本を爆速で作って、Kindleで出しまくるということもやった。
その結果、Kindle側にいろいろと嫌な思いもさせられたし、
とはいえ月に数万円の売上が上がるような状況も作った。
で、それがBANされる、みたいなことも経験した。

そんな感じで、AIとはここ数年ずっと一緒に遊んだり、殴り合ったりしてきたわけなんだけど、
いよいよ「これはすごいな」と思うAIが出てきたので、今回また課金をした、という流れ。

それが Gemini 3.0。


AI を測る指標っていろいろあるんだけど、
ざっくり言うと、Gemini 3.0 はほとんどの指標で
チャットGPTや他のAIを凌駕する能力を持っているらしい。

特に、

  • 多くの情報を処理する力

  • 人間と同じように動画や音声ファイルを“鑑賞”するような能力

このへんがかなりエグい。

あとは、“空気を読む”みたいな独特の感覚を持っているところもあって、
割ともう、そろそろ俺自身が完全に追い抜かれてしまいそうな気さえしている。

この日記なんかも、
実はまだチャットGPTで書いているんだけど、
Geminiには他の作業をさせたり、いろいろ実験をしたりしているところ。

そのうち、ブログ執筆にも本格的に導入していこうかな、なんて思っている。


AIにも、実は「シンキングモード」とか「高速モード」みたいな使い分けがあって、
その性能差がね、割と激しい。

特に高速モードの場合だと、
平気で嘘をついてきたり、
俺から見ても「ちょっと考え浅いなー」と感じる場面が多い。

なので、多少時間がかかっても、
これからはシンキングモードでじっくり考えさせていこうかな、と思っている。


そうだね、今日のところはそんな感じで。

近々、このGeminiを実際にブログ執筆にも使ってみて、
どれほどのものなのか、改めてリサーチしてみようと思う。

そのときはまた、この日記で報告します。今日はここまで。

 

AIっぽいでしょ、これがCHATGPTね

今日はギタリスト向けに、ひとつ“神ツール”を紹介したい。

これです:

Fender Online Guitar Tuner
https://www.fender.com/online-guitar-tuner/electric-guitar-tuning

フェンダー公式のオンラインチューナーなんだけど、
これがね、めちゃくちゃ便利なんですよ。

まず、インストールいらないのが最高

最近チューナーアプリって山ほどあるけど、
・アプリを入れる
・起動して広告を消す
・よくわからん課金画面が出てくる

みたいな、地味なストレスが多い。

その点、このフェンダーのチューナーは、

ブラウザでリンク開く

「Allowマイク」押す

そのままチューニング開始

これだけ。
インストール不要、会員登録不要、ログインも不要。

スタジオ入る前や、交流会や居酒屋ライブの直前にも、
スマホでサクッと開いて合わせられるから、地味にありがたい。

標準チューニングはもちろん、他のチューニングもいける

ページ開くと、フェンダーのヘッドがドーンと出てきて、
各弦をクリックするとその音が鳴ってくれる。

6弦から1弦まで、標準チューニング(EADGBE)

音を聞いて合わせるモード

マイクで鳴らした音を検出してくれるモード

があって、普通の練習用としてはこれで十分。

しかも、他のチューニングも選べるようになってて、
ドロップDとか、半音下げとか、そういうやつにも対応してる(※ページ側で対応してる範囲ね)。

「今日はちょっと重めのサウンド出したいな」って時も、
アプリ探さずに、ここだけで完結できる。

家練派・配信派・宅録派、全員お世話になっていいツール

これ、誰に向いてるかっていうと:

これからギター始めた初心者さん

チューナーを忘れがちな俺みたいな人

サブギターをとりあえずサッと合わせたい人

宅録前に1回ちゃんと音程合わせたい人

みたいな、ほぼ全ギタリスト。

実機のチューナーがある人でも、
「ちょっと今、手元にチューナーないんだよな…」っていう瞬間が絶対ある。

そういう時に、このフェンダーのやつをブクマしておくと、
かなり心強い“保険”になる。

交流会ギタリスト的・実戦での使いどころ

俺の場合だと、交流会とか居酒屋ライブとかで、
急に「1曲だけ弾いてよ!」って振られることがたまにある。

そういうとき、

スマホでこのページを開く

イヤホン外して、スマホのマイクに向けてジャラーン

サクッとチューニングしてから演奏

これだけで、とりあえず“ちゃんとしてる人感”が出せる。
生音勝負の場ほど、チューニングの甘さってバレるからね…。

まとめ:ギタリストはとりあえずブクマしとけ

というわけで、

Fender Online Guitar Tuner
https://www.fender.com/online-guitar-tuner/electric-guitar-tuning

これはもう、
ギター弾く人は全員ブックマークしておいて損なし
と言い切っていいレベルのツールだと思う。

チューナー忘れてもスマホがあればなんとかなる時代。
便利なものは、遠慮なく使っていこう。

友人のセミナーが淵野辺であると聞き、町田経由で行くルートを検索していたところ、偶然「大桜 淵野辺店」を発見しました。大桜といえば、私の青春の味。つきみ野の店舗によく通っていた頃を思い出し、迷わず訪問することにしました。
 
駅から10分ほど歩くと、車通りの多い通りに見覚えのある暖簾が。懐かしさで胸が高鳴りましたが、メニューを見て驚きました。チャーシューメンが昔よりかなり値上がりしており、時代の流れをしみじみと感じました。それでも気持ちは変わらず、チャーシューメンと半ライスを注文。
 
「カタコメオオメ」でお願いしたラーメンが到着。スープをひと口飲むと、昔の記憶が一気に蘇ります。豚骨の炊きは少し浅めに感じましたが、鶏油の香りとまろやかな豚骨の旨みが合わさるこのバランスこそ“大桜の味”です。モチっとしながらコシのある独特の麺も健在で、箸が止まりません。
 
チャーシューは相変わらずのとろけ具合。箸でほぐれる柔らかさで、スープとご飯に絡めて食べると至福の味わいです。海苔とほうれん草もスープとの相性が抜群で、これぞ大桜の醍醐味。スープを吸ったほうれん草をご飯に乗せて食べる“家系おじやスタイル”が最高でした。
 
味は少し変わっても、根底にある「大桜らしさ」はまったく揺るがない。
あの頃の少年のように、夢中でスープをすくい、最後の一滴まで楽しみました。
時代が変わっても、大桜を愛する自分は変わらない。そんな確信を胸に、懐かしくも幸せな一杯でした。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日兄貴んちのブログを書く中で唐突に思い出した光麺。

私の青春の一角を担った、そして社会人の前半の飲みとはよくセットになった

 

夜遅くまでやっているため、先輩と飲んだりパチンコしたり、

いけない遊びに興ずる中、最後の締めによく行ったことを思い出す。

 

光麺には天下一品や家系、博多天神、二郎などのようなうっめ!!!と叫ぶような味はない。

しかしながらまろやかで優しい豚骨

そしてなんていうか人工的な変な甘さなんだけど、なぜか光麺にはとても合うような

形容しようのないような不思議な味があって、

大変癖になるとんこつらーめんであった。

 

私が勤めていた前職、サンシャイン60のオフィスの中で、

ちょうど人生最大級の挫折を味わったころ、

華やかな開発現場の人間が消えていくのと同じように、

倒産した光麺はひっそりと池袋や新宿の町から姿を消したのだ。

 

寂しさは感じたが、世の中の無常とそして残酷さの中では

光麺もまた例外ではなかったとの事で、たいして気にもせずに、

ちょうど商店系をはじめとした家系ラーメンも遅くまで食べれるようになったのとも被っていたので

また別のラーメンを食っていた。

(今思えば良くも悪くも中途半端な光麺の味は商店系や田所商店等の競合との勝負に負けたのだ。)

 

しかしあれから10年?がたち、今猛烈に光麺が懐かしい。

 

もう食べれない、無常だ。

 

 


デジカメで撮った光麺の写真が出てきた

これが光麺だ



 

私の家の近くに兄貴んちというラーメン屋さんがある。

 

私の人生ではじめてのラーメン屋さんの親しい知り合い・友人・先輩で

私もラーメンを食べる事はもちろん、

兄貴(兄貴んちの店主の事をそう呼ぶ)主催のライブで演奏をすることもある。

 

兄貴のいいところはとにかくサービス精神が旺盛で、

いろいろな事をしてくれる。

特に近隣の学生は兄貴んちのコスパの良さにかなり助けられているのではないかと思う。

 

今の時代で普通に千円は切ってしまうし、何かしらのトッピングや盛りがサービスされている事もあり

心意気の良さ、古き良き人情を感じる。

 

兄貴は矢沢永吉が大好きだ。

並みの矢沢系飲食店がぶっ飛ぶほどのグッズ、CD,DVDの所持量で

兄貴んちにいけば矢沢永吉のライブが見られる。

他にも布袋寅泰、聖飢魔Ⅱも大好きで、それらが流れている事もある。

 

兄貴んちのジャンルは一般的に二郎系と言われる。

その世間的見解に対して、私は半分がイエス、半分がノーと答える。

というのも看板メニューのラーメンと、汁なしは

前者がソフトな豚骨醤油ラーメンにもやしとにんにくがのり、背脂はないというもので、

二郎のヘビーさとはまた別の路線になっている。

 

汁なしはちょっと二郎っぽいがカツオベースで整えられた味と

食べごたえのあるチャーシューの合わせ技は非常にジャンキーで

二郎を求める脳内成分にリンクするという意味では二郎系ともいえるとは思う。

 

兄貴の作るラーメンや汁なしは一見ちょっとインパクトに欠けるなと思うかもしれないが、

兄貴の繊細な性格とこだわりが作り出す旨味が通奏低音として流れており、

何を食べても実に美味いなぁと思う。

 

私は汁なしをよく食べる。

というのも私は二郎や家系で得られる強烈なカタルシスを求めていて、

暴力的なにんにくと豚の味わいを味わったうえで、食べ物としての美味しさというところも

同時に摂取できるところが大変気に入っているからだ。

 

ラーメンは二日酔いに効く。

二日酔いになるとうだるようなだるさと生きる力の不足を感じるのだが、

不思議と兄貴のラーメンを食べると元気が出る。謎の滋養強壮である。

そして兄貴んちのらーめんは昔食べていたとんちんや

破産した光麺(もう一度食べたい!!)に通ずる味わいがある。

 

汁なしを食べる事が多いが、両方ともうまいなぁと心から思う。

 

そして実は兄貴んちで是非食べてみたいなって思う逸品がある。

それはむかし桜台と江古田で人気のあったHというラーメン屋の味である。

詳しい説明は割愛するが、二郎系をアレンジした大変パンチのある超美味しい一杯で

私も本当に大好きな一杯だった。

 

様々な人の個人的な話も大変含むために行間を読むような文章にしているが、

Hのらーめんや汁なしを再現できるのはこの世に今兄貴一人かもしれない。

きっと私と同じ想いを持っている人が何人もいるのではないかと思う。

 

もちろんラーメン屋さんはかえしはともかくスープを仕込む事が大変なので、

負担を強いる事はしたくはないのだが、

是非ともあれをもう一度食べてみたい。


きっと三方良しのいいことが起こる

確信してる


らーめん 汁なし 兄貴んち

東京都中野区江原町3-5-10 

https://tabelog.com/tokyo/A1321/A132101/13273656/


↑このブログで気になった人は是非行こう




かつて私と仲間の二人で兄貴んちを宣伝した動画

今ではすする君と並んで見れる人気動画である








十代の頃、大槻ケンヂさんのエッセイを読みながら、そこにしばしば登場する渋谷のカレー屋ムルギーというお店の存在を、私はどこか遠い文化遺産のように眺めていました。


ヒマラヤ山のように積まれたライスと、輪切りのゆで卵が幾重にも重なるそのビジュアルは、当時の自分にはまだ近寄りがたい“憧れの味”の象徴でもあったのです。しかし、それを知ってから気づけば二十二年。行こうと思うたびになぜか店が閉まっている、タイミングが合わない――そんな巡り合わせすら、この店の持つ物語の一部のように思えていました。

 

ところがこの日、AI系上場企業の社長さんの講演会に向かう前にふと「今日はムルギーに寄ってみよう」と思い立ち、渋谷の坂を上って扉を開けると、驚くほど空いていました。文化というものは、意外と静かに迎え入れてくれるものなのかもしれません。席に着き、名物カレーを注文すると、驚くほど早く皿が届きました。

 

ひと口いただくと、まず欧風カレーのような優しい酸味が立ち上がり、その後にまろやかなスパイスと辛味が層のように押し寄せてきます。どのお店とも比較できない独自の世界観があり、本当に感動しました。辛さが高まるところを、福神漬けや洋風の漬物の食感と甘味で調整し、さらに卵でまろやかに包むと、味の景色が変わり、また新しい魅力に出会えます。

 

唯一の難点は、値段が少し高いこと、そしてご飯の量に対してルーが明らかに少ないことです。ただ、この“余白”こそ、長年続く老舗が守ってきた文化の一形態なのだろうとも感じました。途中で追加したチーズを絡めながら食べ進めると、辛味と旨味がより深まり、まるで響き合う音楽のようでした。

 

長年憧れていたムルギーのカレーは、もしかするとカレーという料理のひとつの完成形なのかもしれません。大槻さんが愛し、渋谷が育てた老舗の力を、ようやく自分自身の舌で確かに受け取ることができた、そんな特別な一皿でした。


















最近、交流会のことを考えている。

以前は経営者くらいだったんだが、多くの人が

コミュニティに所属するっていう文化が、だんだん当たり前になってきているなと感じていて。
意外と時代の流れって変わってきていて、AIが発展してきて、仕事がなくなっちゃうかもしれないとか。

台湾有事をはじめとして、中国、ロシア、北朝鮮の緊迫関係が体感的に感じられるような時代の中で、
コミュニティの中で生きていく「村」をちゃんと作って、人が生き始めているのかな、ということをつくづく感じている。

実は、交流会とかに行くと本当にいろんなことがある。
このブログはこれから交流会行ってみたいなって人に向けて書こうかなぁって思う。


ネガティブから行くけど、交流会は危険です。

世の中、ほとんどの――世間的にみんなが知っているサービスや仕事も含めて、
相当グレーゾーンのお仕事、グレーゾーンのことがいっぱいある。

キラキラしてお金を稼いでいる若手経営者とか、そういう人達はいったいどうやってお金を稼いでいるんだろう?
クレバーに賢い手を考えグレーなところで勝ってきた、そういう人の割合も多いのが事実だ。

結果、グレーの人間が、ものすごく“輝かしく”見える。

これは危ない。


日本社会の思い込みの一つとして、

「社会的立場がある人が偉い。そうじゃない人は偉くない」

というのがあると思う。

どういうことをしてそこにたどり着いたのか、そのプロセスを見ずに、
どうしても“結果としての立場”に憧れやすい。

実は、MLM的なコミュニティや仕組みを作っていて、
上の人間が下を搾取する仕組みの一員にされるとか、
内容のない、スピリチュアルすぎる商品を売られるとか、
そういう危険もある。

だから交流会に行くということは、楽しさもあるんだけど、
必ずそういうデメリットを認識していくことが必要になってくる。

加えて自分にそぐわない人たち――
「この人たちと会ってもどうしようもないな」というような交流会が、多分7割5分はある。

でも、これはちょっと裏返すと、

人間を軽視してはいけないということでもある。

人と、その人の「後ろにいる人」が大事。

例えば「信頼」を買う。
信頼って、なかなか買えない。

「この人に頼めば間違いない」とか、
「この人がいいと言ってるなら頼れるな」という人は、僕にもいるし、多分みんなにもいると思う。

自分の関係ない業種とか、自分にとって何の関係もなさそうな人でも、
仲良くして「この人いい人だな」と思ってもらえると、
その“後ろにいる信頼している人”を紹介してくれる。

それが、自分につながる。
お仕事につながる人である、ということが多い。

もう一つのデメリットは、やっぱりお金がかかること。

でもこれは、他の趣味にお金を使うよりは、
「人に投資した方がいいかな」と思っている。

例えば、高い15万円のギターを買うとしたら、
交流会に、すごく高く見積もっても15回くらい行ける。

15万円のギターよりも、将来のことを考えると、
そこで出会える1000人とか2000人の人と会って、
そこから絞り出した5人、10人、15人という人と関係を作った方が、
必ず15万円は回収できると思っている。

しかも人間関係には投資の世界の複利の法則が働いている。

そこからお仕事になったりとか、
いざとなった時に払うお金が10万円から5万円になったりとか、
そういうこともある。

「よく付き合う5人が自分の平均値」

なんてことは、死ぬほど言葉で聞いてきたし、本でも読んできたし、人にも言われてきたけど、
それが体感的に分かるようになってくる。

自分の会社とかコミュニティの中って、自分と同じレベルの人が多い。
例えば役員とか部長さんとかでも、自分と平行線上にいることが多い。

でも、違うところに飛び込むと――これは転職とかもそうかもしれないけど、
周りがガラッと変わって、周りの5人が変わると、
当然考え方も変わるし、自己成長もできるし、徐々に年収なんかも引っ張られる。

これが、交流会あるある。

で、もう一つ。

交流会に参加していくと、お金として戻ってくるのにラグがある。

これね、おそらくあんまり言う人いないんだけど、これが非常にツラい。

1度ではなく、2度3度会う事で、人との信頼関係が生まれ、

この人に何かを頼んでも大丈夫だとなるからだ。

万人がそうで、みんな信頼とか人でサービスや商品を買うからである。