3年間毎日更新を続けてきたこのブログ。

コメントをくれたり、ブログの内容の感想をくれる人がいてはじめて、

毎日更新を続けられたと思います、ありがとうございます。

 

さて今日のブログから週二回の更新にさせて頂く事にします。

というのもブログの在り方、発信の在り方を変えようと思っているのです。

 

まずはブログの在り方。

ブログを毎日続ける、世の中に対して出しているもので習慣化ができることを目標にしていたが、

3年間の期間で、それは確実にできるようになったと実感しています。

一方で、生成AIで書いたり、なんとかコンテンツを間に合わせ、

内容の粒度が低かったり、生成AIを使う事で自分のパッションや言いたい事が言えなかったという課題がありました。

本当に言いたい事や想いを伝えられないブログに意味はないなと思うため、

思い切ってAIを使わない、その代わり頻度を減らすことで、クオリティもさることながら、

私のパッションを伝えられる場に変革していきます。

 

そして、一人の人間として荒波を乗り越えていくため、今一度思考の粒度を高めていきたいというのもあります。

私のポリシーとして母国語の言語化能力こそが、その人の思考力、問題解決能力になるというのがあって、

自分の言葉で言語化する事は大変非効率的であるが、むしろAIに対して言語化をしなければならない。

またAIが吐き出したものを脳内で解釈しなければならない時代だからこそ、

手書きの文章でブレインを強化していく必要があるように思うわけであります。

 

発信の在り方としてはFacebookに共有をしていく事にします。

Facebookにはビジネス仲間や名だたる面々がいて、ブログを出すことにメンタルブロックがあったのですが、

これを機会に、出します。

 

出し方は全文をコピーするのか、リンクを貼るのかは考えているところなのですが、

SNSは同じ文章をコピベすると良くないという話があるので、リンクを貼る事にします。

 

Facebookに出すことは大変に勇気がいることです。

ブログは私の頭の中のヘドロも聖水も含めてすべてをアウトプットする事であり、

皆さんの前で、素っ裸も同然になるわけなのです。

政治的思想もあるし、恨み妬みもあるし、世の中のタブーに対しての問題意識や正義感や愛もあります(笑)

しょうもない趣味もあれば、高尚な技術や、営みもあります。

 

だけどさらけ出し、どんな人間なのかを理解してもらった方がその人が信頼に値するか、

一緒に遊んで楽しいか、お仕事を一緒にしたいか、したくないか、

白黒もはっきりとつくし、むしろ良い事なのではないかと考えます。

 

ですので、このブログを毎日楽しみにしてくれた方には申し訳ないのですが、

より本質的でKellyであり伴 建介である、

私から心からのご提案、ご意見、そして読み物として価値があるものを提供していきたい。

今日で3年間の毎日更新が終わります。


読者の皆様には感謝しかありませんし

私も一度決めたこととやり続けました。


ですが、明日のブログに書きましたが、訳あって毎日の更新はやめることにしました。

会社の経営は楽ではないし、ブログも一つの資産ゆえに戦略的に運営していくことが必要があるわけです。


私はバンドを育ててでかいステージでやったり、

中長期的に安心して、楽しく自由に飲み歩いて、

時には人の助けになれるような人間になるために、ビジネスに集中したい。


荒波の日本や世界において小さいながらも確実で自分が舵を切れる船を浮かべて、自由で社会の一助になれるような人間になりたい。


そのためにもっと継続的で確実な売り上げを立てて、

もっと富裕層の人たちの付き合いを増やし、自分や会社の持ってるリソースをお客さんの求めるものに変化させて、船を大きくしたい。


胃から汗が出るなんて言葉もわかるようになった最近

常在戦場の中で冷静な判断力さえ失いそうになるプレッシャーもなくはないが、私は社会の構成員の一人として役に立っていけるように頑張りたい。


ビジネスをもっと成功させて、そのスキームをバンドに持ち込みたい。


そしたら夢が叶うと思う。


もう一歩、一刻も早く良い報告ができるよう、

ブログが週に2回程度になる事をどうかお許しいただけたらなと思う。

3月もあと2回ブログを書けば終わりというところまで来た。ストックがないなと思いつつも、「2回書けばいいだけ」と思えば気が楽だ。たまにこういう寝切れない夜があって、まさに今がそれ。なんとなく頭の中にはいろいろ浮かんでいるのに、行動力がついてこない――そんな日がたまにはある。
それでも、こうして徒然と言葉を口にしていけば、AIが日記にまとめてくれる。4月からはAIで企画を立てるのはちょっと封印するつもりだが、日記を書くという営みそのものは続けていく。振り返れば、AIを使ってブログを書き始めてからもう3年。黎明期からずっと使い続け、精査を重ねてきた中で、AIの文章生成能力の進化をリアルタイムで体感してきた。本当に役に立ってきたと実感する。

さて、話は変わってロッテである。開幕カードが2勝1敗で終わったのはよかった。ただ、西武との3戦目はあまり納得のいく内容ではなかった。まあ、5割をキープしながら戦っていければいいだろう。
思った以上にサブロー監督がいい。吉井さんや井口さんの時代は、どこか選手に気を使っている場面が見えた。それが悪いということではないが、サブロー監督はそういうタイプではない。「この試合、諦めない」という姿勢がはっきり見える采配をする。人事面でも覚悟が感じられる。
ただ、気になるのは守備だ。エラーにならないようなエラー、基本的な守備のレベルがかなり低い。若い選手は仕方ない部分もあるが、3塁にコンバートされた寺地、そして小川や友杉もファインプレーはするのに普段の守備が荒い。源田と比べてしまうとやはり差がある。丁寧に野球をやってほしいと感じる。
開幕して改めて思うのは、やっぱり野球は楽しいということだ。

仕事の話をすると、最近は効果音や動画に音を当てる案件が増えてきた。昔を思い出す。動画に音をつけていくと、映像がどんどん生きていく感覚がたまらなく好きだ。
特に効果音はクリエイティブだと感じる。音楽は割とシステマティックな部分があるし、降りてくる時はもう降りてきて一気に作れる。そこまで「産みの苦しみ」があるわけではない。一方で、映像に音をつけていく作業には、まさに「創作している」という実感がある。一つひとつの音を選び、タイミングを合わせ、映像と音が噛み合った瞬間の快感。これはライブ演奏とはまた違った創造の喜びだ。
……こんな徒然話でもブログにしてしまうのだから、我ながらすごいと思う。

帝王学という言葉がある。帝王学の本、帝王学のスピーチ、帝王学を教えると謳う人。世の中にはそういったものが溢れている。しかし、その中身が何なのかと問われると、正直なところなかなか見えてこないのが実情ではないだろうか。


僕が知る限り、中国古来の易経を帝王学だと言う人が多い。易経も確かに帝王学の一つなのかもしれない。

しかし僕は、帝王学というのはもっと別のところにあるのではないかと思っている。


それは、圧倒的に目上の人とお付き合いをして、その人たちの姿を見て学ぶこと。

そしてふとした瞬間に言われる指摘や言葉を、自分の中に取り入れていくこと。これが帝王学の本質なのではないかと思うのである。贅沢な話だが、本当にそう思う。


そして、人として当たり前のことが、実は帝王学だったりもするのではないだろうか。

やればできることをちゃんとやる。準備をする。人に挨拶をする。お礼のメールを出す。

率先して人のために何かをやろうとする。

こうした一つ一つのことが、帝王学の中身なのだと思う。

もちろん僕自身、そうした「人としての当たり前」にすら全然至れていないと感じることばかりである。


自分の中にある「言い訳」
僕の場合、音楽が基本的に商売である。しかし音楽というのはやはり売りづらい。

これはある意味で事実であり、僕よりも音楽を売っている人たちですら

「音楽ほど売りにくいものは世の中になかなかない」と言うくらいだ。確かに売りにくい商材ではある。
しかし最近つくづく思うのは、そもそもビジネスをちゃんと勉強したのかということである。

ビジネスに挑む態度は真摯なのか。真面目なのか。一生懸命なのか。

一つ一つの場に向けてどれだけの思いと準備とコミュニケーションを持って臨んだのか。

ビジネスをやるためのスキルを本当に勉強しているのか。こうした問いを自分に向けると、まだまだ全然できていない部分があることに気づく。
誰だって、自分なりに頑張っているつもりだし、実際それなりに頑張ってもいる。

しかし、それをもっと突き詰めないといけないのだ。


目上の人には「見える」ということ
目上の人たちは、実践の中でそれを見ている。口数が多い人もいれば少ない人もいるが、

その人なりに気づいたことを、自分の言葉で伝えてくれる。


ここで大事なのは、自分のベースとなる人格をしっかり持った上で、言われたことをいい意味で取捨選択することである。

全部を鵜呑みにして入れてしまうと、よく野球選手がコーチによってダメにされてしまうように、

かえって自分を崩すことになりかねない。

自分の頭や行動パターンにマッチさせながら整理して取り入れていく。

僕がこうしてブログに書いたり、AIに文章をまとめてもらったりしているのも、

学んだことを自分の頭の中に定着させるためなのである。

帝王学というのは、文字通りだなとつくづく思う。

自分より目上の人たちは「帝王」なのだ。


逆に、僕は大した人間ではないけれど、僕のことを目上だと感じてくれる若い人や仲間を見たとき、

「ここを直したらもっとよくなるのに」と見えることがある。

音楽でも、生活でも、人生でも、仕事の仕方でも。

つまり、自分のことを目上としてくれる人のことは見えるのだ。

ということは、自分の目上の人には僕のことが見えている。

僕自身には見えないものが、見えている。

それをいろんな言い方や行動で示してくれる。これが帝王学だと思う。


受講する資格は「本気度」
この帝王学を受講する資格は何かといえば、やはり本気度なのだろう。

今、自分は受講していると思っている。

しかし本気度が下がったり、人間として見限られるようなことをすれば、

もうこの学問は受けられなくなる。そういう性質の学びなのだ。


なぜこんなことを話しているかというと、

昔の自分は「これ一つ勉強しておけば人生うまくいく」というものを探していた時期があった。

帝王学がそれなのではないかと思い、帝王学を探してみたのだが、全然何も見つからなかった。

その経験があるからこそ、改めて帝王学とはこういうことだったのだなと思い、まとめておきたくなったのである。

球春だ

もうすでに一試合が終わった段階に出すのは恥ずかしいが仕方がない

 

今日の試合の結果はロッテと中日しか知らない段階で

 

セリーグ

 

1位 阪神

2位 中日

3位 横浜

4位 横浜

5位 広島

6位 ヤクルト

 

 

パリーグ

1位 日本ハム

2位 ソフトバンク

3位 ロッテ

4位 オリックス

5位 楽天

6位 西武

 

私のイメージする実力で測っている。

セリーグは詳しくないが、圧倒的戦力の阪神

そして今年こそはは中日が来ると感じている。

投手力、野手陣とも目立ったスターがいて、とにかく後ろの安定が現代野球では強い。

 

広島、ヤクルトは投手が厳しそう。

 

パリーグは有原ほどの投手をライバルから引き抜いたことで大きく力の差が埋まった。

ソフトバンクはそれでも強いが連覇の難しさ、また新庄監督のミラクルを起こしてく力の強さ

そういうミエナイチカラの波及力、今年こそだろうと思う。

 

ロッテはみんな地力がないというがそんなことはない

近年の成績を見てほしい、常勝とは言わないが、常にクライマックスを走ってきた

甘いと言われるかもしれないが、去年は石川、種市の誤算、ポランコの離脱、

含有戦力を活かせない上に、朗希をVISION2025に手放すというとんでもないことをしでかした。

組織が勝つ気がなければ勝てない。

 

サブロー監督はその事をよく分かってると思う。ソトキャプテン、甘いチームカラーを引き締まる懲罰を令和のカラーに合わせてうまくやっている。

 

そして開幕投手毛利。猛練習をかしながらも打撃や走塁の理論を言語化して伝えられる西岡コーチ。

 

しばらくそこまで勝てないかもしれないが、ここ数年伸びている若手に野球が浸透してくれば

種市を筆頭に普通にやればある程度守れる投手陣とあわせてそれなりに勝ち星を稼いでくる計算が立ってる。

 

実は体質的な甘さに、新しい血のメスが入った時に球団が大きく変貌している歴史があるので、既定路線でありながらなかなかのナタを振るってるサブロー監督に想定以上の期待感を持っている。

 

とはいえ上位2チームをこすには相当なミラクルが必要だ。

 

要注意なのは楽天。

経験豊富なベテラン陣と足を使える野手陣もいて、戦略的なスモールボールで負けない野球をやってくるとダークホースになる。

キーマンはマエケンと辰巳、いい時の辰巳の怖さと嫌らしさは相手チームに脅威だ。

 

投打に連携がかけるオリックスは見栄えほどの強さは実はないように感じる。

 

西武は今井が抜けるにはあまりにチームが仕上がってない時期に抜けてしまった、成長著しい若手もいるが、一年は我慢が続くと思う。戦っていて怖いおかわりくんや外崎は全盛期を抜け、怖い選手がいなくなってしまった。

 

 

フリーズムーンを流しながら、軽く飲んでいる。こういう夜に尾崎豊を聴くと、いつも同じことを考える。なんで俺はこんなに尾崎に惹かれるんだろう、と。
正直に言えば、尾崎豊の音楽は自分の音楽性とはずれている。プロのギタリストとして、作編曲家として、自分が追求しているサウンドとは違う方向にある。それなのに、少年の頃からずっと好きなヒーローであり続けている。理屈じゃない何かが、そこにはある。
尾崎豊という人間は、ガチガチの、ただのロックンローラーだった。ただの詩人だった。ただの「頭」だった。自分の思いや弱さを切り取って、そのまま前に出して発信していた。フィルターをかけず、かっこつけず、むき出しの言葉をぶつけてきた。そこがたまらなく好きなのである。
尾崎の言葉はすごく等身大だ。もちろん「卒業」や「I LOVE YOU」も好きだが、俺がもっと惹かれるのは、地元の友人に宛てたような、身近な人間をテーマにした曲の方である。「スクラップアレイ」や「フリーズムーン」のような曲。大きなメッセージではなく、隣にいた誰かへの言葉。そこに宿る体温みたいなものに、どうしようもなく心が動く。
不思議なのは、俺自身は尾崎の歌に出てくるような経験をそこまでしていないということだ。それなのに、尾崎の歌を聴くと郷愁のようなものが込み上げてくる。いろんなことを思い出す。「俺もこうだったな」と感じる。でも実際はそうだったわけじゃない。これは一体何なのだろう。
たぶん、尾崎が歌っていたのは具体的な出来事ではなく、その奥にある感情の質感なのだと思う。孤独、焦り、何かを求めている感覚。それは誰の中にもあるもので、尾崎はそこに嘘なく触れてくるから、聴く者の記憶が勝手に呼び起こされるのだ。
そして、こうも思う。尾崎の歌みたいなものは、AIには作れない。あの熱は絶対に作れない。計算や技術の産物ではなく、一人の人間が人生を削りながら絞り出したものだからである。音楽の構造を理解し、プロとして仕事をしてきた人間だからこそ、余計にわかる。尾崎豊の音楽の核にあるものは、技術の向こう側にある。
フリーズムーンが終わる。グラスを傾けながら、またいつか同じことを考えるだろう。なんで俺はこんなに尾崎豊が好きなんだろう、と。答えは出ない。出なくていい。それがロックンロールだと思うから。

船橋が生んだ大実業界の滝口長太郎さんの人生伝を読む機会があった

 

刺身のつまになる海藻をとっていたその日暮らしの漁師の家系から

かつて長太郎会館といわれた総合施設を船橋にオープンされた。

 

戦後をかけぬけたマルチな経営者である。

 

本当にいろんな苦労をしてきたことがうかがえるが、

そのたびに「打つ手は無限」という合言葉で切り抜けてきた

長太郎さんの人生は時代を超えた学びがあるように思う。

 

特に私のような零細の経営者は困難・屈辱・どうしたらわからんような難事に接する機会があるが、

打つ手を打ちまくり、脱するまで頑張る事ができれば必ず好機は訪れると信じている。

 

打つ手は無限
すばらしい名画よりも
とてもすてきな宝石よりも
もっともっと大切なものを私は持っている。
どんな時でも
どんな苦しい場合でも
愚痴を言わない。
参ったと泣きごとを言わない。
何か方法はないだろうか
何か方法はあるはずだ
周囲を見回してみよう。
いろんな角度から眺めてみよう。
人の知恵も借りてみよう。
必ず何とかなるものである。なぜなら
打つ手は常に無限であるからだ。

 

本当に胸に刺さる言葉だね。

最近独学ではあるが本を買ってマーケティングを勉強している。

先日もお話しした先輩がまず第一に学ぶべきものとしてあげていたのがマーケティングということで

今までは横文字嫌いでカッコつけかよとでも思っていたマーケティングにすーっと興味が出たのだ。

全く仕方のないやつである。


いろいろと調査の結果USJをディズニーに勝たせた森岡さんという人のマーケティングの本を読むうちに小っ恥ずかしさが出てきている。

まだ読み途中であるが、今辛うじて言語化できるのは

マーケティングは商品を消費者目線から欲しいものにして

売れ続けている状態を作ることであり


いかに日本企業に足りず、私自身も無知の極みだったなと思っているのである。


私なども音楽を出身とした技術者なわけなのだけれども

クオリティが高いもの、技術者として良いものを考えるが、それは消費者にとって喉から手が出るほど欲しいものなのか?

具体的に手法は学ぶが、現時点ではかなり反省点であった。


全く恥ずかしいものだ。

土曜の夜にわりと激しめの飲み会があった。翌日曜は朝活の予定があったので、朝3時とか4時に起きて出かけた。僕はこういう「きちっと朝呼ばれたら行ける」タイプで、早朝の集まりにもわりと対応できてしまう人間である。
問題はその後だ。

朝活を終えて昼飯を食べに行った。そこまではよかった。だがそこからもう記憶がない。帰ってきて、ちょっと横になったら寝ていた。しかもちょっとした仮眠なんかではなく、20時間近く眠り続けた。目が覚めたときには休日が跡形もなく消えていた。

ずーっと時が止まったような、夢の空間にいるような感じ。いろんな夢を見た。そしてお風呂に入りながら「やっちまったなあ」というショックを噛みしめている。
仕事もしたかったし、寝るくらいならもっと遊びたかったのに。でも、眠くてしょうがなかったのだから仕方ない。頭がずっとぼーっとしていて、体が完全にシャットダウンを選んだのだ。

振り返ると、サラリーマンをやっていた頃はここまで睡眠に支配されることは少なかった気がする。睡眠量も今より少なかったし、日中にたまに眠気の波が来ても耐えられる程度だった。目が冴えている時間のほうが長かった。

では今と何が違うのか。
まず、ストレスの質が違う。会社員時代のストレスがなかったとは言わない。
だが経営者になってからは「本気じゃないと生きていけない」という緊張感が常にある。インプットの精度を上げようとしているし、普段から入ってくる情報量が桁違いだ。

特にメッセージの量。LINEやFacebookの通知音をオンにしたら、スマホがピピピピピピと鳴り続けるくらいの量が毎日飛んでくる。サラリーマン時代の20倍は来ている感覚がある。
意図的に整理はしているものの、無駄な情報も大量に入ってくるし、見逃しや取りこぼしも結構ある。

睡眠=脳の情報整理装置という仮説
よく言われることだが、睡眠には日中に取り込んだ情報を脳の中で整理・統合する機能がある。起きている間にバラバラに入ってきた記憶や経験を、寝ている間に仕分けして定着させたり、不要なものを捨てたりしている。
これを自分に当てはめると、つじつまが合う。
経営者として大量の情報を処理し、本気のインプットを続け、人とのやり取りで無意識に体力を削られている。その蓄積が限界に達したとき、脳が強制的にリセットをかけてくる
それが「休日丸ごと消える睡眠」の正体ではないか。20時間の睡眠は、サボりでも怠けでもなく、脳が溜まりに溜まった情報のゴミ出しと棚卸しを一気にやっている時間なのだと思う。

睡眠の情報整理機能について、僕にはギタリストとしての実体験がある。
曲をたくさん覚えなくちゃいけないとき、僕は意図的に睡眠を活用する。やり方はシンプルで、「覚えて、忘れて、寝る」。これだけである。
練習で曲を頭と体に入れる。そのあと一度忘れる(他のことをする)。そして寝る。すると翌日、驚くほど定着している。そしてそれを繰り返す。
科学的にきちんと検証したわけではないが、この「覚える→忘れる→睡眠を挟む」のサイクルは、ギターで曲を覚えることに関しては本当にむちゃくちゃ効く。自分の中では確信に近いレベルの実感がある。
これもつまり、寝ている間に脳が勝手に情報を整理して、必要な記憶を強化してくれているということなのだろう。

それにしても、丸一日眠ってしまったショックは大きい。最近こういうことが結構ある。でも、過ぎてしまったことは仕方ない。
脳が必要としていた整理の時間だったのだと割り切ろう。無理に抗って睡眠を削り続けるよりは、こうやってたまにガッと寝て回復するほうが、長い目で見たら健全なのかもしれない。
頑張っていこう。
おつながりの関係もあって、最近は渋谷のtakeoff7によく行きます。そうなると、その目の前に大好きな四文屋があるものですから、自然とかなりの頻度で通わせていただいています。

四文屋は個人的に何を食べても好きなお店なのですが、やはり外せないのはエシャロットと四文屋ハイボールです。まずはこの基本線をしっかり据えて、そこからその日の気分で串や一品を足していく。この流れがとても心地よいです。

エシャロットで肉の脂をすっと流しながら、下町のボールを思わせる四文屋ハイボールを合わせる。この組み合わせが本当に好きです。さっぱりと口を整えつつ、お酒の軽快さも楽しめて、最初の掴みとしてとても優秀だと思います。

やきとんでは、私はかしらが好きです。やきとんの中では比較的正肉に近い印象で、食べやすさがありますし、噛むほどに旨みが出てきます。変に重たくなりすぎず、でもちゃんと“肉を食べている”満足感があるところが良いです。

サシも、その日のレパートリーにあればいただきます。今回はハラミでした。こういう、その時々で少し変わる楽しみがあるのも四文屋の魅力だと思います。ただ、牛のたたきがいつもないのは少し残念です。あれに出会えると嬉しいのですが、なかなかタイミングが合いません。

レバの串も外せません。豚のレバーというものは、薄焼きで、ごま油と一緒に味わうのがたまらないと思っています。あの独特の香りとねっとりした旨み、ごま油の風味が重なる感じは、本当にクセになります。

煮込みも大好きです。今回はついつい唐辛子をかけすぎてしまいましたが、それでもやはり美味しいです。豚がとろけたような四文屋の煮込みは、私の中で煮込みの基準のひとつになっています。最近はやっていませんが、煮込みライスの美味しさも他に代えがたいものがあります。休肝日には、ご飯代わりに食べに行こうかと思うくらいです。

四文屋の安心感と安定感は、本当に特別です。中野や練馬をテリトリーにしている人間にとっては、ある意味ベーシックとも言える酒場ですが、渋谷の地でも四文屋はやはり四文屋です。場所が変わっても変わらない美味しさがあり、落ち着いて食べられるのが嬉しいです。こういうお店が目の前にあるのは、ありがたいことだなとしみじみ思います。