帝王学という言葉がある。帝王学の本、帝王学のスピーチ、帝王学を教えると謳う人。世の中にはそういったものが溢れている。しかし、その中身が何なのかと問われると、正直なところなかなか見えてこないのが実情ではないだろうか。


僕が知る限り、中国古来の易経を帝王学だと言う人が多い。易経も確かに帝王学の一つなのかもしれない。

しかし僕は、帝王学というのはもっと別のところにあるのではないかと思っている。


それは、圧倒的に目上の人とお付き合いをして、その人たちの姿を見て学ぶこと。

そしてふとした瞬間に言われる指摘や言葉を、自分の中に取り入れていくこと。これが帝王学の本質なのではないかと思うのである。贅沢な話だが、本当にそう思う。


そして、人として当たり前のことが、実は帝王学だったりもするのではないだろうか。

やればできることをちゃんとやる。準備をする。人に挨拶をする。お礼のメールを出す。

率先して人のために何かをやろうとする。

こうした一つ一つのことが、帝王学の中身なのだと思う。

もちろん僕自身、そうした「人としての当たり前」にすら全然至れていないと感じることばかりである。


自分の中にある「言い訳」
僕の場合、音楽が基本的に商売である。しかし音楽というのはやはり売りづらい。

これはある意味で事実であり、僕よりも音楽を売っている人たちですら

「音楽ほど売りにくいものは世の中になかなかない」と言うくらいだ。確かに売りにくい商材ではある。
しかし最近つくづく思うのは、そもそもビジネスをちゃんと勉強したのかということである。

ビジネスに挑む態度は真摯なのか。真面目なのか。一生懸命なのか。

一つ一つの場に向けてどれだけの思いと準備とコミュニケーションを持って臨んだのか。

ビジネスをやるためのスキルを本当に勉強しているのか。こうした問いを自分に向けると、まだまだ全然できていない部分があることに気づく。
誰だって、自分なりに頑張っているつもりだし、実際それなりに頑張ってもいる。

しかし、それをもっと突き詰めないといけないのだ。


目上の人には「見える」ということ
目上の人たちは、実践の中でそれを見ている。口数が多い人もいれば少ない人もいるが、

その人なりに気づいたことを、自分の言葉で伝えてくれる。


ここで大事なのは、自分のベースとなる人格をしっかり持った上で、言われたことをいい意味で取捨選択することである。

全部を鵜呑みにして入れてしまうと、よく野球選手がコーチによってダメにされてしまうように、

かえって自分を崩すことになりかねない。

自分の頭や行動パターンにマッチさせながら整理して取り入れていく。

僕がこうしてブログに書いたり、AIに文章をまとめてもらったりしているのも、

学んだことを自分の頭の中に定着させるためなのである。

帝王学というのは、文字通りだなとつくづく思う。

自分より目上の人たちは「帝王」なのだ。


逆に、僕は大した人間ではないけれど、僕のことを目上だと感じてくれる若い人や仲間を見たとき、

「ここを直したらもっとよくなるのに」と見えることがある。

音楽でも、生活でも、人生でも、仕事の仕方でも。

つまり、自分のことを目上としてくれる人のことは見えるのだ。

ということは、自分の目上の人には僕のことが見えている。

僕自身には見えないものが、見えている。

それをいろんな言い方や行動で示してくれる。これが帝王学だと思う。


受講する資格は「本気度」
この帝王学を受講する資格は何かといえば、やはり本気度なのだろう。

今、自分は受講していると思っている。

しかし本気度が下がったり、人間として見限られるようなことをすれば、

もうこの学問は受けられなくなる。そういう性質の学びなのだ。


なぜこんなことを話しているかというと、

昔の自分は「これ一つ勉強しておけば人生うまくいく」というものを探していた時期があった。

帝王学がそれなのではないかと思い、帝王学を探してみたのだが、全然何も見つからなかった。

その経験があるからこそ、改めて帝王学とはこういうことだったのだなと思い、まとめておきたくなったのである。