フリーズムーンを流しながら、軽く飲んでいる。こういう夜に尾崎豊を聴くと、いつも同じことを考える。なんで俺はこんなに尾崎に惹かれるんだろう、と。
正直に言えば、尾崎豊の音楽は自分の音楽性とはずれている。プロのギタリストとして、作編曲家として、自分が追求しているサウンドとは違う方向にある。それなのに、少年の頃からずっと好きなヒーローであり続けている。理屈じゃない何かが、そこにはある。
尾崎豊という人間は、ガチガチの、ただのロックンローラーだった。ただの詩人だった。ただの「頭」だった。自分の思いや弱さを切り取って、そのまま前に出して発信していた。フィルターをかけず、かっこつけず、むき出しの言葉をぶつけてきた。そこがたまらなく好きなのである。
尾崎の言葉はすごく等身大だ。もちろん「卒業」や「I LOVE YOU」も好きだが、俺がもっと惹かれるのは、地元の友人に宛てたような、身近な人間をテーマにした曲の方である。「スクラップアレイ」や「フリーズムーン」のような曲。大きなメッセージではなく、隣にいた誰かへの言葉。そこに宿る体温みたいなものに、どうしようもなく心が動く。
不思議なのは、俺自身は尾崎の歌に出てくるような経験をそこまでしていないということだ。それなのに、尾崎の歌を聴くと郷愁のようなものが込み上げてくる。いろんなことを思い出す。「俺もこうだったな」と感じる。でも実際はそうだったわけじゃない。これは一体何なのだろう。
たぶん、尾崎が歌っていたのは具体的な出来事ではなく、その奥にある感情の質感なのだと思う。孤独、焦り、何かを求めている感覚。それは誰の中にもあるもので、尾崎はそこに嘘なく触れてくるから、聴く者の記憶が勝手に呼び起こされるのだ。
そして、こうも思う。尾崎の歌みたいなものは、AIには作れない。あの熱は絶対に作れない。計算や技術の産物ではなく、一人の人間が人生を削りながら絞り出したものだからである。音楽の構造を理解し、プロとして仕事をしてきた人間だからこそ、余計にわかる。尾崎豊の音楽の核にあるものは、技術の向こう側にある。
フリーズムーンが終わる。グラスを傾けながら、またいつか同じことを考えるだろう。なんで俺はこんなに尾崎豊が好きなんだろう、と。答えは出ない。出なくていい。それがロックンロールだと思うから。