おばあちゃんが亡くなった事への気持ちの整理が
残念な事に時間と共に整理をすることができるようになってきた。
私にとっておばあちゃんは本当に大きな存在であった。
子供の頃はほとんど一緒に住んでいたこともあったし、
おばあちゃんは結構僕に対しても言う事はいうといった厳しいところもあって、
その辺がほかのおじいちゃんやおばあちゃんと違うという側面もあった。
おばあちゃんは僕がとても小さい時に伊豆の山に引っ越し、
そこから基本的にはその山に住んでいた。
僕は小さい時から定期的に伊豆の山の家を訪ね、
そこで時が止まったように変わらない家で、ご飯を食べて、
おばあちゃんと話をして、宿題をやったり、音楽を聴いたり、
ゲームをしたりしながら、育ってきた。
私が住んでいたタイの家にも何か月もいて、外食したり、学校の話をしたり、
悪さを咎められるといったこともあった。
おばあちゃんに怒られて家を飛び出した事もあったり、
当時タイに出来たてのエンポリウムの紀伊国屋書店で
おばあちゃんにデビューしたての深田恭子ののってたマガジンを買ってもらったり、
家の近くの韓国料理に連れて行ってもらったりと、いろんなことがあった。
いろんなものを買ってもらったりお金も使わせたと思うのだが、
それ以上におばあちゃんと孫という関係の中での慈しみがあったと感じている。
そして転勤族の息子として生まれた僕は、故郷というものが曖昧であったから、
時がたつにつれて、伊豆の山の家が故郷になっていった。
時がたつにすれ、他のおじいちゃんやおばあちゃん、おじさん、おばさんなどが
亡くなっていく中でもおばあちゃんは元気で、頭もしっかりしていた。
私も大きくなり、高校を出て大学を出て、社会に出ていく中で、
おばあちゃんの家に一人で行ったり、友達と一緒に行ったり、
環境が変わる中でも、変わらない家の中で、お酒を嗜んだり、
おばあちゃんと居酒屋に行き、お酒を飲むなんてことも何度もできた。
おばあちゃんもちょっとずつ年は取っていったのだけれど、
私は嫁を連れて挨拶に行く事も出来たし、式にも参列してもらった。
職場まで来て、なんとすた丼が食べたいというので、一緒に行ったこともあった。
最後はおばあちゃんは少しだけ施設に入ったのだが、そこまで訪ねて行って、
お話をすることもできた。
他のおじいちゃんやおばあちゃんにはできなかった大人になってからの自分を見せる事もできたし、
幾多の時間を一緒に過ごしてきたという意味で寂しさはあれど、悔いはない。
そして戦争を体験した女性としては大変珍しく理系の大卒で、教科書の執筆にも関わった
インテリジェンスの高いおばあちゃんが、自尊を失う事なく、今生を終えられたという事は
おばあちゃんを知るものとして、おばあちゃんの名誉が守られたと、そこについて僕は良かったなと思っている。
また、おばあちゃんが天から見ていると思うと、いろいろと歯痒いが、暖かさ、守られている感じがとてもする。
父方のおばあちゃんが早くに亡くなって火葬をしている時に、号泣している私に
おばあちゃんは長生きをするからねと言ってくれたその約束から20年以上も長生きをしてくれた。
約束は守るものだ、そういう事も改めて学ばせて頂いている。
それにしてもおばあちゃんの葬儀の日に寄ったおばあちゃんの家は私の記憶の最初にある
その姿から本当に1mmも変わらない様子で、ただおばあちゃんの不在だけが際立っていた。