お金の事を深い視点から見つめ直したいと思い

村西とおるさんの裸の資本論という本を読んだ。


そんな中で世の中は生き金と死に金というのがあるというような話を聞いて

自身の最近の経験から深い納得を得た。


生き金は自分自身がそのお金によって得た経験で心からの安息や楽しみ、実りや学びを感じればそうだという。

そして私が村西さんの話を広く解釈して思うのは人の幸せのためにお金を使うとそれもまた生き金と思う。


私が新卒だった頃、高倉健を思わせる漢な他部署の部長さんに可愛がってもらって

死ぬほど飲みに連れて行ってもらったものだ。


数万を超えるお会計の割り勘はいつも500円で

ご馳走様です!と言うと

奢ってないぜ、割り勘だ。と言ってくれる部長のかっこよさが深々と身に染みて、私自身も若い人にたまに使っている。


まさに生き金を部長は身を削って教えてくれたのだ。


一方で自分や人を不幸にしてしまうお金は死に金だ。

多くは語らないが、お金を持ちすぎたあまりに、急に転がってきてしまったために、欲に目がくらんだあげく、

親しい人達の関係がもう2度と修復できないほどに壊れてしまうことがある。


とある経済セミナーで聞いた話だが、1000万以上の資産を持つ誰かが死んだり倒れた場合は50%以上の確率で兄弟や親戚が揉めてしまうという。


よほどのサイコパスでなければあえて揉めたり誰かを傷つけるということをしないのに

人間が豹変し、お互いを悪魔のような存在にしか思えなくなってしまう。

悲しい死に金である。


お金は我々の生きている3次元空間で多くの事を可能にしてくれる本当にありがたい幸せのアイテムである。


しかし時としてその魔性の力は人を狂わせ、その魔性の海の中から決して幸せの陸地にあげなくしてしまう恐ろしさを兼ね備えている。


こんなありがたいものをそのように使っていいものだろうか?


生き金を使っていくには、お金よりも一つ高い抽象度でものを見ないといけないんだと思う。

お金は何のために使うんだろうか?

自分や家族や仲間の人生の幸せのために使うもののはずだ。

正しく回していって社会や日本が強くなっていく潤いのはずだ。


またお金そのものが自分の存在意義になってしまうと、アルコールや薬物の依存のようにいくらあっても足りないとなるし

お金がなくなってしまうと自分自身の価値もまたなくなってしまうような錯覚に囚われるだろう。


目指すべきは生き金を使うお金持ちであり、そのためにはお金がもたらす魔性の力に打ち勝てる人間性や哲学、幅広い見識を持たねばならないと改めて思うわけである。




これは焼酎のボトルを込みで、たぶん1500円くらいじゃないだろうか

でも美味しくて、心からありがたく飲み食いし

明日の活力になった。


生き金である。


でも罵り合いながら飲み食いしたらたぶん死に金なんだろうね。