2022 11月の読書記録Ⅱ『泥沼スクリーン』他 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

今月も図書館で本を借りてきた。読みたい本を書店や古本屋で購入するといつでも好きな時に好きなように読めるという安心感を得られるが、いつでも読めるという安心感から死ぬまで読まなかったという事も考えられる。いずれ仕事をリタイアしたあとゆっくり読もうと思って買い溜めていた映画雑誌やシナリオ誌が部屋の中に積み上げられ、あるいは段ボールの中で眠っている。

返却日〇月×日という強迫観念に迫られながら馬車馬のように本を読んで行くのが今の自分に合っている。

 

『マダム・エドワルダ / 目玉の話』 ジョルジュ・バタイユ

             中条省平訳 光文社古典新訳文庫

感想)パリ、サン=ドニ街の娼家(売春宿)で主人公はマダム・エドワルダに出会いその美しさに魅了され快楽に打ちのめされる。内容を知ってもらうには気になった箇所をいくつか引用するのがいいのだろうが、内容が内容なので控えるべきかと思ったが、やはり一部引用しておくことにする。

<茫然自失の状態から、あまりにも人間らしい声が私を引きだしてくれた。マダム・エドワルダの声は、その華奢な体と同じく猥褻だった。「わたしのぼろ切れを見たい?」と彼女はいう。

私はテーブルに両手をつき、女のほうを振りむいた。彼女は椅子に腰を下ろして、片方の脚を高くもちあげていた。割れ目をもっと広げるために、両手で皮膚をひっぱったところだった。すると、エドワルダの、毛むくじゃらで、ピンクの、いやらしい蛸のように生命にあふれる「ぼろ切れ」が私を見つめていた。私は口ごもりながら、ゆっくりと尋ねた。

「なんでそんなことをするんだ?」

「分かってるでしょう、あたしはなのよ・・・・・・」

「おれは頭がおかしくなったのか・・・・・・」

「とんでもない。見なくちゃだめ。見るのよ!」

彼女のしわがれ声がやさしくとろけ、ほとんど子供のような声になり、物憂さと、投げやりから生まれる限りない微笑みをふくんでこういった。

「すごくよかったわよ!」>

あの部分を「わたしのぼろ切れ」というマダム・エドワルダ。 商売道具であり夜ごと男たちの快楽の道具としてすり切れ、ぼろ切れになった肉の襞、わたしのぼろ切れ。

<壁に張りつめられた鏡が天井まで覆いつくし、けもののような交尾のすがたを数かぎりなく映しだしていた。ほんのすこし体を動かしただけで、私たちの破裂した心臓は虚無に直面し、そこで私たちは無限の鏡像のあいだをさまようのだった。>

仮装舞踏会のガウンの下に裸身を隠し、レースの黒い仮面で顔を覆ったマダム・エドワルダは夜のサン=ドニ門をくぐり抜けて黒い石の前でひとりきりになっていた。虚無、空虚、心の闇 死、発作、痙攣、狂乱、タクシー運転手に割れ目をみせ交尾するエドワルダ。力を失ったままそばで見つめている私。エドワルダは白目をむき硬直し、あえぎ声をつのらせる。

<体の根っこで彼女を浸した水が涙となってほとばしり、目から涙が流れおちた。この目のなかで愛は死に、夜明けの冷たさがあらわれ、その透明さに私は死の影を見てとった。そして、すべてがこの夢のまなざしのなかで結ばれていた。ふたつの裸体、肉を開く指、私の不安、泡をふいた唇の記憶。なにもかもが、盲目のまま死のなかへ転がり落ちることにつながっていた。>

訳者は『マダム・エドワルダ』を、「人間の可能性の極限として考えぬいたエロティシズムであり、本書の決定的な特異性はエロティシズムと哲学、セックスと形而上学とが荒々しく、直接に接合されていることなのだ。」と述べている。

<私の生命は、私が生命を欠くときにしか、私が狂うときにしか意味をもたない。分かる者だけが分かればよい、死ぬ者だけが分かれば・・・・・。かくして、存在がそこにあらわれる。理由も分からず、寒さにふるえたまま・・・・・・。広大なもの、夜の闇が存在を包む。存在がそこにあるのは、ただ・・・・・「分からない」ため。だが、神は?>

エロティシズム小説に哲学やセックスと形而上学とが加わり、詩的表現が使われると凡愚には理解を超えているが、エロティシズム小説としての面白さは十二分に感得された。

 

 

『目玉の話』 ジョルジュ・バタイユ 中条省平訳

感想)『眼球譚』(生田耕作訳)として広く知られている作品の中条省平による新訳。16歳前後の少年少女が主人公の「変態性欲嗜好小説」と概括することも可能だが、バタイユの年譜をたどっていくと、これは単なる「変態エロティシズム小説」ではなく、精神の奥深くにひそんだ苦悩ゆえに生まれた必然的な帰結のように感じられる。バタイユの父は梅毒で失明し、やがて四肢もマヒしてバタイユが父の排泄の面倒も見ていた。放尿時に父の目は大きく見開かれ、ほとんど真白になり錯乱の表情を浮かべていたと書いている。そして、白い目玉のイメージを玉子のイメージと結びつけていたと。マドリッドの闘牛場で花形闘牛士が突進した牛の角で目を突かれ右の目玉が垂れるというシーンも実際バタイユがスペイン留学時にマドリッドの闘牛場で目撃している。快楽の果てに死んだ司祭の目玉をえぐりだすのも、シモーヌやマルセルが放つおびただしい<おしっこ>も単なる<変態性欲者>を満足させるための遊戯を超えている。主人公たちは世間的な道徳(キリスト教的道徳観、罪の意識)にとらわれず、性欲の湧き上がるまま変態行為の限りをつくす。『目玉の話』に感じるのも、『マダム・エドワルダ』と同じようなバタイユの人生への空虚や絶望<性的昂揚を支えている孤独と意味の不在>(『目玉の話』続篇草案 )に違いない。

 

 

 

 

『泥沼スクリーン』 春日太一著 文芸春秋社

 

 

感想)春日太一という名前は知っていたが、50代か60代と思っていたので(1977年(昭和52年)生まれ)こんなに若い人だったのは(といっても現在は40代半ばだが)意外だった。週刊文春に連載された「木曜邦画劇場」という映画コラムから厳選された93作品がピックアップされ、巻末に宇多丸と映画対談も収められている。1作品につきおよそ1200字ほどで、その作品を観た当時の著者の生活環境、精神状態などを交えながら、映画評論家的な視点ではなく、出演俳優たちへのファン的目線から作品を語っている。世間的には駄作と言われるような作品も角度を変えて観るとそれ相応の面白さが見いだせる、そんな映画との付き合い方の柔軟性も著者の魅力かも知れない。『徳川いれずみ師 責め地獄』(石井輝男監督)について書いたレビューで、大学に入りたての頃、憧れていた石井輝男監督のもとに弟子入りし、「作る映画の割に人柄は悪くない」という噂とは裏腹の冷酷非道ぶりで、精神的に追いつめられ「コイツを殺すか、自分が死ぬしかないと本気で思うようになった」いうくだりはマジで恐怖を覚えた。この時の経験から監督志望を断念したらしい。

 

 

これ以降の作品の感想は簡単にいきます。

 

『富士正晴』 ちくま日本文学全集

収録作品  詩・幽霊の村・墓所・パイプ・老人・身投げ・少年のクリスマス・イヴ・小信・一夜の宿、恋の傍杖・あなたはわたし・帝国軍隊に於ける学習、序・童貞・蟠竜山新春・『花ざかりの森』のころ・わたしの戦後・同人雑誌四十年・久坂葉子のこと・軽みの死者・ジジババ合戦、最後の逆転・坐っている

 

感想)富士正晴は名前だけは知っていて作品を読んだのは今回が初めてだったが、軽みのなかに人生の辛苦をなめてきた人特有の諦観や深みが感じられてどの作品も面白かった。

 

 

『石川淳』  ちくま日本文学全集

 

収録作品  マルスの歌・張柏端・曾呂利咄・焼跡のイエス・鷹・おとしばなし和唐内・霊薬十二神丹・二人権兵衛・八幡縁起

諸国き(田に奇)人伝・小林如泥・狂歌百鬼夜狂・虚構について

江戸人の発想法について・敗荷落日・安吾のいる風景

 

感想)特に面白かったのは『マルスの歌』『焼跡のイエス』『鷹』『二人権兵衛』『虚構について』

『敗荷落日』という作品(随筆)で『葛飾土産』以降の永井荷風の生きざまを激しく攻撃(批判)しているのが印象的だった。

 

 

『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー

              篠田一士訳 河出書房新社

 

感想)五日くらいで読み終わったが、夏休み一カ月かけて読んだような重量感がある小説で、文章や構成も複雑で、これまで読んだ外国文学のなかでも五指に入る作品だった。翻訳に少し引っかかる処もあり、ほかの訳者のものも読んでみたい。フォークナーの頭のなかは一体どうなっているのか。