本『すべて真夜中の恋人たち』 川上未映子 (講談社) | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

図書館にあった何冊かの川上未映子の作品からこちらを選択、

その感想です。

 

自分のための備忘録として文章を一部抜粋、引用しています。

 


『すべて真夜中の恋人たち』 川上未映子 (講談社)

 

<真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。

それは、きっと、真夜中には世界が半分になるからですよと、いつか三束さんが言ったことを、わたしはこの真夜中を歩きながら思い出している。光をかぞえる。夜のなかの、光をかぞえる。

雨が降っているわけでもないのに濡れたようにふるえる信号機の赤。つらなる街灯。走り去ってゆく車のランプ。窓のあかり。

帰ってきた人、あるいはこれからどこかへゆく人の手のなかの携帯電話。真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には光しかないのですか。耳を満たすイヤホンから流れてくる音楽はわたしを満たして、それがすべてになってしまう。子守歌。ピアノのうつくしい子守歌。すてきな曲ですね。そうですね。ショパンでいちばんすきな曲です。冬子さんも、気に入りましたか。ええ。

まるで夜の呼吸のようです。溶かした光で鳴っているようです。昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ。>

 

<大学を卒業してはじめて働いた会社を辞めたのは、三年前の四月の終わりだった。

そこは誰も名前をきいたこともないような小さな出版社で、いったい誰が読むのだろうと思わされる本ばかりをつくっていたけれど、とても印象的な名前をした会社だった。出版社の仕事の内容は、その会社の規模や性格によって多少違うこともあるけれど基本的には本をつくってそれを販売するというものだ。そのなかでも、一冊の本になるまえのさまざまな文章を何度も何度もくりかえし読んで、誤字脱字や言葉のつかわれかたや内容に事実誤認があるかどうかを調べる ー つまり朝から夜までただひたすら「間違い」を探す校閲という仕事があって、わたしはその小さな会社の校閲者だった。>

 

<時間をわけてほしいの、という恭子さんの言葉をわたしは頭のなかでくりかえした。入社してこの仕事をするようになってから、画面のしたに流れるテロップの間違いが気になってそれを直せないのが苦痛になり、自然にテレビはみられなくなってしまったし、ふだんは本も読まないし、音楽もきかない。一緒に食事をしたり、電話をかけて長話をするような友達もいない。わたしはよほどのことがないかぎり仕事を家に持ち帰らないし、調べものをふくめてすべてのことは勤務中に済ませてしまう。遅くても八時には家に着いて、簡単な食事をとってしまうと、ほかにはすることなんて何もなかった。

毎晩毎晩やってくる、眠るまでのあの時間を、わたしはいったい何をして過ごしているのだろう? そして仕事を始めるまでのあの膨大な時間を、わたしはいったい何で埋めてきたのだろう?>

 

<何が気になっているのだろう。さっきから何が。わたしは天井をみつめたまま動かなかった。しばらくそのままのかっこうでいて、あきらめて電気を消そうとしたときにそれが何なのかがわかった。それは言葉だった。手をのばして机のはじに置いてあった新しいノートと鉛筆を取り、ベッドに仰向けになったまま表紙をめくった。手のひらでノートの背中をささえ、最初の白いページをひらいたそこに、すべて真夜中の恋人たち、と書いた。それはただ、わたしのどこかに浮かんだ言葉だった。わたしはその文字とも文章ともつかない言葉をうすぼんやりとした光のなかでじっと眺めた。それはきいたこともみたこともない言葉だったけれど、いつかどこかで読んだりみたりした映画や歌のタイトルなのかもしれなかったし、わたしのなかのどこかからやってきた言葉なのかもしれなかった。わたしは光に照らされた自分の文字をみて、こんなふうに誰かの原稿でもゲラでも何でもない場所に、目的のない、何のためでもない言葉を書くのは、はじめてだと思った。それが何なのか見当もつかない。何のための何の言葉なのかさっぱりわからない、けれどわたしの胸にやってきてそれから消えようとはしないその言葉を、わたしはじっとみつめていた。

ひとしきりみつめたあと、ノートを閉じて、枕もとの電気を消すと、淡い闇がまぶたのうらにやさしく広がっていった。

光が去って、明日の朝また光がここを訪れるまでの短いあいだ、わたしはしずかに目を閉じた。>

 

感想)冬子は以前同じ出版社にいて数年間一緒に働き、今は編集プロダクションを経営している恭子から校閲の仕事の依頼を受ける。一緒にいたころの数年間、特に親しくしていたわけではなかった恭子から声をかけてもらったことが嬉しかった。恭子の紹介で、大手出版社の社員で校閲局に所属する石川聖と仕事関係の付き合いがはじまる。聖は才色兼備の女性で目上の男でも言葉でやり込めてしまうほどの才を持つ女。冬子と同じ長野の出身で、年も同じ、仕事を離れ誘われて飲みに付き合ったりもする。冬子は聖からの提案で今の会社を辞めフリーランスで校閲の仕事をやることを決意した。冬子にとって今の出版社は居心地のいい場所ではなかった。フリーランスでやる校閲の仕事は自分に合っていたが、仕事以外に何の楽しみや趣味をもたない冬子は聖と付き合ううちに酒を飲むことをおぼえ、それは朝から飲むほどまでエスカレートしていく。そんなおり、たまたま見かけたカルチャーセンターの案内を見て休日の日曜日に行ってみることにする。朝から酒を飲んでいた冬子はロビーで吐き気を催しトイレに駆け込むが、そこで白髪が見える中年男性・三束(みつか)とぶつかってしまう。翌週、カルチャーセンターへ行った冬子は三束と偶然再会、高校で物理の教師をしているという三束から週一回、喫茶店で<光>についての話を聞くことになった。

 

三十四歳、独身で地方の普通の公立高校を出、普通に入れる東京の私立大学を卒業、名も知れぬ小さな出版社の校閲の仕事を続けてきた冬子は職場環境に居心地の悪さを感じながらも一人で黙々とできる校閲の仕事は好きで我慢しながら何となく日々をやり過ごしている。友達もいない、テレビも見ない、本も読まない、趣味もない、仕事以外の膨大な時間を自分は一体どうやり過ごしているのか。自分とはまるで正反対のように生き生きとしている同い年の聖と出会い、50代半ば過ぎの三束という男に出会ったことで冬子のなかでこれまで閉じ込めていた自分の思いに正直に向き合おうとする気持ちが生まれる。 川上未映子の作品はこれまで数冊読んだが、独特の文体が魅力で、内容は純文学的というのか、この作品でも主人公の冬子が語る一人称の視点からの細やかな心理描写が際立つ。そこにはわれわれの日常と地続きのリアリティが確かな息遣いをもって存在している。作品もアート系の映画を見ているような印象があり、カルチャーセンターで出会った女と男がすぐに男女関係の営みに発展する渡辺淳一の『失楽園』のようなエンタメ小説とは一線を画している。この作品では冬子と聖の対比が鮮やかで、三束を含めた都会に生きる人間の孤独が真夜中に点滅する光のように闇の中から鮮明に浮かびあがってくる。普通の女冬子に自分自身を重ね合わせ共感する女性もいるだろうし、初老の男三束の孤独には闇の中を彷徨うような寂寥感がただよう。

 

川上未映子があるインタビューで語っている言葉に共感した。

 

「書き手としては、とにかく書くときに、楽をしないこと。怠慢な部分がないかどうか、いつも注意すること、それがとても大切なことだと思っています」

 

楽をした怠慢な小説はプロの文芸評論家ならずとも、それなりの読書経験を持った人間が読めばすぐに見抜かれる。『すべて真夜中の恋人たち』に楽や怠慢な部分は見られなかった。持続する緊張感が張り詰めている。面白いのに読んでいて疲れた。冬子と三束が心の中から離れない。だから、しばらく次の小説を読む気になれなかった。