『海と毒薬』(熊井啓監督 1986年) | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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『海と毒薬』1986年

監督・脚本 熊井啓 原作・遠藤周作 撮影・栃沢正夫 

   音楽・松村禎三 

 

出演 奥田瑛二、渡辺謙、田村高廣、岸田今日子、根岸季衣

成田三樹夫、西田健、岡田真澄、千石規子、神山繫、辻萬長

津嘉山正種、ワタナベマリア、(ナレーター・平光淳之助) 他。

 

 昭和20年5月第二次世界大戦下、九州にあるF大医学部では大杉学部長の死によって次の学部長をめぐる争いが水面下で進行していた。第一外科部長・橋本教授(田村高廣)のもとには柴田助教授(成田三樹夫)、助手の浅井(西田健)看護婦長の大場(岸田今日子)らが付き従い、医学部研究生・勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)も否応なしにその流れに巻き込まれて行った。

 

勝呂は研究生として初めて担当した”おばはん”(千石規子)の事が気になり何かと世話を焼くが、そんな勝呂の一患者への執着を戸田は「無意味だ」と嘲笑った。死んだ大杉学部長の姪の手術が橋本教授の執刀のもとで行われ、姪は手術中の失敗で亡くなった。そのことは内密にされ、翌日手術後の容態の急変で死亡したと家族に告げられた。手術失敗で信頼を落とし、失地回復したい第一外科は軍部と手を組みB29爆撃機の米軍操縦士捕虜8名の生体解剖に着手する事を決める。柴田助教授に生体解剖の助手を務めて貰えないかと打診された戸田は迷いなく引き受けるが、勝呂は直ぐに返事をすることをためらう。

 

「医学の進歩」のためと称して生きたまま執行される戦争捕虜たちへの<生体解剖>は果たして許されるのか? 

「医者かて聖人やなかよ。患者を殺して医学が進歩したんやないか」と言う戸田は、空襲でいつ死ぬかもしれない現実の中で徐々に人間的な感覚を麻痺させ、勝呂はそんな戸田の考えに反発やある種の理解を示しながら自分の心の奥深くにある<良心>と最後まで葛藤し続ける。助手の浅井は「医学の進歩」や「お国のため」という最もらしい理由を持ち出すが、内心は自分の出世のために周囲の人間たちを利用しようとするにすぎない。

 

橋本教授の妻であるドイツ人のヒルダ(ワタナベマリア)は病院に押しかけ患者の世話を焼くが、それが看護師や患者たちにとってどれだけ迷惑な行為であるかに気付いていない。浅井の指示で患者に致死量以上の薬を注射しようとした看護師の上田(根岸季衣)を見たヒルダは「神様が怖くないのか。あなたは神様の罰を信じないのか」と怒鳴りつける。

 

看護師を休職になった上田が浅井に懇願され<生体解剖>を手伝うのは「医学の進歩」でも「日本」の為でもなく自分を怒鳴りつけてクビにしたヒルダへの私怨(復讐心)からであり、橋本教授に尽くす大場婦長の心の底にあるのは「医学の進歩」や「日本のため」ではなく橋本教授に対する尊敬や愛情という個人的な感情である。

 

<生体解剖>の現場には軍の将校たちも立ち合い、それは8ミリカメラで撮影される。解剖の後、浅井は田中軍医(草野裕)から「レーベル(Leber肝臓)を切り取って持ってきてくれんか」と言われる。「まさか、若い将校たちに試食させるんじゃないでしょうね」。歌い騒ぐ将校たちの送別会のテーブルの上に生体解剖されたレーベルが置かれていた。

 

勝呂の葛藤は自分の中にある「良心」との葛藤であると同時に、「世間の目」「社会の目」に対する恐怖から生まれるものでもある。「捕虜を殺したんではなく生かしたんや。世間の罰だけやったら何も変わらへんで。俺もお前もこんな時代にこんな医学部だったからこうなったんや。俺たちを罰する連中かて同じ立場に置かれたらどうやったか分からへんで。世間の罰なんてまずまずそんなもんや」「そうやろか。いつまでも俺たちおんなじことなんやろか」。戸田や勝呂の最後の台詞は熊井啓監督から観客への人間と社会に対する根源的な問いかけのようにも思える。

 

「日本が勝とうが負けようがウチにはどうでもよかよ」。

根岸季衣扮する上田看護師のこの言葉が最も真実のように思えた。最後にナレーションが入る。

「極東国際軍事裁判において、<生体解剖>に関係した25名が検挙され、内5名に絞死刑が言い渡されたが、朝鮮戦争をはじめとする国際情勢の変化の中で全員釈放された」

 

法や人間の心の変わりようの何といういい加減さ。

それもまた、人間社会の真実と言うべきだろうか。

 

ベルリン国際映画祭銀熊賞審査員グランプリ。

キネマ旬報ベストテン第1位。☆☆☆☆☆(☆5が 満点)