『青いパパイヤの香り』 トラン・アン・ユン監督 1993年 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

映画感想、読書感想を備忘録として書いてます。
三浦しをん氏のエッセイを愛読しています。
記憶に残る映画と1本でも多く出会えることを願っています。

『青いパパイヤの香り』(監督・脚本・トラン・アン・ユン 撮影・ブノワ・ドゥローム 音楽・トン=ツァ・ティエ 1993年)

 

出演・トラン・ヌー・イエン=ケー、リュ・マン・サン、トルゥオン・チー・ロック、グエン・アン・ホア、トラン・ゴック・トゥルン、ヴァン・ホア・ホイ 他。

 

ある夜、10歳のムイ(リゥ・マン・サン)はサイゴンの資産家の家に奉公人としてやって来た。1951年、ベトナムではインドシナ戦争中だが、この町に戦火の面影はない。ムイは翌日からこの家の老女中・ティー(グエン・アン・ホア)から料理の作り方を教えて貰い、食事の給仕、掃除、雑用仕事などを教えてもらう。この家の家族は資産家のように見えたが、父親(トラン・ゴック・トゥルン)は仕事をせず弦楽器をたしなむ以外興味がないらしく、母親(トルゥオン・チー・ロック)が布地屋を経営して生活を支えている。家族は社会人になった長男のチェン、中学生の次男ラム、小学生の三男ティンと2階の部屋でひっそりと暮らす祖母の6人。母親は病気で死んだ幼い娘トーにムイを重ね合わせ優しく接してくれたが、三男のティンは何かにつけてムイにいたずらを繰り返し、次男のラムに叱られる。暫くして父が出かけると言って出た後、深夜になっても帰って来なかった。胸騒ぎを覚えた母が金庫を開けて見ると中に入れていた現金と高価な装飾類がなくなっていた。父になついていたティンは父の不在を悲しんだ。しばらくして、家の中に父の倒れている姿があった。

 

1951年のベトナムで10歳の少女が見知らぬ家の奉公人として働かざるを得ない厳しい現実があったことを思い知らされる。オープニングの不安に怯えながら道行く人に奉公先の家を尋ねるみすぼらしいムイの姿は胸に迫るものがある。奉公先の家は構えは立派だが生活能力のない風流人の父(おそらく遺産を受け継いだのだろう)を母親が支えている。ムイはアリやカエル、コオロギなど身の回りの小さな生き物や老女中のティーが朝もいでいくパパイヤの茎から垂れてくる白い樹液に子供らしい興味をしめす。そして、訪ねてきた長男チェンの友人・クェン(ヴォン・ホア・ホイ)に幼い胸をときめかせる。やがて父が死に祖母もなくなる。10年後、ムイは美しい娘(トラン・ヌー・イエン=ケー)に成長していた。長男は結婚して母は老いていた。生活が苦しく余裕がなくなった家でムイは暇を出される。母は自分の娘のために用意していたアオザイとネックレス、腕輪をムイに渡した。家を出てゆくその日、2階の部屋からすすり泣く声が聞こえた。


10歳のムイが恋したクェンは新進作曲家になっており、ムイはその家に雇われることになった。クェンのためにかいがいしく働くムイはクェンの婚約者には敵でしかなかった。クェンがムイに心を奪われていると知った婚約者はムイを叩き、家中のものを壊して指輪を置いて出て行った。クェンはムイに本を与え読み書きを教える。大きな籐椅子に座ったムイのおなかには新しい生命が宿っていた。

 

この作品には日本の溝口健二や小津安二郎の影響が強く窺える。トラン・アン・ユン監督はベトナムに生まれ、幼い頃フランスに移住してリヨンの映画学校を出ており、日本の小津、成瀬、溝口、黒澤の作品は相当観て勉強しているだろう。日本に来日した際の映画祭の質疑応答でも「非常にゆっくりカメラを動かしていく手法は溝口健二から影響を受けて取り入れた」と語っている。音楽も『雨月物語』や『山椒大夫』の早川文雄や早川の影響を受けた武満徹の音楽を彷彿とさせる。やたら屁をかます三男の悪ガキ、ティンは小津作品の影響(オマージュ?)だろう。音楽について言えば、鳥のさえずりやカエル、コオロギの鳴くリアルな現実音と日本とアジアを混在させた雅楽的な音楽、クェンがピアノで弾く西洋的なクラッシック音楽が巧みに使用されて、登場人物の不安感や幽玄な雰囲気を醸成している。映像的暗喩も色々ちりばめられている。例えば、パパイヤをもいだ後に出てくる樹液は母乳を暗示させ、ラスト近く二つに切られたパパイアの無数の種から一粒の種をつかむシーンはムイがクェンの精子から受精した事を暗示しているように思える。「パパイヤは青い時は野菜と見なされ、熟した時に初めて果実となる。『青いパパイヤの香り』は、母親にまつわる私の子供の頃の記憶である」(トラン・アン・ユン)。この作品はパリ郊外のスタジオセットで在仏ベトナム人スタッフたちによって再現されたサイゴンだそうだ。

三男の悪ガキ、ティンはその後どんな人生を送ったのか気になった。ベトナム戦争に赴いたのだろうか。思えば後半登場した成長したムイに台詞はなく、クェンの家に雇われた経緯も省略され、ムイとクェンが会話するシーンもなかった。ルイ・マルの言った「映画は省略と選択」という言葉をこの映画で改めて考えさせられた。☆☆☆☆☆(☆5が満点) 

 

(ポルトガル語?の字幕版で鑑賞したため台詞の詳細については全く分かりませんでしたが、映像と音楽で8割方内容を理解できる作品と感じました)