『十六歳の戦争』(松本俊夫監督 1973年)          秋吉久美子×下田逸郎 | レイモン大和屋の <シネ!ブラボー>

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『十六歳の戦争』1976年公開(1973年制作)

 

監督・松本俊夫 脚本・山田正弘 松本俊夫   

撮影・押切隆世 音楽・下田逸郎 ポリドールレコード 『陽のあたる翼/下田逸郎』より 美術・大谷和正 照明・久米光男 録音・西崎英雄 編集・浦岡敬一 制作・サンオフィス 

 

出演・秋吉久美子、下田逸郎、嵯峨三智子、ケーシー高峰、佐々 木孝丸、戸浦六宏、乙黒ますみ、実川天兵、小原秀明、東京新社、巣山プロ ほか。

   

 有永甚(下田逸郎)は恋人から妊娠していると告げられ、逃げるように見知らぬ町へやって来た。途中まで乗せてもらったトラックを降り駅へ向かう道を歩いていると河原に向かって人々が走って行く。あとを追うと、河原には男女と思われるむしろを掛けられた死体が横たわっていた。集まった人々の中でふと甚と目が合った十六歳の女子高生・埴科あずな(秋吉久美子)。

あずなの家に招かれた甚はあずなの母・保子(嵯峨三智子)と、

父の康三郎(佐々木孝丸)を紹介される。庭に設けられた食事の席であずなは甚のいる前で、戸籍を調べると自分には兄がいることになっていて、何か秘密があるのではと母を問い詰めるが、「何を馬鹿なことを」とかわされてしまう。その様子を二階から見ている男はあずみの叔父・岡治芳男(ケーシー高峰)だった。

 

第二次大戦中東洋一と呼ばれた海軍工廠があり、1945年8月7日のアメリカ軍の空襲によって亡くなった二千四百余名の犠牲者を慰霊するため愛知県豊川市が出資して1973年に制作され、1974年に公開予定だったが内容の難解さから1976年に公開が延期されたという作品。松本俊夫に映画制作の依頼があったのは名古屋出身でドキュメンタリー映画の実績があることを見込まれたのだろうか。実験映画の監督で映像表現の理論家でもある松本俊夫と共同脚本が山田正弘であることを考えると一般的な娯楽映画にならないことは予想できる。秋吉久美子はこの作品が映画初主演作。下田逸郎はフォークソング歌手で演技はほぼ素人だが、それがむしろこの映画に新鮮さを生み出している。

 

海軍工廠に女子挺身隊として派遣された十六歳の女子学生たち、母とその親友だった甚の母・みずえ(秋吉二役)の戦争と十六歳の今を生きる思春期のあずなの大人たちへの戦争が戦争の後遺症を引きずりながら生きる叔父(ケーシー高峰)や秘密を抱えながら「人生というのはいつも間違えて汽車に乗っているようなものだ。だからといって、もう降りるわけにはいかない。出て行った前の列車には乗れないのだ。乗りそこなった列車の名前を思い出したところで何の足しにもならんのだよ」と語る父の思いに重ね合わされ、作品が宇宙的な世界観へと導かれてゆく。

十六歳のあずなの戦争は事実を隠しすべてを過去の出来事として葬り去ろうとする大人たちへの反抗であり、甚が思いを寄せる母への嫉妬でもある。繰り返される変わり映えのしない毎日への空虚、彷徨、懊悩、苛立ち、自分を変えてくれる何者かの出現を待っている夢見がちな少女の一面。でも、あずなは理解している。「あたしたちはこの宇宙を動かしている大きな力に逆らえないんだわ」と。

 

難解という評価も多い作品だが、若干の不明箇所は残るものの、一、二回目の鑑賞で疑問だった点は三回目の鑑賞でほぼ氷解した。冒頭のクレジットタイトルから下田逸郎の歌が流れ、劇中も下田逸郎の歌がプロモーションビデオのように流れ、さらに<終>のエンドマークが出た後の白いスクリーンにも下田逸郎の歌が延々と流れる。まるで、戦争で死んでいった豊川海軍工廠空襲犠牲者たちを慰霊する鎮魂歌のように。こんな映画が作れるのは松本俊夫以外に知らない。魂は生き続け、この世とあの世を繋ぐ、ニルヴァーナへのトリップ、傑作。(☆☆☆☆☆)