茶道の正体 利休の創作への道 | wabicyaのブログ

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極侘数寄を目指しています。

侘数寄は心強く大胆にあらねば、道具万ず不如意なる程に、世に有る人と交われば、心劣りせられて肩身つまりて、自ずから茶湯にうとむもの也といいて、ただ胸の覚悟第一ならん(長闇堂記)

p 179

「長い間、紹鴎流に甘んじていた利休がどうして一念発起の挙に出たのでしょう」


「天正10年以降であり秀吉が天下人として君臨する時期と全く一致しています。」


「秀吉の支持を得て利休は全国区の茶人へと飛躍」


長闇堂記には「利休は秀吉公の御師にして、しかもその才知は世に優れた人であったから天下おしなべ、その才知を学ばない事はなかった。(中略)今焼き茶碗を考案し茶入に棗を代用(中略)墨蹟は古溪に依頼し、漢文を一行に仕立てた一行物を流行らせた」


私見補足)「一行ものを流行らせた」と言うのは疑問ですね。何故なら利休本人は使った形跡が無いです。

長闇堂の勇足とも。。


p187

利休の創作茶道具の動機付け

「茶を好む秀吉の足下にあって、利休は自分の念願を聞き入れてもらえる場が生まれ、利休の創意が天下に流布される基盤を得た」


私見補足)結局のところ、現代でも良く有る様に、官僚が権力者たる大臣に近づき自らの考えを実行に移すのと似てますね。

神津朝夫氏も書いてますが、利休は三好長慶、織田信長、秀吉自らの考えの実現のため権力者に近づいて行ったのは間違い無いと思います。