利休の茶会を主体に、主な出来事(利休百会記は除く) | wabicyaのブログ

wabicyaのブログ

極侘数寄を目指しています。

侘数寄は心強く大胆にあらねば、道具万ず不如意なる程に、世に有る人と交われば、心劣りせられて肩身つまりて、自ずから茶湯にうとむもの也といいて、ただ胸の覚悟第一ならん(長闇堂記)

■総括

⚫︎利休23〜38歳まで 茶会6回中5回までが珠光茶碗を使用 

 45歳以降 高麗茶碗、けんさん茶碗、

 

 

 

灰被天目など。

楽茶碗を使用する様になったのは65歳以降晩年

 ⚫︎利休 茶入を使い出したのは57歳の時

⚫︎利休 41〜58歳まで 茶会37回中22回手桶水指を使用

⚫︎利休 花入に水ばかりの茶会が4回

⚫︎利休 床に軸を掛けない茶会が多い(「掛け物ほど第一」と言うのは、禅へ我田引水したい南方宗啓(南方録著者)の捏造かも知れない。(大徳寺僧の一行書がもてはやされるようになったのは江戸時代以降

⚫︎風炉で釣り釜にした会

天文13/2/27(風炉釣り釜(松屋会記)、永禄5/5/27風炉五徳釣り釜(天王寺屋会記)、天正5/閏7/7風炉五徳大釣り釜(天王寺屋会記)

 

 

 

■以下各茶会一覧

◇天文6年9/13(1537)

風炉16歳、松屋会記より、床飾り細口花入、茶碗天目、大釜、備考「京都与四郎殿」但し改竄の疑念有る。

 

 

 

◇天文13/2/27(1544)

風炉23歳、松屋会記より、床に釣り花入、後座に善好香炉・方盆、珠光青磁茶碗、釣釜、釣り瓶水指、香炉拝見記事あり

客:奈良称名寺恵遵坊えじゅんぼう、松屋久松(補足:後入りのあと、床に飾ってあった袋入りの香炉と盆を降ろして水屋で火を入れ香を焚いて客に香を聞いて貰っている。これは濃茶を点てるまでの時間調整の意味合いも含んでいたらしい)

 

天文24年2/2 参考まで、利休関係なし

今井宗久茶湯書抜 北向道陳の茶と紹鴎死去の記事 炉に五徳筋釜 趙孟頫の帰去来辞の軸(縦一尺三寸、横三尺四寸) 。同10/29 紹鴎死去 すぐに紹鴎宅へ出向く。

(趙孟頫の帰去来辞は、宗湛日記でも天文15年朝会 ヌリ屋了勺の茶会で使われている)

 

追加)永禄12年11月1日武野宗瓦所持 同茶会にても披露有り(天王寺屋会記拝見記)

 

 

 

◇弘治元年1/6(1555) 武野紹鷗没

炉、34歳、床飾り香炉 四方盆、珠光茶碗、釣り釜 天王寺屋会記(宗達)

 

◇同元年4/1 

朝会 風炉 今井宗久茶湯日記抜書 初座に牧渓自画讃 金輪寺茶器 高麗茶碗 信楽水指 雲龍釜 布袋香合 客に武野紹鴎と有る唯一の茶会(但し「今井宗久茶湯日記抜き書きには、信ぴょう性に疑問有る)

 ⭕️天文24年 正月6日 朝 34歳 利休茶会 達 好 弥三 炉 釣り 床に四方盆香炉 珠光茶碗 

 ⭕️天文24年 34歳 利休の他会 12/22 朝会 天王寺屋の茶会 天王寺屋会記 炉平釜 船子絵 肩衝 台天目

 

◇弘治2 1556 12/19 

炉 35才 珠光茶碗 天王寺屋会記(宗達)

 

◇同3 1557 12/1 

朝 炉 36才 床飾り香炉 方盆 珠光茶碗 釣り釜 天王寺屋会記(宗達) 後さかづき

 

◇永禄2 1559 4/23 

朝 風炉 38才 床飾り善好香炉(香はタカス) 方盆 勝手より珠光茶碗 五徳土瓶(釜として) 左構四畳半(今日で言う逆勝手) 南向き茶室 カツオと鯛大皿 飯 菜汁 引きて カサウ エイ・ハイ 松屋会記

 

◇永禄3 1560 12/6 

朝 炉 39歳 客宗陳、宗達、宗久 圜悟克勤墨蹟 茶入 物相 細口無紋花入(水仙)長盆 ケンサン茶碗天目台 信楽水指 囲炉裏 釣り釜 合子建水 引切竹蓋置 今井宗久茶湯日記抜き書き

 

◇永禄5年 1562 5/27 

41歳 圜悟克勤墨蹟 長盆に細口花入(水ばかり) 天目茶碗 台なし 三色仕込み手桶水指 小板 五徳 釣り釜 天王寺屋会記(宗達)

( 注)三色仕込とは、茶杓茶筅茶巾。この当時は茶筅は茶巾の上に軸を落として穂先を上にしていた時代である(堀内宗完茶道雑誌平成2年2月号) 客 達 好 閑

 

 ⭕️永禄5年9/17 天王寺屋の茶会に呼ばれる 連客 草部屋道設 天王寺屋会記

 

◇永禄6年 (1563) 12/1 

42歳 朝会 炉 圜悟克勤墨蹟 後座 茶壷 只天目 手桶水指 鎖 釣釜 天王寺屋会記(宗達)

 

⭕️利休参席  永禄8年 1565 1/29 松屋会記 多聞山松永久秀茶会 客は松江隆仙、利休、久政、若狭屋宗可(茶頭) 北向茶室 逆勝手 つくも茄子茶入 象牙茶杓 曲げ建水内側黒漆塗り 勝手から台天目 薄茶は薬ろうに入れ 

 ⭕️永禄8年 1565 5/7 宗ニの初めての茶会(宗ニ21歳) 今井宗久茶湯日記抜書

客 利休 草部屋道設 宗瓦 宗久

長板に筋釜 床の間霊生女絵(霊照女) 釣瓶水指 茶桶 高麗茶碗

◇永禄8年 1565 6/4 

昼 風炉 44歳 特に記事無し 客9名 天王寺屋会記(宗達)

 

◇永禄9年 1566 9/10 

晩不時 風炉 小板平釜 45歳 高麗茶碗 手桶水指持ち出し 姥口平釜 備前棒の先建水 天王寺屋会記 銭屋宗仲 宗及のちに更に二人

 

◇同年10/18 

朝 炉 鶴ノ一声花入水仙塗り板 楢柴肩衝 高麗茶碗 信楽水指 五徳 責紐釜 竹茶杓 今井宗久茶湯日記抜書

 

◇同 11/23 宵 炉 高麗茶碗 手桶水指 平釜 「いつものごとく」 天王寺屋会記 宗ニ 等兌 宗及 新五

 

 ⭕️永禄9 11/24 朝 武野宗瓦とともに宗及(天王寺屋会記)に呼ばれている。

炉に釣り物 手桶 床四つ耳花入盆なし椿イケ 手水間に菓子絵 高麗茶碗 棗茶入 薄茶 茶桶

 

◇同 11/28 朝 炉 圜悟克勤墨蹟 香炉方盆 棗 灰被天目(黒台に) 洞庫より 手桶水指 洞庫より 自在 姥口釜 圜悟克勤の墨蹟(56行も有り)表具に一文字無し。香炉拝見記事 天王寺屋会記 宗及、新五

捕追)利休は、通常言うところの「茶入」を使っていない(所持していなかったか)

 

◇同 12/10 晩 炉 手桶水指 平釜 天王寺屋会記

 

◇同 12/18 晩 炉 道具記事無し 客は「市町衆」 

(利休の父親田中与兵衛の忌日の布施として行われたと西堀一三氏指摘)

天王寺屋会記

 

◇同 12/27 昼 炉 「茶湯常住のごとく」 天王寺屋会記

 

⭕️永禄10年5/5 朝 他会 宗及に呼ばれる 連客松原紹通、武野宗瓦、今市宗九

⭕️同 5/21 夜 他会 宗及に呼ばれる 連客 銭屋宗仲、山上宗二、武野宗瓦

同6/19、永禄11年1/4、同4/19、11/16、12/11(宗易独客)、永禄12年5/4(宗易独客)以下略しますが度々呼ばれている。

 

◇永禄10年 1567 10/28 不時 炉 46歳 茶湯いつもの如く 天王寺屋会記

◇同 12/3 46歳 茶の後に墨蹟掛ける ケンサン 白台 手桶水指 鎖 平釜 備前建水 天王寺屋会記

 

◇同年 12/24 46歳 備前花入 「茶湯いつもの如く」 天王寺屋会記

 

◇永禄10年 1567 12/26 朝会 松屋会記 古ドウの花入(鶴の嘴)に水ばかり 炉 平釜 細鎖釣り 薬籠茶器 手桶水指 ケンサン台、薄茶は高麗茶碗 備前棒の先建水 料理タイナマコ 菓子 カヤ カキ タコ(花入の鶴の一声の事は、松屋会記に図と説明書き有り。天王寺屋会記永禄12/11/23にも有り)

 

◇永禄11年 1568 1/3昼 炉 47歳 茶湯常の如く 天王寺屋会記

 

◇永禄11年11/12 1568

利休昼会「口切」 (新暦では11月30日になる。)

天王寺屋会記 炉に平釜 自在釣りて ケンサン天目 天目台 手桶 建水棒の先

⭕️口切り茶会 利休逼塞 墨蹟を引き裂くと付記あり(祖父7回忌充分な回向が出来ず涙が流れると記載あり)

「ひっそく」について、西堀一三氏も津田宗及茶会記を読んで、利休が必ずしも豊かで無い生活をしていたと指摘しており、それまで茶会で使用していた珠光茶碗も手放した。と茶道全集に書いている。

別の時、墨蹟を買って茶会で使ったが道陳と松江隆仙両名に偽物と言われた。

 

◇永禄12年 1569 3/5 朝 風炉 48歳 開山墨蹟 高麗茶碗 手桶水指 小板姥口平釜 天王寺屋会記

 

◇同年 11/23 朝 炉 鶴の嘴花入 水ばかり 薄板 棗袋入り ケンサン天目 台 手桶水指 姥口平釜 土壇に据える(釜を土だんに据えてる) 花入拝見 炉一尺四寸 天王寺屋会記

 

◇元亀元年 1570 1/1 晩 炉 49歳 高麗茶碗 手桶水指 姥口釜 天王寺屋会記

 

◇元亀元年 2/3 朝 風炉 大燈国師墨蹟 後に細口花入 薄板 けんさん茶碗 黒台に 手桶水指 平釜 備前建水 天王寺屋会記

 

◇同年 11/18 朝 炉 大燈国師墨蹟 けんさん天目 白台 手桶水指 平釜 天王寺屋会記

 

◇元亀2 1571 1/1 晩 炉 50歳 経筒(花入) 霰釜  天王寺屋会記

 ◇元亀2 1571 12/1  炉 細口水指 水ばかり 長盆 只天目 手桶水指 鎖 霰釜 天王寺屋会記

 

◇元亀3 1572 閏1/14 昼 炉 51歳 平釜 常のごとく 天王寺屋会記

 

◇同年 12/27 朝 炉 只天目 手桶水指 自在 姥口釜 天王寺屋会記

 

◇天正元年 1573 12/28 朝 炉 52歳 ケンサン 台なし 手桶水指 姥口平釜 備前建水

 

 

 

◇天正元年1573 11/24 今井宗久茶湯日記抜書 信長妙覚寺にて 利休茶頭 客は友閑、宗久、宗ニ 炉 鶴首釜 鎖で釣り 牧谿 帰帆の絵 蕪無し花入 台子 天正台 つくもなす茶入 ふくべ炭斗 料理は折敷 雉を焼く カキと松露の汁 ハモ かまぼこ 鯛の刺身 うづら焼き 菓子ムキクリ キンカン きんとん いりカヤ 焼き餅

 

◇天正4年 1576 1/10 炉 55歳 茶湯常のごとく 天王寺屋会記

歴史 安土城完成

 

◇同年 7/29 昼 風炉 伊勢天目 台 共蓋水指 霰釜 棚 天王寺屋会記

 

◇同年 12/5 朝 炉 茶壷 伊勢天目 黒台 薄茶は高麗茶碗 手桶水指始めより 霰釜 備前建水 天王寺屋会記

 

◇天正5年 1577 閏7/7 朝 風炉 56歳 棗 こからす天目 高麗茶碗 飯胴水指 五徳 大釣釜 よしだな 曲げ建水 茶屋の開き 天王寺屋会記

 

◇同年 10/30 朝 炉 無紋桃尻花入(梅) 長盆 後座茶壷 (今井日記では橋立茶壷とある)  尻膨茶入(今井日記) 伊勢天目 黒台 薄茶は 高麗茶碗 釣瓶水指(柄杓置く) 五徳 大釜 天王寺屋会記・今井宗及茶湯日記抜書

 

 

⚫︎利休が主催では無い茶会(利休参席) 天正2年1574 3/24 4/3 天王寺屋会記 信長 蘭奢待で堺衆をもてなす 相国寺にて 菓子五種の絵 松本茄子茶入 茶は棗 松井ゆうかん茶堂 高麗茶碗 書院にて 今井宗久、利休、津田宗及三人千鳥の香炉拝見

4/3 相国寺にて信長急に開催 床には玉蘭の万里江山の絵 初花茶入 安井茶碗 風炉 五徳 平釜 風炉は頬当風炉

 

 

◇天正2 1574 12/9 朝 炉 53歳手桶水指 鎖 姥口釜 その他何も常のごとく 天王寺屋会記

 

⭕️歴史 天正3年5月21日 長篠設楽ケ原の戦い

 

⭕️前妻 宝心妙樹死去

 

◇天正6 1578 6/27 朝 風炉 こからす天目 高麗茶碗 手桶水指 霰釜 備前建水 古い座敷を使う 天王寺屋会記

 

◇天正7年 1579 1/26 朝 炉 58歳 床飾り細口花入(柳) 長盆 尻膨茶人袋入盆なし 灰被天目、尼崎台 手桶水指始めより 自在 上張釜 備前建水 天王寺屋会記

 

◇同年 4/22 朝 風炉 丸壺茶人 灰被天目黒台 土物水指 台子 五徳 上張釜 備前建水 秀吉より贈られた丸壺茶入披露の会 天王寺屋会記

 

◇同年 9/1 昼 炉 こゆみ茶碗 土水指 五徳 霰釜 瓶の蓋建水 天王寺屋会記

 

◇同年 11/20 朝 炉 後座に橋立茶壷 只天目黒台 薄茶は高麗茶碗 手桶水指 自在 上張釜 天王寺屋会記

 

◇天正8年 1580 12/9 朝 炉 59歳 床飾り:東陽徳輝墨蹟 茶壷 後座 鶴の嘴花入(白梅) 棗 切り目茶桶水指 ハタノソリタル茶碗 自在 肩の垂れた釜 古銅合子建水 茶壷は橋立ではなく了真から買った 客:宗久、山上宗二。天王寺屋会記

 

 

 

⚫︎天正10年3月11日武田勝頼(天王寺屋会記)

⚫︎天正10年5月19日 家康、安土惣見寺にて信長の接待を受ける(天王寺屋会記)

梅若大夫(39世広長らしい)が信長に折檻されたとの記載も有り

⚫︎天正10年5月29日家康堺へ(天王寺屋会記)

⚫︎利休以外 天正10年1582 天王寺屋会記 茶会記とは言っても茶湯の事は全く無い 本能寺の変が書かれています。 

光秀謀反、秀吉の中国大返し、前後して家康の動向など

 

 

利休が待庵造る

本能寺の変  

⭕️歴史 天正10年6月2日本能寺の変

 

◇天正10年 1582 12/28 61歳 肩衝 方盆 客には宗及、宗ニ。後座古溪墨蹟(生存中の禅僧の墨蹟を使った例) 小柴肩衝 高麗茶碗 土物水指 五徳 霰釜 新備前建水 秀吉のいた山崎での茶会?炉一尺四寸 天王寺屋会記

 

⚫︎天正11年閏正月5日 山崎にて

筑前殿(秀吉)会 客 納屋宗久 宗易 宗甫 山上宗二 天王寺屋宗及 万代屋宗安

床松花 大海うちくもり 四方盆に 井戸茶碗

 

⭕️天正11年4月 賤ヶ岳の戦い

 

 

 

⚫︎利休以外(利休参席) 天正11年1583 9/16 天王寺屋会記 秀吉の道具揃えの会

客 法院、利休、荒木道薫、万代屋宗安 床に文林茶入、初花四方盆、玉蘭煙寺晩鐘

 牧谿 帰帆絵その他名物多数

茶会の後秀吉のめしあげにあう道具あり

⭕️歴史秀吉 大阪城築城

⭕️歴史 天正12年3月から11月小牧・長久手の戦い

⭕️天正12年4月10日 尾州合戦(長久手の戦:森武蔵、池田ら討死 天王寺屋会記)

 

 

◇天正12年 1584 12/29 朝 炉 63歳 床飾り:肩衝 方盆 肩衝茶入 瀬戸天目台なし 信楽水指 五徳 大霰釜 備前建水

 

⭕️利休の関係する会ではありませんが。。

 

⭕️天正13年1月4日昼会 大阪座敷にて 織田有楽と石川数正が茶会に呼ばれてます。

 

⭕️天正13年正月19日 昼 秀吉会

客 石川数正、宗易、宗及

責紐釜 風炉 虚堂墨蹟 槌花入 尼子天目 台なし

 

また、

⭕️天正13年1月25日有馬温泉にて 秀吉、石川数正、蜂屋頼隆が宗及の茶会に呼ばれてます。

 (数正は同11月13日出奔)

 

 

◇天正13年 1/30 1585 炉 64歳 高麗筒花入梅 おしかきの釜 有馬温泉にて 今井宗久茶湯日記

 

⭕️歴史 秀吉が近衛家の猶子・近衛秀吉として天正13年(1585)7月に「関白」へ就任

⭕️天正14年4月 他会 大阪城内で秀吉が大友宗麟を招く

黄金の茶室

秀吉は、肌着の紅平絹、唐綾白小袖、肩衣と袴は濃紺を地の桐紋(金蘭)と。大友宗麟は、これでも茶の湯装束か?とショックを受けた(茶の湯の正体:矢部良明より)

 

 

◇天正14年 12/16 1586 朝飯後 炉 65歳 了庵清欲墨蹟 前に千鳥香炉 布袋香合 長盆 円座肩衝 黒茶碗 瀬戸水指 雲龍釜釣 合子建水 引き切り竹蓋置 秀吉御成 蘭奢待を炊く 濃茶の後書院に移って料理薄茶 (但し客として記載のある笑嶺和尚はすでに死亡している)誤記か? 今井宗久茶湯日記

 

◇天正14年 12/26朝 炉 古溪大文字「春風一陣」 後座 籠花入 金輪寺茶器 方盆 木守茶碗 しがらき水指 霰釜釣り モンサス建水 引き切竹蓋置 立春茶会とするが立春は30日

 

⭕️歴史 天正14年 秀吉が朝日姫を家康に嫁に送りつける(人質)。秀吉は、自分の母親を更に家康の元へ送り込む。

⭕️家康が秀吉の家来になる。

 

⭕️歴史 天正14年 禁中茶会黄金の茶室にて

 

⚫︎利休以外の会 天正14年 山上宗二が豊臣秀長に茶を献ずる

 

⚫︎利休以外の会 天正15年正月3日 大阪城の大茶の湯 秀吉宗湛をもてなし 有名な「筑紫の坊主はどれぞと」 (非常に詳しい記述が有るもので特筆すべきだが、今回は利休の茶会に重点を置いてるので項目としてのみ掲載) 宗湛日記

 

⚫︎利休以外 天正15年10/1 1587 北野大茶の湯 土門筆記 別途記述予定にて省略

 

◇天正15年 1587 1/5 正月子の日ただし、今井宗及茶湯日記抜書の信憑性に疑問が出る根拠となっている記事なので要注意。この日は正確には乙未の日であり子の日では無い(別の本で熊倉氏も指摘)。

軸も古溪の「春風一陣」とあったり、二の膳まで出るなど利休らしくない。

⭕️歴史 聚楽第完成  北の大茶の湯開催

 

 

 

 

 

 

 

 ◇天正15年1/12 朝会 大坂にて 宗湛宗傅 二人 宗湛日記 利休の数寄雑談

深三畳台目 炉五徳 姥口霰釜 高麗花入に白梅(現在表千家蔵) 床に橋立茶壷 尻膨茶入 引切

雑談の事

1、仕覆に入れるのは茶入ばかり

棗類は入れぬものだが頭切などは入れても構わない

2、茶杓は昔は道具によって合わせて作ったが今は折だめの竹茶杓。茶入の口に入りさえすれば良いのだ。

3、投げ頭巾の肩衝茶入の珠光の話を、、。

4、圜悟克勤の墨跡は珠光が一休からただで貰った。最近千貫文で私(宗易)が買い取った。

5、小茄子の茶入の話し、、、

6、老茄子、、、

7、他に、古木、内赤の盆、茶壷の網、瓢茶入、紹鴎天目、橋立茶壷の事。

話しあり

 

私見補足)当時人気上昇中の高麗物を使いながら、利休愛蔵の橋立茶壷(表千家蔵)尻膨茶入(永青文庫蔵)、南蛮水指を使っている。相手の趣味趣向を捉えた寄り添う茶事をしていた(矢部良明、茶道の正体)

 

⭕️ (文書そのものの信憑性に疑問ありとされてますが)利休百会記天正15年8/17から天正19年正月二十四日まで。別に項目を立てて「利休百会記」に掲載しました。

 

 

◇天正15年6月13日 朝 風炉 床の間秀吉自詠短冊 物相茶入 天目茶碗尼崎台 釣瓶水指 長板 銅風炉 雲龍釜 柄杓立 竹茶杓 引切竹蓋置  京都の利休醒井屋敷に秀吉御成 薄茶は書院にて。 但し信憑性に疑問ありー>この頃秀吉、利休は共に博多滞在中。 今井宗及茶湯日記より。南方録にもあり(同日記を写したか?)

 

天正15年6月14日 朝 風炉 利休66歳 柱に高麗筒花入(薄茶、盆母花) 備前肩衝 「布袋」 やき茶碗(三色仕込) 釣り瓶水指 姥口新釜 カナ風炉 竹茶杓 曲げ建水 引切竹蓋置 博多筥崎燈篭堂にて。仮設の深三畳茶室(利休寄進石燈現存あり)  神谷宗湛日記

⭕️歴史 刀狩り

⭕️天正17年1589 金毛閣に利休像設置

 

 

🔸天正18年(1590)8月9日 朝 風炉 69歳 尻膨茶入 井戸茶碗 瀬戸水指 雲龍釜 小板 竹茶杓 瀬戸建水 引切竹蓋置 聚楽屋敷二畳茶室 松屋会記

⭕️北条征伐 小田原合戦とも

 

🔸天正18年9月10日 昼 風炉 床の間 上段に天神名号 その前の卓上に青磁香炉 下に古銅花入尾車草 台子先の壁に春甫横物七字 棗(袋入) 黒茶碗 茶の後で瀬戸茶碗を台子に飾る カネ水指 台子 カナ風炉 霰釜 カネ柄杓立て 引切竹蓋置 聚楽屋敷書院 上様御成  宗湛日記


🔸天正18年9月20日 昼

聚楽にて 宗湛一人

二畳敷 囲炉裏 雲龍釜 かんつき松かさ 中次 黒茶碗 道具入れて 土水指 セト水下 引切

手水の間に

床に橋立の大壺 こんの網に入れ 緒唐結び 濃茶過ぎて 大壺を網退けて 床の前に投げ転がして見せる

洞庫には

中次袋に入 椀と真ん中に置き合いて、下には水指 脇に水下 柄杓は先に仰向け、後には壁にかかる 宗湛日記


 

🔸天正18年10/20 昼 炉 後座に橋立茶壷 中次袋入 黒茶碗三色仕込 唐物土水指  雲龍釜共蓋 瀬戸水指 引切竹蓋置 聚楽屋敷二畳茶室(利休百会記では9月20日) 


利休は黒茶碗で茶を点てた後、橋立の大壺を宗湛に見せるのに、「大壺を網をのけて床の前に投げ転ばしてみせ」

(秀吉への当てつけか?)と思われる(私見)


宗湛日記

 

○歴史1591年 朝鮮出兵

 

利休百会記より

家康との茶会のみ此処に参考までに記載しておきます

天正19年 1/24 1591124日 閏正月二十四日朝   家康様一人

四畳半 拝領釜 安国寺水指 茶入大ナツメ 木守ノ茶碗 びぜんつぼ 古渓和尚墨蹟 つちの物に花入

くしあはび みそやき汁 あへもの めし 引て こいのかきあへ 菓子 ふのやき

 

🔸天正19年 利休切腹

 

 

 

 

 

 

 

神谷宗湛日記では、家康の茶会も記載有り

文禄2年正月21日

同年8月6日

 

 

利休の本能寺や家康、秀長との関わりなどをうまくまとめているサイトを見つけましたので参考まで。