朝、母が泌尿器科に行きたいというので、付き添いでクリニックまで送っていった。
待合室で診察を待っている間、三浦綾子の『道ありき』を久しぶりに読み進めることができてよかった。
帰りの車の中で、母が昔の話を始めた。
(最近、よく昔の話をするのだが、覚えておいた方がいいと思いつつ、知らない親戚が出てきたりしてよくわからないので、結局忘れてしまう)
今日は、昭和13年の神戸の大水害の話だった。
(以下、母の話した通りに書くので不正確かもしれない)
当時、母は小学校一年生で、モモタロウを習っていた。そこへ母の母が雨を心配して迎えに来た。梅雨の季節で7月くらいだったか、1ヶ月も降ったり止んだりで、ずっと雨が降り続いていたらしい。
母は家に帰ると安全なところから、遠く眼下に見える国道を眺めていた。国道はすでに川のようになっていて、しばらくするとセルロイドのガラガラのようなおもちゃが流れてきた。次は何かなと思って喜んで見ているといるとタンスや物置が流れてきた、というふうに大変な水害だったらしい。親戚の家では女中さんが2人流され、家の人も2人亡くなったということだった。
そんな話をしてる時に父の話も出た。
父は55歳で定年で、というので、
"えっ、55歳?そんなに若かったの?"
と内心驚いた。
父は外国航路の船長として長く働き、5千トンの貨物船や、仕事を辞めるまでの10年間ほどは、10万トンのタンカーを操縦して、ペルシャ湾の方にも行っていたらしい。
55歳と言えば今の私よりも2歳ほど若い年齢だ。
父と同じ年齢になってみて初めて、
父がどんなに大変で難しい仕事をしていたかということが実感されて、
自分がやってる仕事が本当にちっぽけなものに感じられてしまう。
55歳で定年というのは会社の規定でもあったらしいのだが、ちょうど不景気とも重なり、会社に残れるのではという期待は叶わなかったようだ。1時間ほども会社の人と電話で話していたが、結局、定年ということになり、次の日の明け方に脳梗塞で倒れてしまった。
朝、父の表情がおかしいのに気づいた母が救急車を呼び、そのまま入院、その後リハビリ病院に転院。
幸い仕事ができるほどに回復して、定年後に嘱託として、一度だけ貨物船に乗っている。それが最後の仕事になった。
タンカーを操縦するには非常な神経を使うらしい。
父は一度も事故を起こしたことはなかったが、とにかく私の想像の及ばないほど大変な仕事であったのは間違いない。
無理をしてでも仕事を続けてくれたのは、好きな仕事ということもあるかもしれないが、私が10代の頃、ピアノを習っていたということも理由のひとつかもしれない。
ピアノを習うのにはお金がかかる。いい先生に師事して習わせてもらっていたのにたいして練習もしてなくて、今頃になって申し訳なく思う。
父は65歳で亡くなった。
命日は10月8日。
なぜ、こんなことを書くかというと、実は私はその辺の事情をまったく覚えてないのだ。
今も自己中が服を着ているような人間だが、若い頃はさらにひどかった。
多分、しばらくしたら忘れてしまうと思うので、
書き留めておく。