人気アニメシリーズの「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版「叛逆の物語」の続編「ワルプルギスの廻天」を観てきた。タイトル的に子供向けのようであるが、内容は大人向け。劇場版は一見さんでは理解不可能。前作から時間が経っているので、予習してから臨むべきと思う。
アニメシリーズはまだ子供でもついていけたと思うが、劇場版は哲学的とすらいえ難解であり、正直、ストーリーを追うのが限界で、「どういうこと?」と考えながら観る必要がある。それが魅力的なのであるが。そして、劇団イヌカレーのコラージュなどを多用したゴシックテイストの可愛いがどこか不気味でグロテスクな映像が、もはやアート作品で素晴らしい。これだけアニメ作品が大量にあるのに、ストーリーにしても、映像にしても、まだ表現様式を開拓するとは、創造性に脱帽である。
さて、難解なストーリーであるが、前作までのストーリーと本作へのつながりの説明を説明すると次のとおりである。
自己犠牲によってまどかは多くの魔法少女を救ったが、それは一方でほむらにとって悲劇でもあった。ほむらは、自分が悪魔になってでも、まどかを取り戻してしまうが、それはほむらの自己満足に過ぎないのではないか。自己犠牲を選んだまどかの想いを無下にする行為だったのではないか。その問に応答するように、ほむらが悪魔となった新世界を舞台にしたのが本作「ワルプルギスの廻天」であり、このほむらが悪魔となった世界でも問題はあり、こうした中で、新たにまどかはどのような結論を出すのか?が話の見どころである。
本作では新キャラも登場するので、その位置付けがどういうものなのかの理解をしつつ、まどかとほむらの関係も考えつつ、ストーリーを追うので、まぁ、難易度が高い。正直、アニメ版で完成していたので、その後を描かなくても良かったのではないかと思うが、劇場版のおかげで、日本のアニメの水準は格段に上昇したなと思う。ストーリーだけではなく、映像表現のレベルとしても。それだけ観客に求められる水準も上がっているので、ついていくのが大変だ。100年後にはロシア文学やドイツ文学などと並んで、日本アニメ学が真剣に研究対象とされているのではないかとすら思う。
アニメの劇場版ポスターも、キャラクターデザインこそアニメであるが、上部が天や神を示し、下部が地獄・悪魔を示す古典宗教絵画の配置である。手を伸ばしているが、届かぬ手は、ミケランジェロの《アダムの創造》などにみられる。花が描かれているが、これは愛らしさの一方で、花は枯れるものという儚さを象徴しているようである。どこまでもアート作品のようだなと思う。

(ストーリー概略)
【アニメ版】
少女たちが願いと引き換えに魔女と闘う「魔法少女」となるが、実はその末路は、魔法少女自身が「魔女」になるというシステム。
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主人公のまどかがすべての魔女を生まれる前に消し去りたいという願いを叶え、「円環の理」となって世界システムを改変し、魔女が存在せず、魔 法少女が最後に救われる世界へ再構築。まどかは自己犠牲となり、全魔法少女を救済し、自身は人間としてはいなくなる。
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【劇場版:叛逆の物語】
まどかがいない世界で絶望したほむらは、インキュベーターの実験によって自身が魔女化する偽りの世界を創出
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「円環の理」としてまどかが迎えに来るものの、ほむらはその”人間としてのまどか”を、「円環の理」から離脱させて、再度、世界を改変してしまう。ほむらは自ら「悪魔」となり、まどかが普通の人間として暮らす歪んだ世界を作り上げてしまう。
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【劇場版:ワルプルギスの廻天】
まどかが普通の人間として暮らす世界で、ほむらは悪魔として君臨していたが、その日常を終わらせる存在が突如現れる。その日常を終わらせる存在とは・・・?
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さて、ほむらとまどかの結末は?
この結末については見解が分かれそうだが、鑑賞してぜひ自分なりに感想をもって楽しんでほしいと思う。
私が思うに、運命は変えられるが、宿命は変えられないということなのだと思う。
