新書としては珍しく20万部以上売れており、また「書店員が選ぶノンフィクション大賞2024」にも輝いた「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読了。スマホゲームはできるし、Youtubeも観れるのに、なぜ読書はできないのか?という問に対して、労働と読書の関係性を明治時代から遡って分析している。実はこの本のきっかけとなったのは、読書好きだった著者(大学院で万葉集を研究するほどの本好き)が、社会人になってから本を読まなくなった経験から執筆したそうだ。なお、読書というのは例示であり、ある人にとっては映画鑑賞かもしれないし、スポーツかもしれない。社会人になると本を読まなくなる(趣味が楽しめなくなる)ということは、多くの人は経験があるだろう。かくいう私もやはり忙しい時期になると読書量が減る。私は映画も好きだが、明らかに映画鑑賞の本数も減る。このブログの執筆する心理的な余裕もなくなる。これは個人の問題に帰結されがちだが、本書によると、これは社会情勢の変動などにより労働や読書のあり方が変わったからだという。
明治時代は大卒というのはエリートであり、読書というのはエリート層の教養であった。読書というのは社会的なステータスでもあり、一方で、庶民は読書を通じて社会階層を上げられる(または同じ社会階層の人より少し上の階層と見せられる)という事情もあった。しかし、徐々に読書が大衆化するにつれて、エリートの教養から庶民への娯楽へと変わっていった。高度成長期になると郊外化が進み長時間通勤が当たり前になる。そうなったとき、電車の中で暇つぶしで、ビジネス小説などが消費されるようになる。
そして時代は流れて現在は「情報化社会」である。情報化社会では、情報量も多いし、変化も大きい。現在求められるのは情報を次々に素早く摂取して、理解して、アウトプットへと反映するスピード感である。そこで求められるのは不必要な情報の排除であり、重宝されるのは必要な情報だけがまとまった媒体(まとめサイトなど)だ。本は必要な情報以外の歴史的背景などの”ノイズ”が多い。それゆえに現代人は読書を徐々に避けるようになったというのである。
しかし、読書を避ける行為というのは、社会的な要請によって生じたものであり、読書というノイズだらけの媒体を楽しめないほどに、我々は「全身」(仕事に没頭すること)を強いられている。「半身」(半分は仕事、半分プライベート)の働き方ができる社会こそが健全ではないかとまとめている。
労働と読書の関係性を踏まえた議論は面白かった。ただ正直、結論の労働を変えるくだりについては実現可能性は低い。「半身」で働いてプライベートを楽しめればいいが、インフレも進んでいるし、増税が続く世にあって、「半身」の労働はリスクが高い。そうした社会を変えようというのはわかるが、即効的な処方箋はないし、あるのかもわからない。ただそうした視点を持つことは重要だなと思った。読書を楽しめない(趣味を楽しめない)社会というのは病んでいると思う。
