音楽と脳の関係について説明した大黒氏(東大特任教授)の本を読了。音楽と言えば主に人文科学の世界と思われがちだが、非常に工学的なトピックも多く、本書では音楽と脳の関係性について、脳科学の観点から追及を行っている。

 

(目次)

第1章 音楽と数学の不思議な関係(音楽と科学の歴史;音の高さと数学;音の並び方と数学)
第2章 宇宙の音楽、脳の音楽(宇宙の音楽;脳の音楽)
第3章 創造的な音楽はいかにして作られるか(脳の記憶と作曲;脳の統計学習から作曲へ;脳に障害がありながらも卓越した曲を生む作曲家)
第4章 演奏家たちの超絶技巧の秘密(脳と演奏;演奏と脳の予測;演奏から生まれる個性;主観的な「価値」;知識よりも大切なこと)
第5章 音楽を聴くと頭がよくなる?(音楽と奇才;音楽の脳疾患への効果;音楽は私たちの心の中を「見える化」する)

 

本書で興味深いのは脳には統計学習するスキルが備わっており、それによって言語能力を身に着けるのだという。これはノームチョムスキーの主張する言語生得説に対立するものである。脳は統計学習する機能があり、重要な記憶はシナプスが強化され、不要な情報は忘れられていく。そして、言語を繰り返し聞くことで、言語の一定の法則性を学習するというのは理論的であり、生得的に言語能力があるというチョムスキーより説得力がある。音楽でもスポーツでも、卓越したスキルを身に着けるのに1万時間はかかるといわれるが、おそらく脳が一定領域において高度に完成するのにそれぐらいの時間が平均的にかかるのだろう。

 

そして本書が言うように、確実性が高過ぎる音楽は脳にとってはつまらないので、刺激が少なく、一方で、不確実的な音楽は不確実性があまりにも高いので脳は疲れてしまう。この確実性の中に不確実性が潜むという塩梅が重要だと述べられているが、これは納得感がある。自動演奏ピアノがあれば巨匠の演奏も再現可能であるのに、なぜコンサートに出向くのだろうか?自動演奏ピアノは約150年前に開発されたが、ショパンコンクールの出場は年々増え続けている。それは再現性のある機械の演奏はその確実性ゆえに脳の報酬系が反応しないからだ。人間がその場で演奏する音楽に、人々は一定の不確実性(=ゆらぎ)を感じ、それこそが、音楽的霊感のように感じられる。この瞬間的ゆらぎに脳は反応し、心地よさを感じる。同じ曲を繰り返し聴くと飽きるのと同様に、同じ演奏に脳は飽きてしまい、新たな刺激を求めるのだ。本書ではグレン・グールドの演奏が注目されたことを例に出している。

 

脳というのはまだ謎が多いもので、「障害」とみなされる場合でも様々な素晴らしい音楽を生む場合があり、本書はラヴェル・ガーシュウィン・シューマンの例を挙げている。特に芸術家には鬱傾向な人が多いが、これは人一倍繊細だからだという。この繊細さゆえに普通の人では生み出せない創造的な作品をつくれるという。こういう人を、ハイリ―センシティブパーソン(略称がHSP、非常に感受性が強く敏感な気質もった人との意味)という場合があるが、この繊細さは諸刃の剣で精神疾患に罹患しやすいのだ。

 

それにしても脳の不思議なのは失語症でも、リズムに乗せて歌える人は一定数で存在するという。言語をつかさどる分野と、音楽とつかさどる分野が異なることで生じる現象である。これは認知症・自閉症などでも活用される視点であり、音楽によって症例が改善する(言語的コミュニケーションは苦手でも音楽を解することでコミュニケーションがとれる)場合もあるという。ラヴェルは記憶障害となっても「亡き王女のためのパヴァーヌ」の旋律を覚えていたというが、脳の損傷した部位によって生じた現象である。こうした音楽の特殊性を活かして、音楽を用いた治療も注目されており、認知症や自閉症などで一定の効果があるという。

 

脳科学というとやや胡散臭いという人もいるかもしれないが、最近では医学の実証研究も蓄積しておきており、徐々に脳の不思議が明らかになりつつあり、過去の女性脳・男性脳やら右脳・左脳説は否定されてきている。以前「ピアニストの脳を科学する」という本を読んだが、そちらのほうがとっつきやすい。とはいえ、本書の方がより広範に脳と音楽との関係性を明らかにしている。併読をおすすめしたい。