中国発の「儒教」により、苛斂誅求で残忍な統治が中国や朝鮮で行われたが、その始祖とされる孔子の「論語」を読んでみると、そのような苛烈な統治に関するような記述は一切ないという。孔子は偉大な思想家・哲学者と考えている人もいるが、実際のところ「論語」を読んでみると、孔子の考え方は一貫性がないし、哲学というほどにも体系化されていない。つまり、孔子は儒教の教祖ではないし、「至聖」や「聖人」と祀り上げられるような人ではなかったというのが著者の見立てである。孔子の「論語」が「四書五経」で聖典の一つに挙げられたり、「聖人」と敬うのは、後世の人々の思惑あってのことであるという。
儒教が中国において成立したのは、前漢の武帝の時代と推定されている。董仲舒の献策により諸子百家が排斥され、儒家の教説が国家教学となったのである。しかし、この時代は孔子の死後約300年が経過しており、孔子の生きた周王朝の時代とは社会情勢も当然異なっていた。孔子の思想がこれだけ時間的な隔たりをもって継承され体系化されたとはなかなか考えにくく、漢代の儒学者が権威付けのために昔の孔子の名を持ち出して、孔子とは異なった教学を体系化したと考える方が自然だという。
北宋時代には朱子学が誕生する。これは朱熹によって新しく再構築された儒教であるが、「天理」のために「人欲」は抑圧されても致し方がないという教理であった。これを輸入して仏教を弾圧し、朱子学を唯一の官学としたのが朝鮮半島の高麗である。結局、朝鮮伝統の礼節なども儒式にあらためて、儒教の一派である陽明学すらも弾圧して朱子学一辺倒の統治を行った。その結果、儀礼に固執することで社会の停滞を招くとともに、思想の多様性が失われて思想的な耐性の無さを招いた。不毛な教理に拘泥し近代化が遅れたのは朱子学の悪影響であろう。
日本も実は朱子学が隆したこともあるが、やはり日本の人間味あふれる豊かな社会には適合しなかったようで、朱子学者は次々と離反していった。伊藤仁斎は朱子学を「残忍酷薄」と切り捨て、「愛」を掲げて、非人間的な朱子学を排斥する。彼は孔子の言行録である「論語」を「最上至極宇宙第一の書」としているが、やはり彼は孔子の「論語」と、その後成立した儒教との相異に気が付いていた。伊藤仁斎は、伝統が綿々と受け継がれ、文化が爛熟した豊かな京都において育ったため、原理主義的で抑圧的な朱子学に相当な違和感を覚えたのだろう。孔子の言行は人間味があるが、その後、官学となった儒教は皇帝の権威の正当化や社会統治のための教学に過ぎず、非常に抑圧的で残忍な面もあり、それを見抜いたのだ。日本は思想的にも海外の影響は受けつつも、それを日本の風土に適合させる才があるようである。
著者の主張は簡潔であり、儒教と孔子は無関係であり、統治の正当化でしかない儒教ではなく、孔子の「論語」に立ち返ろうというものである。儒教を問わず、教祖とは全く違う教理になっていくのは東西問わずであり、キリスト教もカトリックの教理は、ペトロなどほとんどその後の解釈によって創作されたものであって、イエス・キリストの教えとは明らかに相いれないだろうと考えられるものも多い。聖地奪還のためにイスラム教徒を大量虐殺し、南米ではいくつもの王朝を滅ぼし、宣教したついでに世界各地に植民地をつくり現地人を奴隷化した。聖書のどこに侵略せよ、虐殺せよ、奴隷化しろと書かれているのか教えてほしい。妻帯禁止・禁酒・中絶禁止・同性愛禁止なども聖書には明確に書かれていない。
それに忘れ去られていた人が、後世に見直されて偉人とされることはよくある話で、音楽の父ことヨハン・セバスティアン・バッハは死後は暫く忘れられていた。メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を100年ぶりに演奏してバッハが再発見されたのである。モーツァルトも神童だったのは事実だが、就活には失敗して若くして亡くなった。当時は明らかに好敵手のサリエリのほうが社会的地位も人気も上だった。いったん忘れられた人が祀り上げれることはよくある話で孔子もその一人ということになろう。
本書を読んで、少し論語への興味がわいた。中国思想には疎いので、良い機会なので中国思想関連の本も読んでみようかと思う。良くも悪くも中国は大国であり、その国の思想を学ぶのは有益であろう。
