池田信夫氏が2018年の良書ベスト10に挙げていたので、ICU副学長の森本あんり氏の「異端の時代」を読んだ。日本政治学の泰斗 丸山眞男は、キリスト教の正統論を天皇制にも応用しようとしたが、彼の構想は結局まとまらなかった。本書の前半で、森本氏は、神学者の立場から丸山の試みを批判的に論証し、後半では、昨今のポピュリズムについて論じている。ポピュリズムは正統なのか異端なのだろうか。

 

正統には、2種類がある。L正統:権力承継の正閏を問うLegitimacy、O正統:教義解釈の正邪を問うorthodoxyである。日本の天皇制は血統の連続性であるL正統はあるが、それを支える教典等はなく、教義解釈上の0正統は存在しない。神道は「言挙げ」を避け、教典も教義ない。0正統が存在しないのだ。0正統には、普遍的原理・理念へのコミットメントが必要であるが、日本人はこれが苦手であり、一方で融通無碍の応用力を持つ。0正統の欠如しているのが日本だという。聖俗の二元論が発達しなかったために、仏教は国家体制に取り込まれ俗化してしまい、日本では政治がリヴァイアサンのように肥大化していく傾向がある。

 

それにしても「正統」を生むのは正典だろうか、それとも教義だろうか。著者は、正統こそが、正典や教義を定めるという。また、巷によくある陰謀論だと、少数の支配者が、異端を抹殺したりするイメージがあるが、異端は弾圧されて消滅したわけではなく、姿を消したから異端になったのだという。キリスト教はユダヤ教の異端で、当時、競合する新興宗教もあったが、キリスト教が残った。異端が、興隆し新たな正統となるのか、衰退し消滅するのかは世界史の審判に委ねられている。多くの人はそれは「歴史の偶然」だというが、キリスト教徒は「神の摂理」だと考える。少数のエリートが世界を支配しているという陰謀論は、名もなき大衆の経験と実践をあまりにも無視しすぎている。「どこでも、いつでも、誰にでも」信じられてきた事柄が、後から正統と追認されるだけなのであり、突然、正統を一部の人たちだけで創りだすことはできない。

 

神無き時代に、ポピュリズムが台頭しているが、ポピュリズムはイデオロギー的な骨格がない。ポピュリズムは、その時々の政治的なトピックに対し、様々なイデオロギーを借用し、変幻自在にその姿を変えるが、その向かう先は定かではない。なぜ昨今ポピュリズムが強いかといえば、かつては宗教的な組織が、社会的な不正義の是正を行っていたが、宗教が弱体化し、人々の意見の集約機能が果たせなくなったからだという。多くの人々の不正義に対する有り余った怒りや正義を求める情熱がポピュリズムのうねりを生み出している著者は、ポピュリズムとは、宗教なき時代に興隆する代替宗教なのだという。しかし、ポピュリズムは正統にはなりえないが、ポピュリズムは異端ですらない。異端は志の高い知的な人々による正統への挑戦であるが、ポピュリズムは単純な善悪二元論を特徴とし、勧善懲悪的な傾向が強く安直な権威者批判やお上叩きへと発展する。ポピュリズムはその稚拙さを大衆の支持で取り繕うが、そこには正統という重責を担うほどの思想的なバックボーンもない。多極化する現代社会は「正統」という集約装置を喪失し、このままカオス化するのだろうか。これも歴史の審判を待たねばならないのだろうか。

 

本書の正統論は興味深いが、神学の正統論を、そのまま社会科学へと適用できるのかは疑問がある。また、ところどころで憲法改正や原発の話が出てくるが、さすがに違和感を感じる。憲法は権力者の意向で進めることはできないと書いているが(著者は護憲派の模様)、結局、国民投票法により国民によって憲法改正は決定されるのだから、どこが権力者の意向で進められていることになるのだろうか。そもそも自民党を選んだのは国民ではないのか。そもそも米国の押し付け憲法が正統という方が無理がある。神学の抽象論から、具体的な議論へと敷衍することは出来ない。

 

あまり本書の本筋とは関係がないが、長年の疑問である、日本人の変わり身の早さの理由がわかった。大戦中は鬼畜米兵と罵っていたのに、戦後はあっという間に親米に変わった。この柔軟性はどこに由来するのかと悩んできたが、本書で理解できた。「言挙げ」を避ける伝統で明確な教義を持たず、一貫した原理原則もない。権力闘争はするものの、権力をもって実現する目的がなく、理念も原理もないので国家や組織の方向性は、集団内の人間関係や「空気」が支配するのだ。

 

同著者の「反知性主義」は読みやすかったが、本書は重量感があるので、あまり万人にはおすすめできないが、丸山政治学・正統論・ポピュリズムに興味があるのであれば、一読すれば興味深いだろう。