中村紘子女史は、日本を代表するピアニストで、ショパコン・チャイコンなどのコンクールの審査員も歴任した大物で、「浜松国際ピアノコンクール」を名のあるコンクールにまで押し上げた偉人である。1年ほど前の2016年の7月26日に亡くなられた。我が国にとって偉大なピアニストの喪失であった。本作は、中村女史の遺作ともいえる「新潮45」と「音楽の友」に連載されたエッセイ集である。

 

中村紘子は戦前に生まれ、我が国のピアノの発展をみてきた。そんな女史だからこそ語れるウィットの効いたエッセイは何とも魅力的である。そんな女史は、朝日新聞の記者に中卒のくせにと言われたとエッセイで書いているが(pp.198:といっても、名門慶應中を経て名門桐朋高中退を経て日本人初の全額奨学金でジュリアード留学、その後ショパンコンで史上最年少入賞しプロの世界に入った)、ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールでの審査委員を歴任したり、皇后陛下とお茶したり、皇太子が自宅にお忍びで食事きたりと、座学では学べない実体験に基づくその知識・経験の豊富さには舌を巻く。

 

日本人はカタカタとタイプライターのように弾くと言われる。これは井口先生をはじめとしてハイフィンガー奏法の教師陣が幅を利かせていたからだという。中村氏はその後ジュリアードに留学し、その手の形を一から矯正されてショックを受けたという。いまだにピアノの発表会にいくと、ガンガン、バリバリ弾くことをよしとする人がいるが、聴き触りが良いものではない。ハイフィンガー奏法でバロックを弾くと音が煌びやかに響くが、ロマン派では音が無味乾燥としてしまう。ここらへんは使い分けが必要だが、日本では前者の亡霊が根強い。

 

中村女史は戦後日本のクラシック音楽の発展をみてきたのでエピソードが面白い。高度成長期にピアノコンサートを開催したところまだ音楽ホールがなかったので、体育館で開催したらしいが、ピアノの足がない状態で本体だけ置かれていたという。足がない!と驚くと、やっぱあれいるの?と言われて取り付けてくれたらしい。それから高度成長期に箱モノと呼ばれる豪華な音楽ホールがいくつも建設された。音楽教育も進み日本人音楽家も台頭した。しかし、いまはその重点は韓国・中国に移動しつつある。これを中村女史はローマのパントサーカスに例える。ローマでは蛮族の決闘という娯楽をコロッセオで鑑賞していた。文化の中心の土地で演じたのは周辺の蛮族なのだ。いまやコンクールでは鑑賞するのは西洋人、コンテスタントは東洋人が多い。クラシック音楽もローマ時代と同じような構図になりつつあるのではないか。その点からいえば日本の国際音楽コンクールでのコンテスタントが減少するのは日本が文化成熟し、鑑賞者の側に来つつあることで嘆くべくことではないのかもしれない。

 

中村女史で興味深かったのが原智恵子氏の話である。中村氏も数度会っただけのようだが、原智恵子は日本人でショパンコンクールに史上初めて参加したピアニストである。私もそれぐらいしか知らなかったが、日本人と結婚し子供を授かるも離婚し、その後、チェロの巨匠カサドと結婚し、イタリアに住んでいたというのは初めて知った。パリで原女史に会った中村女史は、フィレンツェの自宅の城に来てねと言われ衝撃を受けたという。結局、晩年は日本で過ごされたらしいが、まだ日本が経済大国ではない時代に海を渡り貴婦人となっていた女性がいたことに何やら感慨を覚える。

 

中村女史をみて思うのは、ピアニストというのは土地に縛られない種族である。もちろん、出身地の影響もあるし、それが地盤にあるのかもしれないが、それを一要素として自己のアイデンティティとして自己を形成していく。ピアニストとして世界中を旅した中村女史は本当に稀有な存在だった。演奏家としての活躍だけではなく、ショパンコンクールなどの審査委員としての貢献だけではなく、浜松国際ピアノコンクールを世界的なコンクールに押し上げた功績などは数えきれない。女史は1年ほど前に天に召されたが、この喪失は大きい。しかし、本書でも言及されるが、才能ある若いピアニストも育っている。日本のピアノ界の将来は明るいと思いたい。