インド映画というと、ボリウッドのイメージが強いだろう。歌って踊って陽気なイメージである。しかし、本作は踊らないし陽気なイメージもさらさらない。インド映画で、ここまで上質な社会派映画が出てくるとは。国際映画市場で、インド映画の存在感は高まるだろう。ベネチア映画祭では2つの賞を受賞している。渋谷ユーロスペースで観てきた。
ある下水清掃人の死体が、ムンバイのマンホールの中で発見される。その容疑者として、民謡歌手が逮捕される。彼の扇動的な歌によって、下水清掃人が自殺したというのだ。冤罪なのか、犯罪なのか・・・。この事件の裁判、その当事者たちの私生活を織り交ぜながら、インド社会の複雑性と多様性を描き出す。インド映画とは思えないほど、冷静に丁寧に描写していく。
インド社会の多様性としてまず描かれるのは言語だ。裁判中、弁護士が「ヒンドゥー語か英語で話してください」と言うシーンがある。インドは21の言語が公認されているため、言葉を選ばないと会話が成立しないのだ。そして、もう一つは宗教。裁判中に、特定の宗派を批判するとして発禁になっている本の話題が出るが、弁護士は「正統な批判の本」として擁護する。そんな弁護士はある日、レストランから出たところ、その宗派の人に襲われてしまう。インドはヒンドゥー教徒が8割を占めるが、その内部は複雑なのだ。そして明確には出てこないがカーストの問題だ。下水清掃人は低カーストなので貧困エリアに住む。一方で、弁護士は、広々とした綺麗な部屋に住んでいる。カーストは現在は公的にはないとはいえ、居住エリア、着る服などからカーストが推知できてしまい、その残滓は強く残っている。
面白いのは弁護士の視点から描かれるインドだ。彼は非常にインテリで進歩的に描かれる。しかし、彼の親は裕福なものの保守的で、結婚しないのかと口うるさい。弁護士はショパンのワルツのBGMの流れる洒落たスーパーで買い物をし、これまたショパンを聴きながらスパでリラックスし、夜はバーにでかける。法廷では昔の法律を持ち出されると「植民地時代の法律だ、いまの法律に基づくべきだ」と声を荒らげる。これがインドの上流家庭のインテリの若者であるが、周囲から浮いている感じが否めない。
一方で、検察官の女性は大昔の法律まで引っ張り出して裁判をさっさと片づけたがる。彼女は一見すると上流の知識階級にみえるが、家庭に戻れば子供の送り迎えをして、夫が手伝わないなかで家事をこなし、夜は仕事をこなす。古い社会から脱皮できていないのだ。
裁判官は裁判を公平に進めようとし、進歩的な弁護士の意見にも好意的にみえ、彼自身も進歩的にみえる。しかし、最後、裁判所が1か月の休暇に入ると、彼は一族で休暇に出かけるが、そこで話される内容はとても古風だ。子供の緘黙症について聞くと「療法士に頼らずに、名前をかえなさい」「ある宝石を中指につけると効果がある」などと非科学的なことを口にする。
複雑で多様なインド社会を律する法律。植民地時代の「英国法」の影響も強く、裁判でも英国法典の名前が出てくる。しかし、社会には法律が不可欠だが、インドではこの法律とは社会から遊離しているようにもみえる。裁判とは、真面目ぶって行う”知的なお遊戯会”に過ぎないのではないかと考えさせられる。裁判を通してインド社会の複雑性と多様性を見事に切り取った監督の手腕は見事だ。撮影時は27歳だったらしいが、これからの活躍に期待である。
それにしても大学2年のときにインドにいったので、なんとなく当時を思い出して懐かしい気分にさせられた。大学の同期が一人インドにいるので「おいで」というので、また訪問してみようかなぁ。
