「なぜ人を殺してはいけないのか?」というが、死刑という刑罰で殺人を制度化している我が国においてはこの問はなかなか難しいであろう。ここでいう人を殺すというのは、故意をもって作為的・無作為によって人を寿命よりも早く絶命させること、と定義する。


殺人を制度化している国は過去を振り返れば数えきれない。古代スパルタでは、虚弱な嬰児は殺されていた。古代のギリシャ・ポリスには虚弱児を養育するほどの扶養能力がなかったのである。我が国以外でも、アフリカ・南米でも、双子が産まれたら一方は殺す文化を持っていた国は少なくない。アフリカの一部の部族では双子の一方を殺すことが母親の道徳的義務と考えられていた。これは跡目争いを回避する中で生まれた慣習と考えられている。日本では子供を複数産むのは獣と同じということで「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われた。昔の話はいいという人もいるだろう。しかし、今日においても殺人がいけないということは自明ではない。末期ガンの患者が激痛に苦しみ、鎮痛剤もきかない状態だとする。患者の家族は、苦しむ姿をこれ以上みたくないという。そこで、家族に懇願された医師は、苦しむ患者をこれ以上直視できず、やむを得ずに安楽死させたとする。果たしてこれは道徳的に誤った行為なのだろうか。これは仮定ではなく、東海大医学部付属病院などで実際にあった事件である。ベルギーやオランダなどでは安楽死が合法である。我が国では違法なので、さきの東海大で安楽死をした医師は殺人罪で有罪となっている。


他にも、尊属殺人で違憲判決が出た事例を読むと、被害者は殺されて当然と思ってしまう。殺されたのは、実の娘を14歳の頃からレイプし続け、近親相姦の結果、5人も子供を産ませた父親である(殺された被害者をA、殺した娘をBとする)。Bは羞恥の余り誰にも相談できなかったが、意を決して母親に相談したところ母親はAを問いただしたが、Aは逆上し怒り狂って母親を殺すと脅し、母親はAともう一人の娘を残し、他の子供を連れて出て行った。Bは自分が逃げれば、妹が父親に強姦されるとおそれ、逃げられなかった。Bは5人の出産以外にも中絶を繰り返しており、医師の勧めで避妊手術を行うが、Bの強姦行為を助長する結果を招く。しかし、Bは恋心を抱く男性と出会う。男性はBに子がいることも承知で結婚しようと考えたが、それを知ったAは怒り狂い、Bの子供も殺してやると脅迫し、Bは軟禁状態に置かれる。そこで、BはAが生存する限り、自由になれないと考え、寝ているAを絞殺し、自首したのである。こんな男は死んで当然である。もしAが、Bが幼いころに死んでくれていたら、Bは愛する人とまっとうな家庭を築いていただろうかと想像してしまう。道徳的にBのAの殺人は誤りだといえるかといえば、疑問であろう。


ここで再び「なぜ殺してはいけないのか?」という問を再起すると、この問の困難性が出現する。私は正当な殺人もあると思う。ただ一般の法律としては、殺人を合法化できない。これは私的制裁による社会混乱を防止するという政策的な理由である。法の規定と、道徳は必ずしも整合性はない。道徳の次元で殺人が普遍的に悪だとは私は思わない。