教育の経済学・入門―公共心の教育はなぜ必要か/勁草書房

日本ではあまり行動を経済学的に分析することは一般的ではないように思われるが、人間の様々な行動を基礎づけるのは経済的な合理性である。なぜ人はより高い教育を求めるのだろうか。これは経済的には非常に明白で、大学へ進学した方が生涯賃金が多くなるためである。大学に進学しなければ高卒で4年間働けるので、4年間に稼げたであろう所得が機会費用になる(せいぜい1200~1600万円程度)。大学の学費を考えても2000万円前後が損失になる。大卒だと企業でも行政でも幹部へと登用されることが多く、途中で大卒が高卒の給与を追い越し、大学進学による費用(学費・機会費用)を上回る所得を得ることが可能であるから、大学進学は経済合理的な行動なのである。先進国の場合、株への投資より、教育投資の方が収益率が高いという。

もちろん、教育にはこうした投資の側面があるが、一方で「消費」の側面もある。つまり、勉強の結果としての経済的リターンではなく、勉強それ自体を面白いと感じ、勉強自体から効用を得るのである。文学だとか音楽だとかは消費的な性質が強い。また、消費としての勉強には「未来消費」という側面もある。つまり、英語を勉強すれば、将来的に英語の小説を読めるようになったり、海外旅行できたりして楽しいだろう。将来の消費のために教育投資をするのである。


日本で教育だというと「愛のむち」だとか意味不明な感情論が飛び出すが、多くの人は好きで勉強しているわけではなく、自身の効用の最大化のために教育を受けているのであり、そうした点を見落として教育について議論するのは非常に不毛である。日本だと法科大学院制が崩壊しかけているが、これは司法試験受験生の合理的な行動を考慮していないために生じた混乱である。司法試験受験生も趣味で勉強しているわけではないから、教育投資に見合ったリターンがなければ進学行動に出ないのは当然である。法科大学院制を成り立たせるためには、法科大学院への教育投資が経済合理的なほどの、司法試験合格後の身分保障がなければならない。高額の学費なのに、司法試験合格率は低く、合格しても就職がないというのでは、優秀な人材は司法試験など目指さない。

なお、アメリカだと大学院教育が一般的だが、アメリカは人口増加が続いているため、失業を抑制するために学生を増やす必要があるのも一因だろう(学生は失業者にカウントされないので、学生数を増やせばその分失業率が下がる)。一方、日本は人口減少で労働人口が減少し続けるので、教育機関に長くいるより早く労働市場に出てもらわないと労働力が確保できない。だから、日本では大学院教育の重点化は労働経済学からすると不必要な政策ではないだろうか。大学院の重点化は単に官僚の天下り先の確保という性格が強いのでは。

教育に関わる問題も、インセンティブなど経済的視点からみると違う側面がみえてくる。例えば、桜宮高校でバスケットボール部の部長が自殺した事件があったが、この時、体罰をしていた教師を生徒や保護者がかばうということがあり、この教師は実は悪くないのでは?という報道も一部に見受けられた。しかし、これは生徒の合理的行動という視点を見落としている。この高校は体育推薦で大学進学する人が多く、生徒としては学校の肩を持っておいた方が推薦の時に有利に働くことが予想され、体罰教師を擁護することが生徒や保護者にとって合理的行動となるのである。生徒としては推薦の時に冷遇されるリスクを犯してまで学校の体罰の現状を暴露するインセンティブが存在しないのである。日本の教育論に重要なのは、保守派だとかがいう「熱血教師」だとか「愛国心」ではなく、経済合理性である。