原発事故で東電・政府を批判する人がいるが、往々にして一体なにが悪いのかが不明確である場合が多い。原発推進がそもそも悪かったのか、安全基準の設定に問題があったのか、東電・政府の事故対応が問題だったのか、を明確にして考えるべきだろう。抽象的に「東電・政府が悪い」というのは情緒的な反応で、生産的ではない。

おそらく東電・政府の事故対応が最悪だった、ということに異論はあまりないだろう。政府や東電の説明は専門的過ぎて分かりにくく、国民が必要とする情報を提供することが出来なかった。

しかし、原発推進の是非、安全基準の是非には異論反論があるだろう。原発推進が間違っていた、と政府を批判する人もいるが、では原発以外に効率的な発電方法があるだろうか。火力発電は地球温暖化の要因ともなりうるCO2を大量に発生させるし、資源は枯渇すると予測されており、長期的には使用し続けることが不可能な発電方法だ。水力発電では、ダムの建設・維持に莫大な費用がかかるし、数十年で使えなくなり、しかもダム建設の土地収用ではトラブルも多い。太陽光発電・風力発電などは自然に発電力が大きく左右されるので、安定供給という観点からは、あまり過大には依存出来ない。そこで原発が推進されてきた背景があるのだ。そういったことを考えると、原発の推進が大きく間違っていたと言えるのだろうか?もちろん、太陽光発電をもっと普及させるべきだったとかの意見はありうるが、太陽光発電をもう少し普及させていたところで、マクロ的には原発推進に大きな影響はなかっただろう。

では、安全基準の是非についても東電・政府に落ち度はあるのだろうか。政府は好き勝手に原発建設の安全基準を策定したのではなく、専門の科学者達の意見に従い当時に最も信憑性がある基準を策定したのだ。策定した基準が、甘かったというのはいまだから言えること。地震前には、まさか10mを超すような津波など予測出来なかった。そもそも、完全無欠な安全対策など存在しないのである。それは当たり前のことだ。過去から未来にわたって、”科学的な正しさ”を実証することなど出来ない。「科学者が間違った」とかいう人がいるが、そもそも学問とは「ある論理に従えば、その論理体系の中では正しい」ということに過ぎず、科学者・エリートの理論も、異なる条件が加わればその理論が崩れることなど多々ある。哲学者のポパーに言わせれば、科学の理論とは、”反証される可能性を秘めている仮説”に過ぎないのである。もちろん、安全基準の策定過程に落ち度があるのかの議論は必要だろうが、政府・東電の落ち度を見いだすことは困難だろう。東電・政府の落ち度というよりも、科学がもともと絶対的な安全など提供することは出来ないのである。科学的な安全でさえ、あくまで危険が生じる可能性を減じるだけなのだ。原発事故は起こる可能性は少なからずあるとの前提のもとで、緊急事態の際のマニュアルを作成しておくべきであったのだ。フランスは事故の場合に備え、原発周辺の住民には放射能を浴びた際に飲む薬などが配付されている。やや日本の危険への意識が低かったことが問題の所在であろう。「科学的に正しい」などというのは極めて脆いものだという前提で、科学関連の政策は検討されるべきなのである。

放射能問題は甚大であり、看過出来ない事態であるが、政府・東電を批判したところで問題が進展するわけではい。今必要なのは、一体何が問題であったのかを考え、安全対策の欠点を是正すべきことだ。もはや我々の生活は電力なしでは成立しない。これから脱原発に舵をきって、危険を帯びながらも自然エネルギーに依存した発電方法をとるのか否かは、政治家の問題ではなく、我々の決断すべき問題である。我々国民は、いざ事故が発生した時にリスクを引き受ける存在なのではない。原発事故に関して東電・政府を単に批判するのではなく、もう少し生産的な議論がメディアなどを通してなされるといいと個人的には思う。