某鬱漫画と『寄生獣』について他 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

僕は今年の4月に『なるたる』の考察記事というかなんというか、『なるたる』の須藤について色々書いたのだけれども、あの記事の最後の方に『なるたる』に存在する『寄生獣』由来と思しき描写について言及した。

 

この記事では、あの記事を書いた後に色々思い出した『なるたる』と『寄生獣』に見られる種々の描写についてが主眼で、それに加えて細かい『なるたる』の話を書いていくことにする。

 

なんというか、書き終わった後に「そういえばあの話を書き忘れていたな」と思い出すことがいくらかあったので、そういう話について以下では書いていく。

 

まずなのだけれど、鬼頭先生がそもそも『寄生獣』の読者なのかについての話をして行く。

 

実際問題として、鬼頭先生は『寄生獣』の読者であるらしくて、『終わりと始まりのマイルス』をかつて連載していた『マンガ・エロティクス・エフ』の鬼頭先生の特集の中に、そうであると判断できる言及が存在している。

 

(『マンガ・エロティクス・エフ vol.51』 太田出版 2006年 p.3)

 

読みづらいかもしれないけれど、ここに、

「板の下に本を置いて斜めにして作画。「下に敷いているのは、古い「アフタヌーン」ですね。なんとなくずっと変えないままなんですけど…ちなみに寄生獣最終回の号です。(笑い)」(同上)」

と言及されている。

 

この言及から分かることは、少なくとも鬼頭先生は『寄生獣』という作品は知っているし、おそらく読んでいるだろうという程度になる。

 

とはいえ、『寄生獣』の最終話は1995年で、このインタビューが掲載されたのは2006年なのであって、流石に何かしらの思い入れがあってそれを使い続けているのだろうし、『寄生獣』の最終話が載っていて、『寄生獣』が表紙に書かれたアフタヌーンを使用し続けていることを考えると、おそらく、鬼頭先生は『寄生獣』が好きなのだと僕は思う。

 

だから、『寄生獣』に存在していて且つ、『なるたる』や『ぼくらの』に存在しているような描写は、普通に考えて『寄生獣』由来であるということで良いと思う。

 

よって、以下では『寄生獣』が由来であるという可能性がある『なるたる』作中の細かい話をあげつらっていくことにする。

 

そうと言えども、僕は作者本人ではないし、鬼頭先生と会ったこともないのであって、鬼頭先生のことは漫画や先生のインタビューで知れる程度の情報しか持っていないし、どれ程に『寄生獣』が好きで、どれ程に『寄生獣』に影響を受けているのかは分からない。

 

本人にしたところで明確に全てのことを意識して描いているわけではないし、無意識的につい持ってきてしまったり、最初は元ネタの方を意識していたけれども、途中でその事をすっかり忘れてしまうという事もあり得る。

 

だから、信頼性ではやはり弱い内容になってしまうのだけれど、とにかく、『寄生獣』と『なるたる』で類似している点についてを色々書いていく。

 

まず、『なるたる』では得体のしれない生物だか何だか良く分からない物体と第一話で出会って、そのまま一緒に暮らすことになって友達になるという物語になっている。

 

(鬼頭莫宏『なるたる』1巻p.54)

 

そして、『寄生獣』という物語も、良く分からない生物が突然現れて、そのまま一緒に暮らすことになって、最終的にその良く分からない生物とは友達になっている。

 

(岩明均『寄生獣 完全版』1巻p.47 以下は簡略な表記とする)

(『寄生獣 完全版』8巻p.34)

 

『なるたる』も『寄生獣』も、同じようにこの異形の友人と出会ったことによって主人公は非日常の物語の中に入り込んでいくのであって、両者ともにその化け物がために日常の中に死を伴うような事件が起きてくるようになる。

 

そういう点で類似しているのはそうなのだけれども、僕が知らないだけで、良く分からない生命体と友達になって、そこから非日常が始まっていくというような物語は『寄生獣』に先行して存在していて、『なるたる』ではそれを材料にして物語を構築しているという可能性はある。

 

結局、鬼頭先生と僕とでは世代が一回りも二回りも違うのであって、鬼頭先生が幼少期に出会って、物語を構築する材料として使った創作物についての知識を僕は持っていないから、そのようなものに由来があるような場合、例えそうであったとしても、僕はそうであると認識することが出来ない。

 

だから、『なるたる』と『寄生獣』の未知の生命体のようなものと出会うという物語の始まり方について、確実にそこに由来を持っているとは言及できない。

 

まぁそうとは言え結構似ている部分もあるし、実際鬼頭先生は『寄生獣』を読んでいるのは確かなので、そうである部分も捨てきれる話でもない。

 

『寄生獣』ではパラサイトは不定形で変幻自在で、決まった形を持っていないのだけれども、『なるたる』の竜の子も同じような性質を持っている。

 

『寄生獣』の方では基本的にどんな形であっても模することが出来るので、自分が記憶した顔を作り上げることによって、相手に自分の知っている情報を伝達するという場面がある。

 

(『寄生獣』5巻pp.45-46)

 

『なるたる』の竜の子も不定形で、自由に形を作れるという性質を持っていることを利用して、顔面を作り上げて相手にその顔を知っているか問うシーンがある。

 

(『なるたる』1巻p.141-142)

 

このように粘土みたいな何かで顔を作ってその情報を相手に伝達するという創作物に僕は『寄生獣』と『なるたる』以外で出会ったことがないし、顔の後ろににゅるりと伸びる不定形の化け物の形は、両者ともに非常に似通っている。

 

というかそもそも、創作物においてこのように粘土のように形が作れる何かが存在しているという場合がそれほど多くないし、その中で顔を作るという事をしている作品なんて滅多に存在していないのではないかと思う。

 

個人的に、『なるたる』のその場面に関しては、普通に『寄生獣』由来で良いのではないかと思う。

 

次に、『なるたる』では自衛隊が登場して竜の子と戦闘する場面がある。

 

(『なるたる』4巻p.159)

 

そして、同じように『寄生獣』でもパラサイトは自衛隊と戦っている。

 

(『寄生獣』7巻p.179)

 

戦闘機が出て来たり戦車が出て来たりと言う点では両者には差異があるけれども、どちらも自衛隊側の敗北で、敵になすすべもなく全滅している。

 

そんなところが偶然被るという事はそうそうなさそうだし、『寄生獣』ではこの後、市長の広川が「みんなの未来を守らねば」という話をしている。

 

(『寄生獣』7巻p.184)

 

そして、『なるたる』でも一応、敵のボス的なポジションの人が、みんなの未来の話をしている。

 

(『なるたる』7巻p.26)

 

『寄生獣』では生物全体の話で、『なるたる』では人間の話だから少し差異はあるけれども、両者ともにこのままだったら未来はないという話をしていて、両者ともにその解決策として人間の抹殺という手段を選んでいる。

 

まぁ普通に須藤の言及は『寄生獣』由来ということで良いのではないかと思うけれども、実際のところは定かではない。

 

ちなみに、同じように『寄生獣』の影響を受けている作品として『Gantz』という漫画が存在している。

 

『寄生獣』では主人公の相方のミギーが死にかけた時に、「これが…死か…」と言っているのだけれど、『Gantz』でも死に際して和泉君が「これが…死か」と言っていて、『Gantz』の奥先生はかなり『寄生獣』を意識しているところがある。

 

一々アルファベットで打つの面倒だから以下では『ガンツ』とするけれども、『ガンツ』にも自衛隊は登場していて、異形の存在と戦うのだけれど、やっぱりなすすべもなく自衛隊は敗北している。

 

その辺りは『寄生獣』由来ということで良いと思う。

 

『ガンツ』という漫画は良く分からない星人と呼ばれる存在と理由も知らされず戦うような話なのだけれども、『ガンツ』では唐突に化け物が学校に現れて、主人公の学校の生徒を虐殺して回るという場面がある。

 

一方で『寄生獣』にも同じように化け物が学校に現れて、生徒たちを惨殺して回るというシーンがある。

 

(『寄生獣』3巻pp.190-191)

 

そこら辺はやはり、『寄生獣』が由来の描写なんだろうし、『寄生獣』も『ガンツ』も結局主人公がこの一人で倒すことでこの事件は終わるという筋書きになっている。

 

『ガンツ』ではないけれど同じ作者の『いぬやしき』では、『寄生獣』のようにヤクザの事務所に単身乗り込んで、ヤクザ相手に無双するシーンがあるから、奥先生は『寄生獣』が好きなのだろうと僕は思う。

 

『寄生獣』と『ガンツ』では学校に化け物が乗り込んでくるという類似した場面があると言及したけれど、『なるたる』にもある。

 

(『なるたる』6巻p.149)

 

そのように化け物が乗り込んできて何をするかと言えば、やっぱり生徒の惨殺だし、『なるたる』にしてもこの事件は結局主人公が一人で解決したのだから、その辺りも『寄生獣』由来なのではないかと僕は思う。

 

何故、『ガンツ』の話を入れたかというと、創作家というのは自分の好きな創作物の情報を自身の作品の中に入れてしまいがちだという一つの例示としての挿話で、『寄生獣』が好きなのであろう漫画家が一人そのように作品内に『寄生獣』の要素を入れているのだから、『なるたる』に関しても同じように好きだからそのような要素が作中に見られるのではないかという話になる。

 

確定できる話でもないのだけれども、個人的にやはり、その辺りは『寄生獣』由来なのではないかと僕は思う。

 

次に、『寄生獣』という作品は「寄生獣」という表題を持っているのだけれども、その表題の意味を作中で明かすシーンがあって、その時のサブタイトルが「寄生獣」になっている。

 

(『寄生獣』7巻p.161,pp.166-167)

 

このように『寄生獣』では作中でその作品名の意味を明かすという場面があって、それに際してサブタイトルでその語を用いている。

 

『なるたる』に関しても最終話のサブタイトルで、『なるたる』という作品名を回収している。

 

(『なるたる』12巻pp.197-199)

 

僕は『寄生獣』を読んで、そのタイトルのミスリードの表現を読んだ当初は酷く良く思ったという事を強く覚えている。

 

けれども、物語の途中でそのことが明らかになるというのは何処か決まりが悪いと思っていた部分がある。

 

読んだ当時は最終話であったらより良かったなと思っていた。

 

『なるたる』に関しては最終話で完璧にその辺りについては拾われていて、『なるたる』という作品名の意味は、廃墟と化した骸なる星で、珠たる子であるシイナと涅見子が世界の再生をする物語であることを指しているという事がここに至って始めて分かって、その事がサブタイトルで回収されている。

 

おそらくこの、作品名の意味をサブタイトルで回収するという発想は、『寄生獣』由来なのではないかと僕は思う。

 

もっとも、『なるたる』の場合は、星そのものが魂のない死体のような存在で、その魂がシイナたちであるという話なのだから、最終話で骸なる星になったかと言えば少し違う部分もある。

 

けれども、サブタイトルで作品名を用いて、その事で物語の意味を示すというあり方は『寄生獣』と似ていて、『なるたる』のその手法も『寄生獣』に依っているという可能性はある。

 

そうと言えども、昭和や平成初期のアニメの中にそのような作品が存在している可能性は捨てきれなくて、必ずしも『寄生獣』に由来していると言えるような内容でもない。

 

今から鬼頭先生が見たであろうアニメを全てチェックするというのは土台不可能な話なのであって、やはり、鬼頭先生と同じくらいに生まれて、同じようにオタクをやっていた人以外分かるようなものでもないと思う。

 

そもそも僕はアニメ見ないし、最後に見たのは随分前で、それ以降、一作品すら見ていない。

 

だから、アニメが由来だと僕にはどうしようもない部分が大きいし、鬼頭先生はゲームも結構プレイしているようで、僕はゲームは信長の野望とCivilizationシリーズしかやらないので、ゲーム由来の描写はどうしても分からない。

 

人よりはファミコンとかのリアルタイムアタックの動画は見ているから、そういう意味では知識はあるけれども、実際にプレイしていないのだから細かいところは分からないし、別に鬼頭先生がプレイしたゲームを知っているという事もない。

 

そうそう、現在だと非公開だからあれなんだけど、以前僕は『なるたる』の登場人物の名前の由来についての記事を書いていて、『なるたる』のキャラクターは実在のクリエイターなどをもじってつけられているという話をしていて、それに際して、河野淳司というキャラクターの名前の由来は『幻想水滸伝』のキャラクターデザインの人なのではないかと言僕は言及していた。

 

その事についてなのだけれど、鬼頭先生が『幻想水滸伝』をプレイしているという事がこの前分かった。

 

河野淳司ってのはここで名前が挙がっている。

 

(『なるたる』5巻p.67)

 

ここに河野淳司という名前があるけれども、色々調べた結果、『幻想水滸伝』のキャラクターデザインの人が河野純子という名前で、この人の名前をもじっているのではないかと僕は言及した。

 

まぁ今はもう非公開なのだけれども。

 

その事について、『マンガ・エロティクス・F』に載った鬼頭先生のインタビューをチラチラ見ていたら、以下のような言及があった。

 

「53 好きなゲームは?

●「幻想水滸伝」」

(『マンガ・エロティクス・エフ vol.51』 太田出版 2006年 p.28)

 

これはインタビュアーが100質問を用意して、鬼頭先生がそれに答えるという何処かノスタルジーを感じるような企画なのだけれども、それに際して鬼頭先生が『幻想水滸伝』の名前を挙げていた。

 

実際、名前の由来についての色々を書いた段階だと鬼頭先生が『幻想水滸伝』をプレイしているという情報を僕は持っていなくて、これを読んで初めて鬼頭先生が実際にプレイしているというという事が明らかになった。

 

なのだから、河野淳司の名前の由来は河野純子という推論は、以前より蓋然性が高まったのではないかと個人的には思う。

 

というか、河野という名字で、河野淳司という名前に近いクリエイターが他に存在していないというのは僕によるねっとりとした調査で分かっているし、もうこの人ってことで良いんじゃないかな…と思ってしまう。

 

まぁ『なるたる』の登場人物の名前の由来についてで、しかも河野淳司に関心がある人なんてこの世界に居ないだろうから、色々どうしようもないけれども。

 

さて。

 

最後に、『なるたる』の終盤の色々な物語の動きについて書いていくことにする。

 

鬼頭先生はこの前、Twitter上で『なるたる』が最後の方打ち切りというかなんというか、人気がなくて連載が短縮されたという旨の話をしていて、僕はそのことについてあのサイトで記事を書いている。(参考)

 

鬼頭先生が言及していることはあくまで、最後の一話の分を一巻くらいかけてやる予定だったとしか言っていないけれども、僕はもう少し省略されているのではないかと考えている。

 

実際、本編中では描かれなかった種々の描写が存在しているらしくて、火神というキャラクターについて鬼頭先生は次のようなことを言及している。

 

 

 

このように『なるたる』の最後の方は結構端折られていた様子があるのだけれど、僕はもしかしたらの可能性について一つ気づいたことがある。

 

僕は今年の4月に須藤について予定変更があって、そのせいで物語が破綻しているのではないかという内容の記事を一つ書いている。(参考)

 

あの記事を書いた時は何故予定変更が起きたのかについては特に僕は言及していないけれども、もしかしたらこの辺りで鬼頭先生に編集側から、物語を少し巻いてくれという伝達がされたという事があったのかもしれないと僕は考えている。

 

『なるたる』の7巻辺りでは須藤たちは日本政府と協力して、"優秀な"日本人以外の人類を抹殺する計画を共有している。

 

(『なるたる』7巻pp.34-36)

 

7巻の時点ではこう言っていて、そのためのあれこれを11巻の冒頭まで行っている。

 

けれども、なんだか急に須藤がそのようなことをおっぽり投げて、世界中に核の雨を降らし始めたというのが『なるたる』の物語になる。

 

その事について、編集から打ち切りを告げられたことによって物語を畳まなければならなくなったがために、日本政府と黒の子供の会が協力して行うアメリカに対する戦闘行為のくだりが省かれてしまったのではないかと僕は思う。

 

そうすると諸々の描写に説明がつく。

 

『なるたる』では意味深に日乃レポート作戦についての言及がある。

 

(『なるたる』7巻pp.188-189)

 

この日乃レポートは『なるたる』単体ではどういうものだったのかは一切が不明で、鬼頭先生の次の作品である『ぼくらの』の描写があって初めてどのようなものであったのかがおぼろげに分かるようなものになる。

 

『ぼくらの』の描写を鑑みるに、おそらく自衛隊による米軍基地への攻撃か何かの作戦が日乃レポートであるという様子がある。

 

その事について、作中の概念を一切説明しないまま作品を終わらせるという事は普通意図して行われることではない。

 

創作物として、作中の描写だけでその事を拾いきれないような描写をわざと用意するなんてことはしないというか、する理由が特に見つけられない。

 

世界設定の根幹に関する情報を敢えて曖昧にすることで深みを持たせようという意図ならあり得るけれども、日乃レポートはそういう概念であるわけではなくて、秘匿する意味が薄い言葉になる。

 

けれども、『なるたる』では日乃レポートが何だったのかは『なるたる』だけの描写では分からないような言及のされ方しかしていない。

 

結局、このことは『なるたる』が終盤に若干物語を巻く必要が出てきて、それがためにそれらの描写を拾いきれなかったのではないかと僕は思う。

 

11巻の前半までは日乃レポートに向けて色々な準備をしていたのにもかかわらず、11巻の中盤ではそういう一切をかなぐり捨てて世界を破滅に追いやっていて、実際あの辺りはかなり急な展開になっている。

 

しかもその急な舵取りのせいで須藤の言動が前後矛盾するものになっていて、その事は物語を急に畳んだがために生じた不具合だったのではないかと思う。

 

個人的に…『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放送版がそのように最後の方、丸めて捨てたような展開になっていて、鬼頭先生はエヴァの大ファンだから、エヴァの影響でそのような展開になったのではないかとおぼろげに考えていた。

 

けれども、よくよく考えてみたらテレビ放送版のエヴァの最後は、ラスト2話で纏め切れなくて投げて捨てたが故のあの展開なのであって、無理やり2話で締めたためにあのザマになったのだから、『なるたる』に関しても無理に畳もうとした結果が、『なるたる』の最後の展開なのではないかと思う。

 

本来的に須藤と宮子は協力してアメリカ軍を攻撃して、それに際して人死にが大量に出て、最初は須藤は宮子と協力していたものの、タガが外れて宮子の制御が効かず暴走を初めて、それをシイナが止めるような物語だったのかなと僕は思う。

 

そうであるとしたら、終盤直前の諸々の描写に説明がつくから、なんとなく、そうなんじゃないかな…って。

 

『なるたる』が『BLEACH』のように打ち切り宣言を受けて、それに際して物語を巻きで終わらせたというのは事実で、最後の方が打ち切りだったのは鬼頭先生自身が言及していることだから、疑うまでもない事柄になる。

 

問題はいつの時点でそれが告げられて、どのような短縮を行ったかで、おそらくは11巻の中盤辺りを描いていた頃にその話を受けて、須藤と宮子の色々を端折って、更にシイナが魔女として人々に追われることになる物語を端折ったというの実際なのかなと僕は思う。

 

その辺りはまぁ、鬼頭先生に聞いた方が早いのだけれど、僕はそのような胆力を持っていない。

 

まぁ『なるたる』の場合、多少巻きはあっただろうけれど、シイナに関してはやりたいことはやれたのだろうから、少しはマシなあれだったのではないかと個人的に思う。

 

そんな『なるたる』の話。

 

普通だな。

 

では。

 

・追記

『寄生獣』では胸を貫かれた主人公が不定形の存在の力によって体を再生するという場面がある。

 

まぁミギーが新一の胸の穴を塞いだあれです。

 

一方で『なるたる』にも腹を貫通する怪我をして、それを不定形な竜の子で再生する場面がある。

 

なんつーか、小森少年のあれですね。

 

もしかしたらその辺りも『寄生獣』に着想があって、『なるたる』のあの描写があったりするのかもしれない。

 

・追記2

この記事で僕は須藤まわりについて物語が端折られたのではないかと言及した。

 

その文章を読み返していた時に、ふと思ったことがあった。

 

本来的な物語では日乃レポートは実行される予定だったのでは、という話で、その日乃レポートは沖縄の米軍基地攻撃のための要綱だろうという話は何度もしている。

 

その沖縄の基地攻撃に関して、『ぼくらの』ではそこで核兵器を鹵獲したという話がされている。

 

(鬼頭莫宏『ぼくらの』8巻p.140)

 

その事に関して、もしかしたら本来的な予定としては、須藤はここで核に関する情報、すなわち、ICBMの発射機構を学習して、それによって宮子と手を組む必要がなくなったというのが本来的な物語だったのではないかと思う。

 

もちろん、十分な根拠がある話ではないのはそうであって、確実なことは言えない。

 

けれども、諸々も事を考えると、そうなのではないかと僕は思う。

 

まぁ実際のところは鬼頭先生に聞いてみなきゃ、永遠に謎のままなんだけど。

 

・追記3

『寄生獣』読んでて思ったのだけれど、この記事の中盤で『ガンツ』にヤクザに対して無双する場面があって、それを『寄生獣』由来ではないかという話を僕はした。

 

その事について、考えてみたら『なるたる』でもヤクザ相手に無双してたよなと思った。

 

(『なるたる』11巻p.136)

 

しかも『寄生獣』のように切り裂くようなやり方でやっていて、もしかしたらこの辺りも『寄生獣』由来なのかもしれない。