願わくば、私にあの穏やかな | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回も前回同様小さなトピックを用意して色々言及していくやつをやっていく。

 

一切関係ないのだけれど、久方ぶりにあのサイトを確認してみてら、一部の記事とかは数百のいいね!がついていて、そんな数のいいね!がついてたんだなと思った。

 

外交努力して無かったのにねー。

 

まぁ結局、一時期はアクセス数がそれなりにあったから、そういうブログサイトは何らかの表示で上の方に出るらしくて、宣伝目的のいいね!が大量についていて、それぞれのいいね!を僕は把握できていなかった。

 

けれども、最近あのサイトに上げた記事にいいね!をしてくれた人の場合は、その人数が少ないからそれが把握できて、アメブロだと同じブログに何回いいね!を入れたかが表示されるのだけれど、最新の記事につけられるいいね!を見て初めて、複数回いいね!をその方にして頂いていたと気付く有様だった。

 

ともかく、それほどにアクセスがあったとしても、僕の利益なんて数百円程度でしかなかったし、その事で得をしたかと言えば別にしなかったと思う。

 

そんなことはさておいて、小さな話をして行くことにする。

 

・割礼について

以前、割礼という文化がエジプト発だという話をして、その事は紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの『歴史』の中で、エジプト人が割礼をしている話があるから僕はそう言ったのだけれど、エジプトの碑文の中で割礼についての記述を見つけた。

 

『メルエンプタハ碑文』というテキストの中に割礼についての記述があって、割礼をしていない男根を戦利品として集めた話がある。

 

結局、ユダヤ教やキリスト教では割礼が何か神聖なものであるという認識がされているけれど、その事はただ単に、エジプト人が始めたものを特に吟味なしに受け継いだだけでしかないのだろうなと思う。

 

…というか、「出エジプト」ってある程度事実に則った出来事だったんだな、って。

 

以上。

 

僕は最近、中東世界の碑文のテキストや、棺桶に書かれた文章などを色々読んでいる。

 

読んでいて思うところはあって、何を一番思うかというと、「文化が違う…」ということになる。

 

インドや中国と文化が違うな…って。

 

一方で、神話学の言及にあるような神話的な世界は古代中東という場所には存在していて、なんというか、神話学というのがその辺りの情報によって構築されているだけであって、中国は文化が違うだけなのではないかと思う。

 

ありとあらゆるところが違うもんなぁ。

 

そのような古代世界の文章を僕は色々読んでいるのだけれど、碑文の名前を発見したならばその場で検索して日本語訳でそれを読めないか確認したり、場合によっては英訳でも良いからと、英語に翻訳されたそのような文章を探してそれなりに読んでいる。

 

そんな中で、『メルエンプタハ碑文』という文章の存在を知って、その名前でググったら存外にネット上に翻訳が存在した。

 

なのでそれを読んでみたのだけれど、割礼の記述があった。

 

今からその文章を引用するのだけれど、割礼の部分は下線引いときます。

 

ああそうそう、所々空白があるけれど、それは元の石の文字が削れて読み取れない部分で、〔〕とかは読みやすくするための補いです。

 

§587 凱旋
[そして]弓兵隊や歩兵部隊、戦車部隊の長官が[帰還し]、派遣された全ての部隊が、新兵、重装歩兵の区別を問わず、 [戦利品を携え・・・・・・]前にいるロバたちを[追い立て、]リビア人の無割礼の男根やリビア人に味方した者全ての手、及びに彼等の所有物を草の上の魚のように積み上げて帰ってきた。[・・・・・・・・・・・・]祖国の敵[・・・]。見よ、全ての国は天国のような暮らしを享受し、町や州は起こった奇跡を歓迎した。[・・・・・・・・・]ナイルの[・・・]バルコニーの下に積み上げられた貢物を見ると、陛下はいつもご自分の勝利を思い起こす。

§588 捕虜と死者の一覧
リビアの国と彼に味方した国々から連れてこられた捕虜の一覧、並びに財産[・・・・・・・・・・・・・・・]。ペリレから更に奥の町々にいたるまでテヘヌーの国を破壊し尽くしたメルエンプタハ・ヘテプヘルマアトはチャトゥーの間で[・・・]「メルエンプタハ・ヘテプヘルマアトの[・・・]」より始まる。 50リビアの酋長の息子達の無割礼の男根が6人分、リビアの酋長殺された息子達や兄弟達の[無割礼の]男根[・・・・・・]得られた。[・・・・・・・・・]リビア人は殺戮され、彼等の無割礼の男根6359人分が得られた。総酋長の息子達は全部で[・・・・・・]。[・・・・・・、シャル]ダナ人、シェケレシュ人、海の国から来たアカワシャ人等については、シェケレシュ人からは男根222人分が得られ、確認したところ切り取られた手は250人分に上った。トゥルシャ人からは男根742人分が得られ、確認したところ切り取られた手は790人分に上った。シルダーヌ人[・・・・・・]、確認したところ[・・・・・・]包皮を持たないアカワシャ人は殺戮され、彼等は包皮を持たない(ので)、代わりに[・・・・・・]手が持ってこられた。[・・・・・・]山積みになった彼等の無割礼の男根の内、王の御前に持ってこられた男根の数は6111個に上り、無割礼の男根の数を確認したところ[・・・・・・][・・・・・・]彼等の手2370人分が得られた。シェケレシュ人とトゥルシャ人はリビア人と共に敵としてやって来て、[・・・・・・][・・・・・・]ケヘク人とリビア人の捕虜218人が得られた。生きたまま、堕落したリビア人の酋長とともに連れられてきた女は12人に上る。(結局)全部で[・・・・・・・・・・・・・・・]9376人の敵が殺された。(参考)」

 

エジプト人は殺した相手の男根や手を切り落として手柄の証としていた様子がある。

 

割礼してた場合はおそらく、エジプト人の男根と区別がつかないからという理由で手首の方が集められているのだと思う。

 

それとも割礼してたら切ってはいけないってしきたりでもあったんですかね。

 

まぁともかく、日本の戦国武将だって生首でそれをやったり、耳や鼻でそれをやっていたのだから、切り取る箇所が違うだけで、文化が違うから残酷に見えるのかもしれない。

 

エジプト人は割礼をしていて、陰茎の亀頭部を覆う皮膚が存在していない一方で、彼らと戦った人々には亀頭部の皮膚を除去する慣習を持っていない人々もいた様子があって、それ故に『メルエンプタハ碑文』では、敵の男根のことを割礼していない云々と言及しているということで良いと思う。

 

旧約聖書の『創世記』の17章に割礼をするべきだという話があって、それは神との契約だという話らしいのだけれども、実際のところはエジプト人から包皮を除去する儀礼を学んで、それを実行しているだけに過ぎないというのがその実態であるらしい。

 

この『メルエンプタハ碑文』はメルエンプタハさんが残した文章なのだけれども、彼は紀元前1200年くらいを生きた人物だから、それくらい古くから割礼の習慣がエジプトにはあって、ユダヤ人は元々エジプトにいたのだから、結局の所エジプトで割礼を学んだだけということになると思う。

 

旧約聖書の『出エジプト記』にモーセがユダヤ人をエジプトから連れ出した話が言及されているけれども、その事はある程度事実に即した話ではあるらしい。

 

…僕は聖書の記述なんて基本的に創作だろと思っていたのだけれども、紀元前800年とかのユダヤ人やその周辺の民族の碑文に書かれていることは、旧約聖書の『列王記』にしっかり言及があって、あれらはある程度は本当の歴史であるらしいとこの前僕は知った。(参考:『メシャ碑文』など)

 

正直、聖書を読むのなんてやってらんないと思っていたけれども、出土した碑文と旧約聖書の記述が一致するという現実を知って、そろそろ聖書も読まなきゃならないかもしれないと思っている。

 

ちゃんと出土文献で裏付けされてるならそれはただの後世の創作ということはないわけであって、そうであるなら僕の目的と合致していて、読む必然性はあるよなと思う。

 

まぁその出土文献で割礼という文化が神との契約ではなくて、ただのエジプト人の風習だと分かってしまうのだから、宗教的な権威は失われてしまっているとは思うけれども。

 

エジプト人は割礼をしていない男根を集めていたけれども、まぁこのような文化は中国では見ない。

 

中国の場合はもう少し違っていて、例えば殺害して胃を取り出してそこに髪の毛を詰めて蹴って遊んだり、皮を剥いで的にして弓矢で射ったりしたという話が、出土文献の『黄帝四経』で言及されている。

 

 

 

Amazonだとこの値段だけど、出版社から直接買うと5000円ちょっとで買えます。(体験談)

 

まぁ『黄帝四経』のその話は良く分からなくて、寓話かもしれないし、中国の戦場でそういうことが実際あったのかもしれないし、悪逆の創作話としてそのような酷い振る舞いが言及されているのかもしれなくて、読んでも良く分からないとしか言いようがなかった。

 

出土文献で元のテキストが痛んでいて、読めない部分も多いし、読んでも良く分からないとしか言えないけれども、少なくとも男根を切り取って持って帰ったり、手を切り取って持って帰ったりは中国ではあんまりしないよなと思う。

 

中国だと殺した後に塩漬けにしてその肉を配ったり、伝説の話で実際にはやってはいないだろうけれど、肉のスープにして食べたりという話はあるにはある。

 

人間を塩漬けにしたり、その肉を見せしめに配るという話は実際にやっていた様子があって、孔子の弟子の中に一人塩漬けにされた子路という人がいるし、彭越(ほうえつ)という人物も処刑後に塩漬けにされて配られている。

 

子路については『論語』に言及がある。

 

…と思って文章を引用するために確かめたら『論語』に書かれていることではないんだな。

 

少し出典を悩んで、「多分、『孔子家語』に言及があるだろうと」思って、『孔子家語』の全文が乗ってるサイトで塩漬けを意味する"醢"で検索したら該当の記述を見つけた。(参考)

 

『孔子家語』は成立のあまり古くないテキストだから、孔子の事績の記述としてはあまり信用が置けないのだけれども、彭越の方は『史記』の記述だから、『孔子家語』よりは信頼できると思う。

 

「 漢王の六年、淮南王は陳で漢王に朝し、八年に雒陽で、九年に長安で参朝した。十一年、高后が淮陰候韓信を誅したので布は恐怖した。その夏、漢は梁王彭越を誅し、その屍を醢にし、器に盛ってあまねく諸侯に賜い、淮南にも届いた。たまたま淮南王は狩猟をしていたが、その醢を見て大いに恐れをなし、ひそかに手配して兵を部署し、近郡に挨拶して危急を警告した。(司馬遷『世界文学大系 5B』小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.180)」

 

この場面は漫画版にもありますね。

 

(横山光輝『史記』 13巻p.108)

 

僕はこのような中国の肉刑についてはあまり残酷だと感じていなくて、その事は純粋に、僕がそのような文化に慣れ親しんで、その情報が当たり前のものになっているからで、一方で、男根や手首を持ち帰る文化になじみがないから、僕はエジプトの碑文にされた言及に若干引き気味ではあった。

 

この漫画の『史記』を読んだことが僕の古代中国のテキストの読み始めのまず第一なのだけれど、今では慣れてしまった僕にしても、最初にこのような話を読んだときはやはり引いていたと思う。

 

そのようなエジプトの文化なのだけれど、中東世界とはそれでも少し似通っている部分があるよなと思う。

 

…まぁ『アマルナ文書』とか、中東の国がエジプトに援軍を求めるテキストが残っているし、あの辺りは人々と文化の行き来があったのだと思う。

 

ツタンカーメンの墓の発掘に携わった人々が全員呪いで死んだという"逸話"があるけれども、あの辺りの地域だと墓石とか棺に呪いの言葉が書いてあって、「この棺の中には死体しか入ってないし、財宝の一切は入っていない。中の人は生前真面目に生きた人だから開けてはならない。開けた人間全てが呪われますように。」というような内容の文章が書いてあることがあって、まぁエジプトでもそんなことが書いてある場合もあって、それが故に呪われて死んだ云々と言う話が出てきているのだと思う。

 

さもなければ同じ古代世界の話だから、エジプトにはそのような文化はないけれども、中東にあるその棺桶に関する呪いの話を何処かの誰かがエジプトに持ってきて面白おかしく語ったのかもしれない。

 

実際に前6世紀にアラム語で書かれた文章を持ってくる。

 

「シ・ガッパリ、

ネラブでサハルの祭司。

これは彼の像である。

彼のみ前での私の義によって、

私に良い名前を与え、

私の日々を永らえ給うた。

死ぬ日には、私の口は

 言葉を窮することはなかった。

そして私の目で私は見た、

四代目の私の子らが私のために泣き、

全く取り乱していた。

しかし私と共に銀や銅の什器は納めず、

私の衣類と共に私を納めた。

後になって私の墓所が奪われないようにと。

汝が誰であれ悪事を働き私を奪う者は、

サハルとニッカルとヌクスが、

彼の死を以って悲惨におとしいれ、

彼の末裔は滅びんことを。

(谷川政美『古代の歴史ロマン3 フェニキア文字の碑文』国際語学社 2002年 p.141)」

 

細かいことはさておき、曾孫を含めた家族に囲まれて死んで、死に際してその家族が嘆き悲しんだような人物だし、死体と衣類しか埋めてないから掘り起こさないでほしいし、掘り起こしたらサハルとニッカルとヌクスという神が盗掘者に天罰を下さんことをと言及されている。

 

おそらく、エジプトでも似たようなことを墓所に書く文化があって、それが故にツタンカーメンの呪い云々の話が生まれたのだろうと思う。

 

古代中国の場合は『礼記』という儒教の本に詳しい葬儀の作法についての記述があって、そこに棺桶に使う木の種類まで言及があるけれど、このように呪いの言葉を刻むという習慣は言及されていない。

 

中東近辺のあの辺りの地域は非常に文化が近くて、エジプトでもそんな感じだけれども、ギリシアも文化が似通っている様子がある。

 

まぁそもそも…ギリシア語の筆記文字であるギリシア文字自体が元々はフェニキア文字という、中東世界の文字が由来なのであって、そういうところから文化的な影響を受けていた様子がある。

 

古代中東では肘から指先までの長さを元にしたキュービットという単位が用いられているのだけれど、ギリシアでも名前は違えども同じ肘から指先までの長さを基準にしたペーキュスという単位を使っているし、文化的にもやはり似たところが多い。

 

一方で中国の尺という単位は肘とかと一切関係性を持っていないので、やはり地理的に遠くて文化が違うということになると思う。

 

まぁギリシアの場合は海を隔てた直ぐそこに中東世界があって、交易が盛んに行われていたのだから、そういうルートであの辺りは文化的に近かったりするのかもしれない。

 

・追記

割礼がエジプト由来だと言及したけれども、イスラム教で見る豚への禁忌もエジプト由来であるらしい。

 

「エジプトでは、ウシ、ロバ、ヒツジ、ヤギなどの哺乳動物の骨がかなり出土している。身近な家畜として農耕の助けとなり、食料にもなるウシやヒツジなどは、また信仰の対象として造形化され、絵画や彫刻にも描かれた。豚は土器に描かれたのみで、骨の出土例はない。様々な悪の権化であるセト神の化身とも考えられたブタは、買われることもなく食べられることもなく、避けられてきた。この習慣が、のちのイスラム教やユダヤ教に受け継がれたものと思われる。(吉村作治他編『キーワードで探る四大文明』 日本放送出版協会 2001年 p.99)」

 

正直、エジプト学者の吉村氏のことを僕は信用していないのだけれども、それはそれとして、おそらく何らかエジプトで豚が忌避されていたというのは事実だろうとは思う。

 

出土しないんならそうなんだろうという話です。

 

結局の所、割礼も豚への禁忌もエジプト発だし、おそらくインドの宗教で見る死後の永遠や輪廻転生もエジプト発だろうから、存外にエジプトは知らないだけで様々な情報の発信元であるのかもしれない。

 

次。

 

・鬼ヶ島について

桃太郎の鬼退治って『ラーマーヤナ』のヴィビーシャナ討伐が元なんだなって『ラーマ・プールヴァ・ターパニーヤ・ウパニシャッド』の解題読んでて思った。(意味不明)

 

以上。

 

僕はこの前、ウパニシャッドという、古代インドのバラモン教の聖典の戦前に翻訳されたやつを読んでいて、その中に『ラーマ・プールヴァ・ターパニーヤ・ウパニシャッド』というテキストがあった。

 

…まぁ、こんなウパニシャッド、もはやタイトルでググっても何も検出されないレベルでマイナーなやつなのだけれども、これはどうも、『ラーマーヤナ』の副読書というか、『ラーマーヤナ』を前提にしたテキストであるらしい。

 

『ラーマーヤナ』ってのはアレですね、ラピュタでムスカが「インドラの矢とも言う」だの言う時に名前が出てきますね。

 

僕はこの『ラーマーヤナ』を読んだことはないのだけれど、『ラーマ・プールヴァ・ターパニーヤ・ウパニシャッド』の解題を読んでいたら、どうやら『ラーマーヤナ』には島に居る鬼を退治しに行くというくだりが存在しているらしいということが分かった。

 

僕はそれを読んで、桃太郎ってそれほどに成立が古くないテキストであって、仏教伝来後に創作されたようなものでしかないのだなと理解した。

 

そもそも、鬼という概念がかなり込み入ったものであって、元々"鬼"という言葉は、死者の霊という意味でしかない。

 

死者の霊のことを鬼と呼称する伝統が古代中国にはあって、『礼記』や『墨子』などに幽霊としての"鬼"の記述がある。

 

日本にしてもその鬼という漢字を利用しているわけであって、元来の意味は幽霊でしかない以上、本来的に幽霊を言って"鬼"としていたとしか想定できない。

 

けれども、僕らが言う鬼は、赤い顔に角を生やして棍棒を持った人型の化け物なのであって、本来の鬼という語の用法から大分離れた概念になる。

 

一方で化け物を言って"鬼"とする文化もあって、インドの仏教などは死者のことを餓鬼と翻訳する場合もあるし、それ以外の種々の化け物のことを鬼と翻訳する場合がある。

 

…まぁ、古代中国にそういう化け物の概念があんまりなかったから、翻訳に困って"鬼"という死者の霊を意味する漢字が選ばれたのだろうと思う。

 

結局、日本にある化け物としての鬼は、仏典に登場する化け物が由来なのであって、インドの文化が遠く海を隔てた日本に来た結果として生まれたものでしかないのだろうと思う。

 

ちなみに、日本の鬼が角を生やして虎柄のパンツを穿いているのは、鬼門の方向が丑(うし)と寅(とら)の間にあるかららしいっすね…。

 

僕は風水について詳しくないからあれだけれども、方角にそれぞれ名前があって、その中で北東を意味する鬼門という言葉あって、その北東は十二支基準だと丑と寅の間だから、鬼はあんな恰好らしいです。

 

牛だから角があって、虎だから虎柄のパンツを穿いていると僕は聞いた。

 

まぁなんというか、日本古来の概念というより、中国の道教の発想とインドの仏教の発想がまじりあって出来た概念らしい。

 

ともかく、本来的に鬼は幽霊でしかない一方で、『ラーマーヤナ』には化け物である鬼が住む島に鬼退治に行く話が存在しているのだから、桃太郎の大元は『ラーマーヤナ』でしかないのだろうと思う。

 

どういう経緯があったのかは定かではないけれども、少なくともインドで成立した仏典は日本に訪れているわけであって、その中に何らか『ラーマーヤナ』に由来する物語もあって、そういうルートで日本に鬼ヶ島への鬼退治というテンプレートが訪れたのかもしれない。

 

もっとも、僕は『ラーマーヤナ』を読んでいないので実際にどのような言及になっているのかは分からない。

 

なんというか、僕が読んだ『ラーマ・プールヴァ・ターパニーヤ・ウパニシャッド』には島に居る鬼を倒しに行くと言及されていて、けれども、それは100年も前に出版された本の記述だから、どれ程に正確なのかは保証がないし、訳の問題で鬼とされているだけで、実際には鬼ではないのかもしれない。

 

…と思ってググってみたらその時討伐されたヴィビーシャナはラクシャスという種族って設定だから鬼ですね。(断言)

 

ラクシャスなら鬼です。

 

多分、普通に桃太郎は『ラーマーヤナ』に由来しているという話で良いと思う。(強気)

 

まぁどっちも勇者が鬼を退治するために島に渡ってそれを成し遂げるという話ですし、『ラーマーヤナ』方だと、その鬼退治のメンバーにハヌマーンっていう猿居ますし。

 

他には、浦島太郎だと竜宮城に行ったりするけれども、竜宮城という概念自体がインド由来らしく、仏典が納められていた秘所として竜宮という概念があるという話を、世界の名著の大乗仏典の解説で読んだことがある。

 

「 しかし、これらの大乗経典の成立が原始経典よりものちであることは事実である。その内容はもとより、文章のスタイルも、遠く仏陀の時代からは隔たっている。言語も、世人によく通じた俗語ではなく、学問的あるいはバラモン階級的な用語として仏陀が排斥したサンスクリット語である。そして、これらの経典が「発見、発掘」されたものだと説明される。つまり、経典は仏陀の時代のものであるが、ながく世人の目に触れることもなく隠されていて、南インドの「鉄塔」や、海中の「竜宮」に秘蔵されていたのが、新たに発見されたのだというのである。このことは、大乗経典の成立がすべて後代のものであることを物語っている。(長尾雅人他訳『世界の名著2・大乗仏典』中央公論社 1967年p.34)」

 

結局、その竜宮云々について言及されている原典訳のテキストを僕が読んだことがないから確かなことは言えないけれども、まぁ普通に浦島太郎の竜宮城は元々インドの文化でしかないのだろうと思う。

 

・追記

竜宮で経典を貰ったという話は549年から623年を生きた、隋の時代の嘉祥大師吉蔵が著わした『浄名玄論』が出典であるらしい。

 

実際のその事が言及されている論文でその引用を僕は見たけれども、書き下し文どころか素の漢文だったので、んまぁそう。

 

「問。華厳一部、何故文無立名。 答。此経凡有十万偶、伝訳未尽。立名当在後也。至長安、見僧曇 法師従干闘還。於彼処、見竜樹伝云、華厳凡有三本、大本有三千 大千世界微塵偶一四天下微塵品、中本有四十九万八千八百偶一千 二百品、此二本並在竜宮、竜樹不諦出也。唯諦下本十万偶三十六 品。此土唯有三万六千偶三十四品。故知華厳名数在後分矢。菩提 流支云、仏滅度後六百年、竜樹従海宮持出也。(大正蔵三八・八 六三中)

(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/33/2/33_2_500/_pdf/-char/jaより)」

 

とにかく、『華厳経』の一部を龍樹っておっさんが竜宮で得て持ち出したという話があるらしい。

 

嘘くさいというか伝説めいた逸話だなと思いました。(小学生並みの感想)

 

追記以上。

 

加えて、姥捨て山もインド由来である可能性があるという話がある。

 

そもそも、日本にある姥捨て山の物語は、昭和に映画化もされた『楢山節考』という小説が元であって、あくまで元は小説で、実際に姥捨てが確認されたという事例は存在していないと僕は聞いている。

 

考えてみればそもそも、日本は何処までも儒教文化圏でしかないというのに、老人を粗略に扱うという文化は日本の文化と合致していない。

 

実際に老人が山に捨てられるどころか、長寿の記念に藩主がその老人が住む家に祝いを送ったりという記録が残っているのだから、日本において老人は捨てられてきたという歴史はないのだろうと思う。

 

一方でインドには老人を山や森に捨てるという文化が存在しているらしい。

 

インドには四住期という概念があって、青年期などの人生の区分があって、その区分ごとにふさわし生き方という指標のようなものが存在している。

 

四住期は種々のテキストで度々言及があって『ヤージュニャヴァルキア法典』や『シュヴェーター・シュヴァタラ・ウパニシャッド』(憎悪)などで僕はその記述に出会っている。

 

その四住期なのだけれど、最後の老人期になると、老人たちはバラモン教の修行として、森や奥地に捨て置かれたということがあるらしい。

 

まぁ若い頃は勉強しなきゃいけないし、壮年期は家族を養わなければいけないから、老人になって初めて修行を始められるという話なのだけれど、その修行先が山奥とか森林の奥地で人と会わないような場所であるということを考えると、姥捨てという発想はインドにその大元があるのかもしれない。

 

もっとも、赤ずきんで少女がおばあちゃんに会いに行くという話があって、あのおばあちゃんは口減らしとして森の中に住んでいるという話もあって、ヨーロッパ世界にも姥捨てという発想があるのかもしれないから、必ずしもインドが由来とは言えないのだけれど。

 

…どうでも良いのだけれど、某漫画の解説のためにユングの錬金術辞典の記述を読んでいたら、人生を四つの区分に分ける云々と言う話が書いてあった。

 

あれ…元はインドの四住期の話でしかないんだろうなと思う。

 

ユングおじさんがどんな妄想を著書に書き散らしたかは興味はないけれど、やっぱり、インドの影響は滅茶苦茶強いんだろうなと思った。

 

そんな感じです。

 

では。