『ヴァンデミエールの翼』作中の錬金術記号について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

書いていくことにする。

 

ヴァンデと錬金術についてという表題だけれども、実際の所、この記事で言及する内容はヴァンデの「ブリュメールの悪戯」の細かい話についてになる。

 

(鬼頭莫宏『ヴァンデミエールの翼』2巻p.3)

 

以前僕は、『ヴァンデミエールの翼』についての解説を書いたけれど、今の僕ならあれよりもより確かな、またはよりねっとりとした解説を書けるよなと思う時がある。

 

ただ、そんなことをしたところで僕に大した利益はないし、そもそも、昔書いた漫画の解説などは全部非公開にしたいと思っているくらいで、読み返す胆力すら僕は持ち合わせていないから、そういうことはしないでそのまま放置しているという部分がある。

 

なのだけれど、今回、この「ブリュメールの悪戯」についてで新たに分かったことが一つあったので、それを絡めて、この「ブリュメールの悪戯」という短編全体について改めて色々書いていくことにした。

 

この前僕は、twitterでこのような呟きを見つけた。

 

(参考)

 

ヴァンデに出てくる記号が錬金術の記号であるらしい。

 

記号ってのは先に引用したページにもあって、まぁこれとかこれの事ですね。

 

(同上)

 

この二つの記号が錬金術の記号らしい。

 

(https://twitter.com/c_chu_/status/1077144590451335168より)

 

そのツイートを読んで僕は初めて錬金術記号という存在について知ったけれども、ネット上に色々錬金術記号について書かれたページが存在していた。(参考)

 

そのページにはそれぞれの記号が錬金術記号であって、それぞれ蒸留器と水銀のことを意味すると言及されている。

 

 

この記号は実際、「ブリュメールの悪戯」の作中でも登場している。

 

(2巻p.40)

 

ここでブリュメールの座る椅子と、その下の絨毯にそれらの記号が描かれている。

 

これらの記号は何て入力したら変換できるのかは分からないのだけれど、パソコンの入力に対応していて、🝭とか☿といった形で文字として扱うことが出来る。

 

ちなみに今使った二つの記号はWikipediaの錬金術記号のページからコピペしています。(参考)

 

こういう風にあの記号が錬金術に由来すると分かったので、この記事ではそれに関連して「ブリュメールの悪戯」について色々書いていく。

 

実際、🝭という記号が蒸留器で、☿が水銀ということは先の方が仰っていた通りで良いと思うのだけれど、ブリュメールの精神が解き放されて分離した物語についての暗示であるということや、水銀が「生命の力」であり、「万物の普遍的な霊」であることを意味しているという事柄についてはおそらくそうではないだろうと僕は判断している。

 

特に後者の「生命の力」云々については、「ブリュメールの悪戯」においてブリュメールは肉人形になってしまっていて、生命を失った肉塊のような存在になってしまったのだから、少なくとも錬金術記号の水銀であることはそうであっても、生命力を意味しているということはないと思う。

 

(同上p.40)

 

ブリュメールは中身がなくなったもぬけの殻なのであって、そのブリュメールが座る椅子の下にある絨毯に生命の力を意味する記号があるというのは道理に適った判断だとは個人的に思えない。

 

そもそも、「ブリュメールの悪戯」というエピソードについてなのだけれど、僕は個人的にこの話は『新世紀エヴァンゲリオン』に由来していると考えている。

 

鬼頭先生がエヴァが大好きなのは知れた話で、エヴァには「あんたバカァ?」という有名なセリフがあるけれど、『なるたる』において主人公のシイナがそのセリフを使っていて、そのようにパロディを用いるほどに鬼頭先生はエヴァを好んでいる。

 

(鬼頭莫宏『なるたる』1巻p.25)

 

インタビューの中で鬼頭先生自身がエヴァについて言及しているものもいくつかあるし、実際、鬼頭先生は劇場版の新劇のヱヴァの方で、敵性存在のキャラクターデザインをしたりしている。

 

そして、その『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の中に、「ブリュメールの悪戯」のような話が存在しているから、僕はそれを『ブリュメールの悪戯』の材料の一つだと判断している。

 

まぁ実際、エヴァにその話があるというよりも、エヴァの主題歌である『残酷な天使のテーゼ』の中にという話なのだけれど。

 

『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌である『残酷な天使のテーゼ』という曲は、愛情深く、そして独占欲の強い母親の気持ちを歌った曲で、その中で我が子が自分の手から離れて行ってしまうということを嫌って、自分の手の届くところにいつまでも置いておきたいと述懐するような歌詞が存在している。

 

まぁそこのところは実際聞いてみれば分かるかもしれない。

 

 

実際、鬼頭先生はこの歌に強く影響を受けているようで、愛する我が子を手放したくないというモチーフは鬼頭先生の作品の中では頻出で、把握している限り4回その話が登場している。

 

まず、『なるたる』のシイナの母親である美園は実生なんて長女に名前を付けてしまった故に結実して遠くに行ってしまったから、そうなって欲しくなくて次女には結実しなかった実という意味の秕という名前を与えている。

 

(『なるたる』12巻pp.161-162)

 

まぁこのことについては僕は『残酷な天使のテーゼ』が由来だと考えているし、このようなモチーフは『なるたる』に限定されているものでもない。

 

鬼頭先生は同人誌で『マジシャン』という漫画を描いているけれども、この漫画は可愛い娘を手放したくない父親が、娘の歯を気付かれないように赤くマジックで塗って、娘がそれを恥て笑わないように仕向けたけれども、失敗するという話になっている。

 


(『赤い牙』pp.31-34)
 

個人的にどんだけ娘手放したくないんだよ…と思うけれども、そうというよりは『残酷な天使のテーゼ』が大好きで、その事が作品に反映されているだけなのだろうと思う。

 

そのような我が子を手放したくないという話は『ヴァンデミエールの翼』にもあって、「フリュクティドールの胞衣」もそういう話になっている。

 

(『ヴァンデミエールの翼』1巻pp.162-163)

 

愛するこの子を手放したくはないけれど、手放さない限りこの子は大人になれなくて、ミルトンを愛するが故にフリュクティドールは去って行かなければならなかったという話になる。

 

我が子を手放すということに煩悶するというモチーフはおそらくは『残酷な天使のテーゼ』が由来で、「ブリュメールの悪戯」に関しても同じように『残酷な天使のテーゼ』が由来の物語であると僕は考えている。

 

この曲には「世界中の時を止めて、(この子のことを)閉じ込めたいけど」という歌詞がある。

 

「ブリュメールの悪戯」は歌のように願望で留まらず、実際に娘のことを閉じ込めてしまった物語なのではないかと僕は思う。

 

 

(『ヴァンデミエールの翼』2巻pp.40-42)

 

まぁこれらの描写は『残酷な天使のテーゼ』が由来で、父親である牧師の男性は時を止めて閉じ込めるということを、娘についてで望んでいたのではないかと述懐しているということで良いのではないかと思う。

 

実際、その事は本編中で猿臂男が言及している。

 

(同上pp.27-28)

 

結局の所、ガラスの中で保存された幼少期というモチーフであって、そうとすると蒸留されて分離された暗喩であるというのは少しズレがあるのではないかと思う。

 

鬼頭先生の中でのイメージはおそらく、フラスコの中の小人というかなんというか、ガラス瓶に保存された妖精のようなもので、ヴァンデの挿絵の中にそのようなイラストが存在している。

 

(『ヴァンデミエールの翼』2巻p.133)

 

これとかまんま、フラスコの中の小人(ホムンクルス)を描いているということで良いと思うけれども、見た感じフラスコではないし、おそらくこれも蒸留器だろうと思う。

 

だから、おそらくは鬼頭先生のイメージとしてはガラス瓶の中に時を止めて閉じ込めているモチーフであって、蒸留というニュアンスはそこまで存在していないだろうと僕は判断している。

 

じゃあ何でフラスコやビーカーやガラス瓶ではなくて、蒸留器を意味する🝭という記号を使っているのかという話になるのだけれど、このことは単純な話で、錬金術記号の中で、ガラスの容器を意味する記号が蒸留器の🝭しかない。

 

多分、フラスコやビーカー、ガラス瓶の記号があったら普通にそれが用いられていたと思う。

 

とはいえ、ブリュメールの精神はあのヴァンデミエールに奪われて、ブリュメールの肉体は時を止めて父親の手の中に閉じ込められているのだから、そういう蒸留という企図もあったりなかったりもするのかなと思う。

 

蒸留器の記号の方はそれで良いとしても、問題は水銀の記号についてになる。

 

(同上p.40)

 

蒸留器の錬金術記号が書かれた椅子の下に水銀の記号があって、先の錬金術記号だと見出した方は生命力云々と言っていたけれど、ブリュメールに命の息吹は存在していない。

 

先の方は水銀のことを「プリマ・マテリア(永遠の女性)」としたけれども、プリマは第一のという意味で、マテリアは物質という意味だから、第一の物質という意味になって、そこに女性のニュアンスはないし、このプリマ・マテリアは水銀と関連付けられていない。

 

ここで言うマテリアはアリストテレスの文脈での質料(参考)のことで、プリマ・マテリアには第一質料という日本語訳があって、これは火、水、土、空気などの元素のことだから(参考)、そこに女性的なニュアンスも水銀の文脈も存在していない。

 

まぁ女性のニュアンスがないのは古代ギリシアのアリストテレスの時点の話であって、長い歴史の何処かの時点で女性の文脈が生じたかもしれないし、僕が見つけられなかっただけで、錬金術の中で水銀を女性性と関連付けるそれもあるのかもしれないけれども、そもそもブリュメールは少女としてガラス瓶に閉じ込めたという話だろうから、「永遠の女性」で「永遠の少女」ではない時点で、何処かにボタンの掛け違いが存在しているという理解で良いと思う。

 

だからおそらくプリマ・マテリアなどの文脈とは違う意味なのだろうと僕は考えたのだけれど、ネットで水銀に関する錬金術の言及を調べてもロクに得られたものはなかった。

 

鬼頭先生の初期中期の作品でこのように元ネタが分からない描写が存在しているときは、大体、『神話・伝承辞典』を開けば載っているものだから、僕はこの本を舌打ちしながら確かめたのだけれど、水銀に関する記述は存在していなかった。

 

錬金術の項を確かめても「ブリュメールの悪戯」に関連付けられるような言及は存在していなかったし、他のありとあらゆる可能性を考慮して思いつく限りの項を確かめたけれども、やはり何も得られなかった。

 

そもそも、この『神話・伝承辞典』には錬金術に関する記述は多くなくて、更に鬼頭先生の作品に影響を与えてるだろうようなそれは今の所確認できていない。

 

だから錬金術に関する知識は他の所に出典があるのだろうと思うし、そもそも錬金術関連については他の資料があるのだろうとは前々から考えている。

 

鬼頭先生が錬金術の知識をそれなりに持っていることは数年前から既に分かっていて、その話はシイナのシャツについて言及した時にしている。(参考)

 

『なるたる』の主人公であるシイナが時々着ているシャツには「Quod est superius est sicut id quod est inferius」と書かれていて、この文章は『エメラルド・タブレット』という錬金術に関するテキストの一部だと既に分かっていて(参考)、鬼頭先生は錬金術に関しての言及がある何らかの本を読んでいるということは前々から理解している。

 

神話学というのは錬金術と結構親和性のある学問であって、神話学の重要な人物であるユングは自著の中で錬金術の話もしているらしい。

 

まぁユングの場合は錬金術とかより遥かにインド哲学の影響が大きいだろうけれど、今回は関係ないのでどうでもよろしい。

 

だから、鬼頭先生が『ヴァンデミエールの翼』などを描く前に読んだ神話関係の本の中にそういう風な錬金術についての言及があって、そういうルートで鬼頭先生の作品の中に錬金術の話があるのだと思う。

 

結局の所、鬼頭先生が参考にした資料がどんなものかが分からない限り、鬼頭先生が水銀の錬金術記号に込めたニュアンスは分からない。

 

そういうこともあるし、いくら調べても水銀についての錬金術の見解の中で「ブリュメールの悪戯」に関連付けられるような何かを見つけられなかったから何とも言えないのだけれど、もしかしたらの可能性として一つ挙げておく。

 

錬金術記号の水銀のマークは♀のマークに角が生えたようなそれになっている。

 

(http://tco.zero-yen.com/text/rep_001.htmlより)

 

普通に生きていたら♀のマークは知っていても☿という水銀のマークは知らないのだから、この図案を見たところで水銀を想起したりせずに、角の生えた女の子というイメージを抱くのではないかと思う。

 

角が生えているとなると悪魔であって、悪魔の女の子というと小悪魔という感じだろうか。

 

実際、ブリュメールは小悪魔のような女の子であって、ヴァンデミエールのことを虐めているし、小悪魔のような悪戯をするような女の子になる。

 

(2巻pp.16-18)

 

現状だと水銀と「ブリュメールの悪戯」を関連付けられるような情報を見つけられていないから、そうとするとあの記号は「蒸留器の中に保存された小悪魔」というニュアンスが一番近いのではないかなと思う。

 

(同上)

 

現状だとそのような理解だけれども、今後、錬金術についてで新たに分かったことが出てくればその理解は変わるかもしれない。

 

…まぁ絶対に錬金術についてなんて調べないけれど。(鋼鉄の意思)

 

そもそも、水銀の少女なんて違う何かの事しか想起しないんだよなぁ。

 

結局あれも永遠の少女なわけだし。

 

さて。

 

二つの錬金術記号の話が終わったので、それに関連してヴァンデ全体の錬金術の話や「ブリュメールの悪戯」の細かい話を書いていく。

 

あの二つの記号が錬金術記号だと知ったから、ヴァンデの他のシーンに錬金術に関連する描写がないかと読み直したけれど、錬金術記号は見つけられなかったし、錬金術に由来するだろう描写も見つけられなかった。

 

まぁ僕は錬金術を知らないので、あってもそれと気づかないだけなのかもしれないけれども。

 

次に、「ブリュメールの悪戯」という物語についてなのだけれど、これは普通に、『ドラえもん』が由来の物語ということで良いと思う。

 

『ドラえもん』には影借りというエピソードが存在していて、"かげばさみ"という影を切り離す道具を使ってのび太が自分の身代わりとして仕事をさせていたけれども、いつしか影が知恵をもって本体と入れ替わろうと画策するような物語が実際ある。(参考)

 

昔の僕はこれが由来だろうとは言及しなかったけれども、色々僕の方でも考えが変わってきていて、普通に「ブリュメールの悪戯」はこの「かげがり」のエピソードが由来だろうと考えるに至っている。

 

実際、この「かげがり」に出てくる"かげばさみ"は『ワンピース』でゲッコー・モリアが影を切り取る描写の由来だろうから、漫画家さんは結構『ドラえもん』由来の描写を作中に織り込んでいる。

 

『ジョジョの奇妙な冒険』にも『ドラえもん』由来の描写は結構あって、スタンドの中にひみつ道具が由来であろうそれがかなり多く存在している。

 

特にC-MOONとか、僕は初見で「ドラえもんかな?」と思ったし、他のも『ドラえもん』由来が沢山あって、そのようなものはググれば沢山出てくると思う。(確かめはしない)

 

次に、「ブリュメールの悪戯」ではなんだか難しい言葉が意図的に使われている。

 

ただ、それを読む限り、鬼頭先生はあんまり意味を分かって使ってはいないんだろうなと思う。

 

(2巻p.28)

 

ここで「愚直に綸言拝しておればよいものを」と言っていて、綸言という言葉を使っているけれども、それに際してをわざわざ欄外でその難しい言葉の言葉の説明を入れている。

 

…意味分かってないんだから無理に難しい言葉を使う必要はないと思うんだよなぁ。

 

欄外には綸言は天子の言葉のことだと書いてあるけれども、鬼頭先生は中国の文化のことをあまり理解せずにこの言葉を使っているらしい。

 

ヴァンデでは創造主はイコールで神であって、先のセリフはその神の尊いお言葉に従っていればいいものをというニュアンスになる。

 

綸言は天子の言葉だけれど、天子がどんな存在かと言えば、別に神の事ではないし、神よりワンランク下の存在で、神に仕える人物のことを言っている。

 

中国の場合、天という概念があって、この天は分かりやすく言うと天の神様のことになる。

 

福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言へり」と『学問の勧め』で言及したけれども、ここで言う天は天の神様の事であって、天子はその天に仕える時の皇帝のことを言っている。

 

古代中国だと天子は周という国の王様のことで、その周の初代は文王という人物になって、その文王の言葉が綸言になるのだけれど、『詩経』の大雅の「文王乃什」では、天の神様が周の王に命じて殷を滅ぼさせたと言及がある。

 

「 大いなる天命が文王に降って、前代の殷の子孫達は、尽く周の臣下となり、文王に帰属することになった。(中略)殷の子孫たる人民たちは、その人数はただに一億くらいだけではなく、もっと多いのであるが。その多い殷の士民を、上帝は既に命じて、残らず周に帰属させることとなった。(高田眞治訳『漢詩大系2 詩經 下』 集英社 1968年 p.325)」

 

上帝というのは天の神様のことで、天の神様が命じたことによって、周は殷を配下に置くことになったと言及されている。

 

…。

 

(中略)の所には、「文王は天子とはならなかったが、文王の時に既に天下に王たる天命を受けていた。(同上)」と言及されていて、まぁ実際、殷を滅ぼしたのは文王の次男である武王だから、武王の時に殷は滅ぼされたとはいえ、その父親たる文王の時には既に天命は降っていたという詩歌になるのだけれど、説明が面倒なので(中略)にした。

 

それはともかく、天子というのは天の命令を受ける立場の人物のことで天の神様の事ではないし、綸言はその天子の言葉のことであって、天の神様の言葉ではない。

 

神の下につく法王みたいな人物の言葉が綸言なのであって、神の言葉のことを綸言と呼んだりはしない。

 

エジプトとかアステカだと王や皇帝=神なのだけれど、中国の場合はそうではなくて、綸言はあくまで天の臣下である天子の言葉なのだから、鬼頭先生は少し誤解をしている様子がある。

 

鬼頭先生はあまり、儒教について詳しくない様子がある。

 

という「ブリュメールの悪戯」についての記事。

 

やりたい放題だな。

 

まぁいいや。

 

では。