その稚さを煌びやかさで誤魔化して | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回はtwitterで呟いたようなものの再利用。

 

本当は…とある漫画についての記事を書くことを予定しているのだけれど、僕の体力が覚束ないので場繋ぎ的にこういう記事を書いていく。

 

まぁとにかくやっていく。

 

・所有という概念について

哲学者であるラッセルは東南アジアに訪れた船乗りの所有物が良く盗まれたことに関して、彼らは所有という概念を持っていなかったのだろうと確か『結婚論』で言及していたけれども、実際は「こいつらからなら盗んでも良いだろう」と思って盗んでただけだと思う。

海岸に落ちている流木を拾うということは普通道徳的な悪ではなくて、そのような軽い感覚で訪れた西欧人のものを盗んでただけだと思う。実際、日本に訪れた西欧人の記録の中にも確か、日本人はよく物を盗むという話があったと思う。

おそらく彼らとて自身の所属する集団ではそこまで盗みは働かなかっただろうという推論があって、訪れた部外者の物を勝手に持って帰ることが道徳的な悪であるという感覚がなかっただけだと思う。

そういう法律があると知らなければ、海岸に居るウニとかアワビとか勝手に持って帰るということが悪だと自覚できないように、自分の仲間の内にない存在の物を勝手に持って帰るということが悪だという認識がなかったのだと思う。

 

以上。

 

哲学のおっさんであるバードランド・ラッセルの『結婚論』という本を読んでいたら、東南アジアの所謂未開の地域の人々は所有という概念がなく、航海で訪れた西洋人の所持品が良く盗難されたという話が確かあった。

 

そのような話はアメリカの先住民の中にもあって、所有という概念は文明の産物であるという発想があって、そのような文明を持っていない"未開な"人々の間では財産の所有という発想がなかったという議論を時々見ることがある。

 

僕はその話について甚だ懐疑的で、僕は古代世界のテキストを人よりは多く読んでいるけれど、そのように財産という概念を持っていなかったとは判断できなくて、古代インド人と古代中国人は財産という発想を持っている。

 

インドの場合は、何度も引用しているこの記述でその事を理解することが出来る。

 

「ガウタマは言った――「お前は、わたしに、この願い事を与えることを約束した。お前がわたしの息子の面前で語った言葉、それを私に語れ!」と。

 彼は言った――「まことに、それは神の願い事に含まれる。人間の願い事に含まれる一つの願い事を語れ!」と。

 ガウタマは言った――「わたしが黄金、牛馬、女奴隷、毛皮、衣服の分け前を有すことは、良く知られている。あなたは豊富なもの、無限なもの、限りないものを与えることに関してはけちらないように!」と。

(湯田豊訳『ウパニシャッド 翻訳および解説』「ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド」大東出版社 2002年 p.150)」

 

これは紀元前5~6世紀ごろに書かれたテキストだと解題には書いてあったけれど、今から2000年以上前のインド人は所有という概念を持っていて、財産があって、それを与えたり与えられたりしているということが分かる。

 

実際、原始仏典を読んでいても、財産についての言及は度々あって、確か小部経典の『クッダカ・パータ』に、仏教教団に寄付するということを越える蓄財など存在していないという話が載っていたと思う。

 

インドではそのように所有という概念がある様子があるけれど、古代中国とてその事情には大差がない。

 

「(説客の范雎から王を凌ぐ権力者が国内にいる場合、いつしか王は除かれるという話を聞いた)昭王は、これを聞いて大いに恐れ、その進言をいれて、太后を廃し、穣候・華候・涇陽君を函谷関外に追放し、范雎を拝して宰相とした。穣候の封印を取り上げて陶に帰らせるため、県の役人に命じて車と牛とを用意し、穣候に従わせたところ、車千乗をつらねて函谷関に着き、関の役人が調べると、宝器・珍品の多いこと、王室をしのぐほどであった。(司馬遷『世界文学大系 5B 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.107 ()内引用者補足)」

 

まぁこの場面については漫画版を見た方が分かりやすいかもしれない。

 

(横山光輝『史記』5巻pp.207-210)

 

…画像用意した後に、わざわざ引用するまでもなかったなと思った。(小学生並みの感想)

 

インドと中国では地理的な隔絶のために大変に文化が違っていて、それなのに同じように所有という概念があるところを見ると、未開の人々に所有という概念がないという発想はにわかに信じがたい話になる。

 

ラッセルは東南アジアについてでそのような話をしていたけれども、どうやらアメリカの先住民との接触の中でも彼らは所有という概念がないという話があるらしくて、インドと中国以上に地理的に隔絶されたアメリカと東南アジアとでそのような話があるところを見ると、記録者である西洋人の認識の方に誤りがあるのではないかと思う。

 

所謂"未開な"人々は文明がなくて、それが故に所有という概念がないという話らしいけれども、交易というものは古今東西どの地域でも行っていて、東南アジアの神話の中には中国の陶磁器が宝物として出てくるものもあるし、南北アメリカ大陸にしても別に交易は行われていたはずで、未開だから所有という概念がないというのは少し変な話になる。

 

古代日本の縄文時代でも交易は行われていて、伊豆諸島の神津島でしか産出されない黒曜石が本土で発見されていて、それによって縄文人はそれなりに高度な航海技術を持っていて且つ、それを使って交易を行っていたということが分かっている。

 

縄文人でさえ交易をしていたわけであって、東南アジアには中華の商人が訪れていたし、そうであるならば物品のやり取りは必然的にあったはずで、それなのに所有という発想がないというの理解しがたい。

 

その事についてなのだけれど、記録者である西洋人が当地の文化について詳しく知らなかったが故の誤解であったり、現地の人にしてみれば"別にもらって良いだろう"という感覚で拾って帰っていたという可能性がある。

 

僕らとしてもそういう法律があると知らなければ普通に手で採れる海産物は持ち帰ってしまうだろうし、野山に交じって山菜を取る習慣があって且つ、土地の所持者に許可を取らなければ取ってはいけないという発想がない場合、平然と山菜を取って帰るようなものだと思う。

 

だから、ラッセルらが報告した所有に関しての話は単純に、異邦人の持ち物を取ってはいけないという認識が当地にはなかったからそうなっているだけで、同じ仲間同士では財産の贈与や受領があって、奪ってはいけない物品や、逆に誰でも使える物品についての認識は存在していて、けれども、その話を西洋人の報告者が知らなかったが故に、未開の人々は所有という概念がないという発想が存在していたのかもしれないと僕は思う。

 

どのような接触があったのかは把握していないけれど、手土産でちょっとした物品を贈与したとしたら、「こいつはただで物をくれる存在だ」と認識してもおかしくはなくて、そいつらから現地人はただで物を貰って帰っただけかもしれない。

 

結局、そのような記録は西洋的なバイアスが多分にかかっていて、その情報の客観性はあまりなく、信用できるかどうかと言えば甚だ怪しい類のものになる。

 

そういう事情があるから僕は現地の人々が書いた原典訳のテキストを頼ることが多くて、西洋人が聞き集めた神話についての話などは信用に値しないと考えている。

 

だから先に言及した東南アジアの神話の中で陶磁器が出てくる話もあまり信用はしていないのだけれど、まぁ、その聞き取りをした時に陶磁器が価値のあるものであったというのはそうだろうので、その話はすることにした。

 

…所有に関してはもう一つ、彼らが侵略者ということも重要な判断材料で、彼らが略奪と収奪を行うためのロジックとして彼ら未開人はそれらを所有していないから、我々が所有したと示すことによって権利を獲得したと主張したという部分もあると思う。

 

西洋の法だと権利についての議論が多くあるけれど、古代中国の場合は法についてのテキストでも結局の所、統治論のようなものが多くて、西洋法に見られるような権利についての議論は今のところ出会っていない。

 

そのような所有に関する文化的な伝統が西洋世界では強くて、それが故に未開の地域では所有という発想がない云々と言っている部分もあるのだろうと思う。

 

未だにそういう人はいるけれど、昔はヨーロッパ世界が最も優れていて、文化も一番優れているし、人種としても最も優れているという認識があったらしく、その文化に存在しないものは全て劣ったものだと判断されていた様子がある。

 

そして、その事については未だにそうである部分が多くて、ポリティカルコレクトとかはまぁ、そういう話だよなと思う。

 

次の話もそういう関連です。

 

・童女、童女、つr(ry)

ヨーロッパやアメリカだと小児性愛者の扱いが顕に悪くて、時にはそのような人物を殺害したとしても罪に問われなかったりもするけれども、そのように小児性愛を悪にするのは西洋的な文化でしかないんだよな。

 

インドでは一桁台の少女が嫁に出るという文化がかつて存在していたし、縄文時代の遺跡から十代前半の妊婦の遺骨が出土しているし、ムハンマドが9歳児を娶ったという話もあるし、小児性愛が悪であるという文化はけして普遍的ではない。

 

結局の所、そのようなものを悪とするのは西洋的な文化であるという以上のことはなくて、その国でそうである分にはいくらでもそうしていいと思うけれど、そのような発想を文化の違う他国に押し付けてくるのは西洋的な傲慢さだよなと思う。

 

以上。

 

この間、小児性愛者で性犯罪による逮捕歴がある人物が幼児が集まる施設を設けて、彼が小児性愛者であると知った人物が子供を守るために彼を殺して、結果、殺した人物は無罪判決を受けたというニュースが流れた。

 

そのように小児性愛者を絶対的な悪だと判断する価値判断がアメリカなどにあって、現在日本でも小児性愛者を対象にしたコンテンツは規制されまくっていて、そのようなものを単純所持するだけで逮捕されるような法律まで存在している。

 

けれども、1990年代辺りまではそのような規制は存在していなかったらしくて、僕も知らなかったのだけれど、その時代には女児のヌード写真集が普通に本屋に売っていたし、女児の裸体が映ったビデオが当然の権利のように販売されていたらしい。

 

今だとそういうのを何らかの方法で入手しただけで書類送検をされてしまうわけであって、少し前に有名漫画家が一人、購入したことによって実名で報道されていた。

 

結局、今現在の日本でそうなっているのはグローバリズムというかなんというか、西洋的な文化圧力のせいでしかないよなと思う。

 

じゃあそのようなものが普遍的な悪であるかと言えばそうではなくて、インドでは幼女が尊ばれたという時期が存在しているらしい。

 

その話は『ヴェーダ学論集』で言及されている。

 

インドには結婚について書かれたテキストがいくらかあって、それはGrhyasutra(グリヒヤ・スートラ、結婚経)と呼ばれていて、なんだか18種類くらいあるらしいけれども、それについてインド哲学の研究者である辻がまとめた論文があって、そこにインドの結婚事情についての話がある。

 

文中で出てくるGS.とかいうのは本の名前です。

 

「 新婦の年齢に関しては具体的な数字を挙げず、多くのGS.はただnāgnikāという語によってこれを示している。nāgnikāとはまだ月経を見ない少女を指し、すでに成熟した女子はanāgnikāと呼ばれる。新婦がanāgnikāであることを要求しているのはJ.(I.20:p.19.11,cf.GSg.ⅠⅠ.17,v.infra)のみであるが、他のsūtrakāraもおそらくnāgnikāによってまさに成熟期に入らんとする少女を意味し、処女性を強調したにすぎず、両者の相違は事実上きわめて僅少であったものと思われる。インドの少女が早熟であるとはいえ、古代における婚期を12歳以下と考える必要はない。従ってGS.は真の幼児結婚を規定せず、文学作品の事例は常に青年男女を予定していた。真の幼児結婚は5.cent.以後のSmṛti文献にいたって始めて推奨され、近代にいたるまで弊害を残した。ローマにおいても法律家は女子12歳、男子14歳を最低限度としていたが、幼児結婚の弊風はここに起こったという。必ずしもインドのみを責めることはできない。(辻 直四郎『ヴェーダ学論集』岩波書店 1977年 p.298)」

 

…引用してて思ったのだけれど、ローマでも幼女は結婚対象だったんだな。

 

記憶が正しければローマ時代のギリシア人であるプルタルコスの『愛をめぐる対話』の中で、十代前半の少女を娶るという振る舞いについての言及があったような気がする。

 

 

 

ともかく、5世紀以後のインドでは初潮前の幼女が嫁に出されていたという歴史的経緯があったらしい。

 

原始仏典の注釈にもその話があって、なんだか僕はそのページを写真に撮っていて、それが残っているのだけれど、どの仏典の注釈なのかが分からなくて、出典を書けないんだよなぁ…。

 

 

多分、『ダンマパダ』(岩波文庫では『ブッダの真理の言葉・感興の言葉』)だとは思うのだけれど、このページを探し出して出典をつけるという作業は苦行で得るものも少ないから、その作業はしないでおく。

 

なんか、インドだと童女が最も尊ばれたらしいっすよ?(適当)

 

・追記

文中のイシダーシーという名前でググってみたら、この本が『テーリーガーター』(岩波文庫では『尼僧の告白』)であるということが分かった。

 

 

先の文章を書いたとき、『テーリーガーター』 か『ダンマパダ』かで迷ったのだけれど、実際のところは『テーリーガーター』の方だった。

 

…女性についての話だから『テーリーガーター』である可能性が高いとは思っていたのだけれど、何故かこの記事を書いたときの僕は違うテキストの名前を挙げていた。

 

この『テーリーガーター』は仏教教団に所属した女性信者の告白録で、内容的に面白いところはあんまりなくて、塾や予備校が出すチラシに書かれた合格体験談の質の悪いものを読んでいるような印象のテキストになる。

 

男の仏教徒の告白録である『テーラガーター』は修行の話とか戒律の話とかがあって面白い部分もあるのだけれど、『テーリーガーター』は…あれ…一体何なんですかね…。

 

"能"がある女性は結婚出来て出家する必要がないから、仏教教団に所属した女性に高い能力を持った人材が集まらなかったのかもしれない。

 

・追記2

古代インドの『マヌ法典』に以下の記述がある。

 

「九・九十四 〔男は〕三十歳になったときに好ましい十二歳の娘を、あるいは二十四歳の時に八歳の娘を娶るべし。〔結婚を遅らせることによって、創造主によって定められた〕生き方〔ダルマ〕が衰退するときは直ちに〔娶るべし〕。(渡瀬信之訳『マヌ法典』中央文庫 1991年 p.304)」

 

紀元後二世紀にローマ時代のギリシア人であるアッリアノスが書いた『インド誌』を読んでいたらその話がされていて、注釈で『マヌ法典』の9・94に書いてあると言及されていたので、その記述を持ってきた。

 

『マヌ法典』の成立時期は紀元前後二世紀でいつ書かれたのか良く分からないけれども、アッリアノスの生きた時代にはそういう文化は既にあったらしい。

 

追記以上。

 

インドではそんな感じだけれども、中東でも幼児を娶ったという話はあって、ムハンマドが当時9歳であったアイーシャを娶ったという逸話についても、あの辺りの地域の文化的伝統として、処女を重要視する話があって、その延長線上にそのエピソードはあると思う。

 

『コーラン』を僕は少しだけ読んだことがあるけれども、空から12人の処女が降ってきて、その女性は性行為をしてもまた処女に戻るとかいう良く分かんない話が確か書いてあったよ。

 

古代中国だと童女や幼女についての言及は特に覚えがなくて、唯一、中国最古の医学書である『五十二病方』の中で、初潮の下着を薬として使うという記述があったくらいだから、あんまりそういう文化はなかった様子がある。

 

 

 

 

処女を重要視するのも中東の文化のようで、中国の場合、処女についての言及は『孫子』の「始めは処女の如く、後は脱兎の如し」という記述程度しか記憶にない。

 

古代中国では大して処女性は重要視されていなかったが故に、あまり幼女や童女に関心が強くなかったのかもしれない。

 

儒教の聖典である『礼記』の「昏義」に古代中国の結婚の儀礼についての記述があるのだけれど、確か新婦の年齢についての言及は特になかった。

 

一方で少年愛は行われていた様子があって、前にも書いたけれど『史記』という古代中国の歴史書では「佞幸列伝第五十六」という、君主と"そういう関係"だったから取り立てられた人物をピックアップした列伝があって、その冒頭で漢の初代皇帝と二代目皇帝には、寝所を共にする少年が居たと書かれている。

 

以上の事から分かるように、小児性愛を悪とするというのは普遍的な価値観ではなくて、今現在それが悪なのは、西洋的な価値判断が敷衍されただけというのが実情ということで良いと思う。

 

オランダでもそういう映像が売りに出されていたという歴史があるし、ピトケアン島の話(参考)もあるのだから、小児性愛が悪であるという発想は普遍的な価値判断ではない。

 

児童は自由意志が脆弱で、正しい判断が出来ないからとか、児童と性行為する場合児童が傷ついてしまうからとか、色々小児性愛を悪とする言説はあるけれども、児童を傷つけるという振る舞いを糾弾するというのなら、自分たちの国の男児割礼の文化を根絶してからにしてもらいたいと僕は思う。

 

当然、幼児を追いかけまわして泣かすという、なまはげの文化を持っている日本人にもそのことは適応できるのだけれども。

 

そうそう、僕はそういう禁忌は文化でしかないから、小児性愛を解禁すべきだとかそういうことを言っているのではなくて、その価値判断は文化依存だと指摘しているに過ぎない。

 

アステカで太陽が沈まないように生贄の心臓を祭壇で捧げるという振る舞いも僕は文化だとは思うけれど、それが文化であると言ったところで、その事が正しいとか正しくないとかの話はしていない。

 

僕は西洋的な傲慢さが大嫌いで、例えば同性愛でも動物愛護でもそうなのだけれど、手前でそのような文化をあれこれするのは良いのだけれど、その事を啓蒙するように諸外国の人々にそれを強要するという振る舞いが理解出来ないというか受け入れられない。

 

「無知なお前らに文明を教えてやっている」というような傲慢さが見え隠れして、そのような振る舞いがどうしても好きになれない。

 

彼らは自分たちの文化が正しく優れているのは自明であると思っている節があって、けれどもそれは全然自明じゃないよと僕は言っている。

 

元々、哲学者のカントの時代から既にそうなのだけれど、彼らの判断は"自明である"ということが根拠になることが多くて、カントの影響が強い法学のテキストの中にも、"自明である"から正しいというレトリックが存在している。

 

まぁ自分たちが正しいのは自明であるという確信があるからそれを人に押し付けてくるのだろうとは思う。

 

自分たちがやる分には勝手にやってろよと思うけれども、それを押し付けてくる人のことが大嫌いで、僕はその振る舞いをただ傲慢だと判断している。

 

という感じの日記。

 

本来的には古代中国、春秋時代の諸国の話をしようと思って記事を立ち上げたけれども、文字数が規定量を越えたので以上にする。

 

まぁ多少はね。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記
この記事では中国ではロリコンについての記述に覚えがないと言及していたけれども、書いて数日後に中国でも童女を嫁にしたという話が存在しているということを思い出した。


三国時代の張飛が当時13~14歳であった少女を誘拐して、彼女が良家の出身だと分かってそれを嫁にしたという話が存在している。


とはいえ、三国志の話だと、フィクションである『三国志演義』やそれを元にした小説とかが色々あるので、出典の方を確認することにした。


実際、日本でも前田利家が妻の"まつ"を12歳で嫁にしたという話があるのだけれど、その話はいくら調べても出典が不明で、おそらく、ネット上にそのことについての出典の記述は存在していないのだと思う。
 

一応、漫画の『花の慶次』にその話はあるけれど、僕はどれだけ調べてもどんな資料にその話が載っているのかが分からなかった。

 

(原哲夫 隆慶一郎『花の慶次』2巻pp12-13)

 

実際に目を通してみれば分かるのだけれど、日本の家系図だと女性の扱いが酷く軽くて、その存在が言及されていても"女"や"娘"としか家系図上には記載されない。

 

織田信長の妻である斎藤道三の娘についても実際の名前は分かっておらず、濃姫とか帰蝶とかそういう名前で呼ばれるけれど、濃姫は美濃の姫だから濃姫なだけで、帰蝶という名前は江戸時代に書かれた『美濃国諸旧記』という軍紀物を参考にした信頼度の低いテキストに言及があって、一次資料で彼女の名前は確認されていない。

 

信長の妻ですらその扱いなのに、どうして前田利家という、比較的どうでも良い人物の妻の嫁いだ年齢までが分かっているのかが僕には理解不能で、実際に資料を探しても判然としない。

 

どうやら『加賀藩史』に言及があるかもしれないという所までは分かったけれども、素人にはそんなものは読めないので、判然としないという状況で終わっている。

 

だから、張飛がそんな年齢の子供を娶ったという話も半信半疑で、出典を調べることで確かにしようとして、実際確かめたらそういう話は『三国志』の注釈の方に言及されているということが分かった。

 

張飛が攫ってきた女の子は夏侯氏の娘で、夏侯覇という人物がその縁を頼って蜀の国に亡命したという話だから、夏侯覇さんのWikipediaのページを読んでみたら「裴松之が引く『魏略』」とやらに言及があるそうなので、中国語のサイトに行って確かめて、果たしてその記述を見つけた。

 

まぁ見つけた言うても、単純に該当のページ(参考)に行って、F3キーを押して「張飛」と入れただけだけれども。(時霸從妹年十三四,在本郡,出行樵採,為張飛所得。飛知其良家女,遂以為妻)

 

その言及のある『魏略』はどうやら、実際三国時代あたりに書かれたもののようなので、その辺りの時代ではそのような年齢の少女が婚姻の対象として選ばれるということもあったということで良いと思う。

 

中国と数え年だから、実際の年齢は12~13歳になって、現在的な価値観だとどうやってもロリコンなので、そのくらいの時代の中国には現在的な意味でのロリコンが居て、超有名人の張飛はロリコンだったということになると思う。

 

まぁロリコンだから何なんだというか、そのようなものに何か変な印象を抱くという振る舞い自体が現在の文化でしかなくて、僕らのそういった見解の方が偏見でしかないのだけれども。