かごの鳥の女たち | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は娼婦というか公娼について。

 

本来的には古代世界に存在する、世界を構成する五つの元素についての話を書こう書こうと思っていたのだけれど、いざ書き始めたところ冒頭でやる気がなくなって書くのをやめたという出来事が二回あった。

 

その話をするために古代中国の歴史書である『国語』とか『史記』とか『書経』とかの文章が必要で、その文章を持ってくることが怠くて仕方がなかったからね、しょうがないね。

 

それをおっぽり投げて今回やるのが古代中国の娼婦についての話なのだから、自分でも何やってるのかイマイチ分からない。

 

それはさておき、僕は古代世界のテキストをそれなりに読んでいるのだけれど、古代ギリシアと古代インドでは娼婦という職業があるということを確認している。

 

僕はギリシアの本をそれほど読んでいないのだけれど、その読んだ少ないテキストの中に娼婦についての話があったから、古代ギリシアではそれなりにありふれた職業だったのだと思う。

 

僕がギリシアのテキストで娼婦についての記述に出会ったのは、アンティポンという弁論家の『弁論集』で、これは翻訳が西洋古典叢書というシリーズで出ている。

 

ただ、アンティポンさんの本はそれほど現存していないらしくて、この『弁論集』はアンドギデスさんの『弁論集』と抱き合わせ商法で売りに出されている。

 

 

僕は安く売りに出されたから買ったのだけれど、クッソつまんないっすね…。

 

それはさておき、このテキスト中で、情婦として男に飼われていた女性が、愛情を失って娼館に売りに出されそうになったという話が書かれている。

 

その記述から少なくとも古代ギリシアには娼婦という職業は存在していたし、売春宿のような場所があって、そのようなところに売りに出されるということもあったらしいということが分かる。

 

娼婦という職業は一説には世界最古の職業で、その話は『ジョジョの奇妙な冒険』の作者コメントにも言及されていたと思う。

 

なんで世界最古の職業なのかと言えば、まぁ資本がなくても女性であって、よっぽど容姿がアレだったり、歳を重ねてさえいなければ誰でも出来る職業なのであって、金や財産という概念を持っていなくても行うことが出来る商売だから、娼婦という職業が最古のものであるという話なのだろうと思う。

 

とはいえ、僕はその話を甚だ疑わしいと考えている。

 

娼婦が最古の職業であるというのはあくまで推論で、人間における最古の職業などというものは、文献上の記述があるわけでも、遺跡からの出土があるわけでもなくて、そのようなことは誰にも知りえないことである以上、分からない以上の言及は出来ないと僕は思う。

 

人間なんて数十万年、数百万年前から石器や骨器、木製製品を用いているわけであって、原人などがそのようなものを交換材料にして食料を得たということは想定できる話であって、売春がそれより先行しているとはどうやっても言えないと思う。

 

結局、そのような言及は何処かの誰かが言い出した事柄に過ぎなくて、そのことに確かなエビデンスが存在しているわけでも、誰かがそれを証明したということでもなくて、ただ昔の誰かがそう判断して、それが吟味されずに未だに残っているというだけだと思う。

 

実際問題として、僕は古代中国において娼婦についての記述に出会ったことがない。

 

原典訳の古代中国の本、有名どころから出土文献まで、出来る限りの本を少しずつ読み進めているけれど、その中で娼婦についての記述に出会えたことがない。

 

一方で古代インドには娼婦という職業があったということは分かっていて、原始仏典の小部経典の『テーリーガーター』の中に、娼婦出身の尼僧の話が言及されている。

 

なんでも、娼婦の頃は大変に人気があったようで、スターとして栄華を極めたけれども、その後に発心して仏門に入ったとかなんとか。

 

…本来的にお手元の岩波文庫版のその文章をカタカタと書き写すつもりだったのだけれど、ググったら翻訳がネット上にあったので、それを持ってくることにします。

 

訳は悪いけどね。

 

5.2 ヴィマラー長老尼の詩偈
72.(72) 〔自らの〕容貌と形姿と栄光に〔驕慢し〕、そして、名声に驕慢した〔わたし〕は――しかして、〔自らの〕若さに支えられたわたしは――他者たちを軽んじた。
73.(73) 愚者が言い寄る、この身体を、種々様々に飾り立てて、〔わたしは〕娼家の門に立った――罠を仕掛けて〔獲物を待つ〕猟師のように。
74.(74) 密やかに、〔あるいは〕明らかに、多くの飾りものを見せながら、〔わたしは〕様々な種類の幻想“まやかし”を為した――多くの人を嘲笑しつつ。
75.(75) その〔わたし〕は、今日、〔行乞の〕食を歩んで(托鉢して)、剃髪し、大衣を着た者となり、木の根元に坐している――思考なき〔境地〕(無尋)を得る者として。
76.(76) それらが、諸天のものであれ、さらには、それらが、人間たちのものであれ、一切の束縛は断絶された。一切の煩悩を投棄して、〔心が〕冷静と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として、〔世に〕存している。(参考)

 

一応、英語訳を確かめたけれど、娼家の門のところは英語でも娼婦の扉(the door of the harlots)になっていた。

 

ともかく、古代インドには娼婦という職業があるということは確かだと思う。

 

古代ギリシアでも娼婦は確認できているけれども、問題は古代中国で、娼婦という発想自体が僕が読んだテキストの中に存在していない。

 

ないものはないんだからしょうがないのだけれど、古代中国の娼婦についてググったら古代中国には公娼の制度があったと言及している文章を見つけた。

 

・質問 海外の公娼制度について知りたい

 

・回答 『近代日本社会と公娼制度』を見ると、1910-20年代には、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、オーストリアでは娼婦、娼家がそれぞれライセンスを与えられて公認されており、娼婦には性病検査が義務づけられていたが、公娼制度維持国として最も有名なフランスにおいても、1920年代後半から、公娼制度を廃止する市が出てきており、全体としてヨーロッパでは公娼制度廃止、新たな性病対策の樹立といった方向へと進んでいたとの記述がある。同様の内容が『シリーズ遊廓社会2』でも見られる。『慰安婦と戦場の性』では、最古の公娼制度は古代ギリシャの立法者ソロンが創設したとされるが、中国でも周の荘王がほぼ同時期の紀元前685年に似たような制度を作ったとの記述がある。(参考)

 

このような文章があって、これは図書館が寄せられた質問に答えたときのやり取りなのだけれど、なんでも周の荘王が紀元前685年に公娼を作ったと言っている。

 

僕はこれを読んで、「ホンマか?」と素で思った。

 

何故そうと思ったかと言うと、僕は古代中国の歴史書をそれなりに読んでいるけれど、その時代について言及がある『史記』にも『国語』にも『春秋左氏伝』にもそんなことが書いてあった記憶がないからになる。

 

実際、『春秋左氏伝』は親切にも年度ごとにエピソードが並んでいるから、紀元前685年に当たる、魯の荘公9年の記事を改めて読んで確かめたけれど、そんなことは書いてなかった。

 

『史記』にも『春秋左氏伝』にも書いてないとしたら、いったいどんなテキストに書いてあるんだよと本気で疑問に思って、と言うかこの時点でどっかの誰かが適当言ったことが事実のように扱われてるんだろうなと思っていていた。

 

『慰安婦と戦場の性』って本はタイトル的にフェミニストの本だろうし、そういういい加減なことは社会学やフェミニズムでは良くあることだからね、仕方ないね。

 

ともかく、それを確かめるために色々した。

 

まず、引用では『慰安婦と戦場の性』に紀元前685年に古代中国に公娼があったというから、この『慰安婦と戦場の性』を読もうと思ったのだけれど、検索したら近所の公立の図書館に置いてあるということが分かった。

 

なのでさっそく読みに行ったのだけれど、読んでみたら確かに先の引用に書いてあるように、紀元前685年に公娼制度が古代中国にあってそれを荘王が作ったと言及はあるけれど、どんなテキストに書いてあるのかは言及がなかった。

 

幸い、出典に当たるテキストは記載されていて、『性の歴史学』、『売春の社会史』、『世界性風俗じてん』、『戦争と性』等々の本の名前が書いてあった。

 

要するにこの本の何処かに紀元前685年に公娼が設けられたという記述が存在しているはずで、『慰安婦と戦場の性』の著者はそうと言及されている古代中国のテキストを読んだわけではなく、孫引きの形でその事を言及していたらしい。

 

先の図書館のQ&Aは曾孫引きになるのだろうか。

 

それはさておき、参考資料が分かったので、今度はそれを読みに行くことにした。

 

けれども、それらの本は近所の図書館にはおいてなくて、調べたところ10キロ先の大学の図書館には置いてあるそうなので、後日、電車に乗ってそれを調べに僕は行った。

 

もっとも、それは副次的な目的で、メインの目的はまだ読んでない古代中国の出土文献を読むことで、そのついででしかないのだけれど、だからと言ってこのたらい回しに殺意を抱かないかと言えばそんなことはない。

 

大学の図書館に行ってまず、『性の歴史学』から読むのだけれど、それには記載がなかった。

 

次に『売春の社会史』も確かめたけれど、これにも載っていなかった。

 

その次に『世界性風俗じてん』を読んだけれど、果たしてこの本には言及が存在していた。

 

「王書奴の「中国娼妓史」によると、中国に正式な娼家制度が確立したのは、紀元前六八五年、周の荘王十九年であった。(『世界風俗じてん〈3〉性風俗の巻』 三省堂 1976年)」

 

なんか、王書奴さんの『中国娼妓史』にその話が書いてあるらしい。

 

…またたらい回しかぁ、壊れるなぁ。

 

その『中国娼妓史』なのだけれど、その日行った大学の図書館は複数あって、その日に僕が赴いた方の図書館には置いてなったのだけれど、もう片方の図書館には置いてあるということが分かった。

 

まぁその日は行ったのが遅かったし、メインの目的である出土文献の『孫臏兵法』を読んでたら日が暮れてしまったので、後日改めて読みに行くことにした。

 

ちなみに、『孫臏兵法』の方は読んでて悪くはなかったけれど、特にこの場で言及できることもないような内容でした。

 

 

実際、そのようなテキストを読んだところで何か言及できるようなことがある場合はそんなに多くなくて、半分以上のテキストは読んでもそれ以上の何かには発展しない。

 

とにかく、その日はもうそれで帰ったのだけれど、ついこの間またその大学の図書館に行って、王書奴さんの『中国娼妓史』を確かめてきた。

 

ちなみにその日もメインは出土文献を読むことで、睡虎地秦簡のまだ読んでないテキストを読むついででその作業は行った。

 

事前調査で『中国娼妓史』は中国の出版社が出した中国語の本ということは分かっていて、中国語の本なんか読めるか?とも思っていたけれど、公娼の起源についてなのだから、その話は本の最初の方に書いてあるだろうし、目次を見ればなんとなく分かるだろうという楽観的な観測で読みに行くことにした。

 

当日、本を開いてその記述を探す作業をして、何に驚いたかと言えば、気合を入れれば今の僕は中国語の文章の意味を把握できるという現実だった。

 

古代中国の本の書き下し文を読み続けるという作業をした結果、集中力と体力が必要とはいえ、現代中国人が書いた本が多少なりとも読めるようになっていて、あの日僕は自分自身に驚いていた。

 

で、該当の記述を読んできたから、この記事を今僕は書いています。

 

その中国最古の公娼についての記述は『中国娼妓史』のp.30に書いてありましたね…。

 

読んだところどうやら、『戦国策』の「東周策」に"女閭"という言葉でその言及があって、女閭が中国最古の公娼のことであるらしい。

 

…実際の文章は『戦国策』という言及もなしに「東周策」とだけあって、その下に鮑彪の注釈本に依るとだけ書いてあったから、僕があらかじめ『戦国策』がどのように書かれているか知らなかったら、『戦国策』にその言及があるとは理解できない書かかれ方だったんだよなぁ。

 

ともかく、出典は分かったから、あとは古代中国の本の原文が読めるサイトに行って、「女閭」と検索をかければいいわけであって、実際、検索をかけたところ、『戦国策』の「東周策」の《周文君免士工師籍》にその言及があった。

 

実際にその文章の翻訳を引用するけれど、以下の内容が書かれていた。

 

「 周の文君が、宰相の工師籍を罷免して、呂倉を宰相に任命した。ところが、周国の人民は任命を悦ばず、(不評判であったので、) 文君はひどく心配していた。すると、ある男が、(呂倉のため)周の文君に説いて、「一国の政事に、毀誉褒貶は必ず有り勝ちなことです。ただ忠義な臣下がいると、誹謗は一身に引き受けて、称誉は上のものに花を持たせるように心がけます。むかし、宋君(平公)は、農繁期に人民を駆り出して、遊興用の高台をつくり、人民が非難いたしましたが、君の悪事を掩(おお)いかくす忠義な臣下がいませんでした。そこで、子罕(楽毅)が宰相の職を投げ出して建設大臣となりましたので、人民は責任者の子罕を非難して、宋君のことを、よく言うようになりました。また、斉の桓公は(女色を好み、) 宮中に七つの市を設け、各市の門内に(百人ずつ、計) 七百人の宮女を置きましたので、斉国の人民はこれを非難しました。そこで管仲は、(諸国の婚姻にならって) ことさらに、三国から妻を娶って、桓公の非行を掩(おお)いかくし、人民の非難を自分一身に引き受けました。(後略)」(劉向編『新釈漢文大系 戦国策 上』 林秀一訳 明治書院 1977年 p.94)」

 

このエピソード自体はまぁ、王様が任命した首相みたいな立場の人の評判が悪いことについて、それはその人が王様の悪評を一身に受けてるだけで、その人はめっちゃ優秀ですよとフォローするという話なのだけれど、その例え話の中で斉の桓公って人が宮中に700人の女性を集めたとあって、その女性たちが原文では女閭と呼ばれている。

 

『中国娼妓史』では女閭が中国最古の公娼についての記述だとしていたけれども、実際に『戦国策』の該当の記述を読む限り、女閭というのは後宮の構成員のことで、色を好んだ君主が女性を700人はべらせたという話がどうやら元々の文章であるらしい。

 

王書奴さんはこの部分の元の文章である、「齊桓公宮中七市,女閭七百,國人非之」を言って、中国最古の公娼だと言っているのだけれども、そうと読み取れる内容なのだろうか。

 

色々考えたのだけれど、結局、斉の管仲は主君への非難の矛先を自分に向けるために妻を三か国から娶ったという話である以上、問題は色好みで女を集めたところにあって、もし女閭が娼婦であるならば、それを集めるのは公共事業であって桓公が非難される謂れはないし、そのフォローとして管仲が妻を沢山娶って好色家を演じるのは文脈的におかしいから、やはり女閭はハーレムの構成員のことを言っていると判断した方が良いと思う。

 

王書奴さんは『戦国策』にある女閭の記述が古代中国最古の公娼の話だというけれど、それは普通に王書奴さんか、彼が参考にしたテキストを書いた人の読み違えだと思う。

 

後世では娼婦を言って、女閭と呼んだりしていたのかもしれない。

 

ちなみに、この出来事が紀元前685年のことだという話だったけれども、王書奴さんは管仲が宰相になったのが荘王19年、すなわち紀元前685年のことだから、そのくらいの時代の出来事だとしか言及していなかった。

 

話を総括すると、王書奴さんが『中国娼妓史』で『戦国策』に中国最古の公娼についての言及があると言っていて、けれども実際はハーレムの話であって、その『中国娼妓史』を読んだ誰か、もしくは読んだ誰かが書いた本を材料にした誰かが『世界性風俗じてん』を書いて、王書奴さんは紀元前685年より少し後くらいの出来事だろうとしか言っていなかったけれど、『世界性風俗じてん』では紀元前685年と断言する形で言及して、その記述を読んだ人が確かめもせずに『慰安婦と戦場の性』を書いて、その時に斉の桓公が荘王の19年に公娼を作ったという話だったのに、なぜか荘王がその年に作ったという話にすり替えられて、それを読んだ岡山県立図書館の職員さんがあのサイトの文章を書いて、僕がそれを読んだというのがこの出来事の流れになる。

 

僕はこの一連の出来事について思うことがある。

 

全員くたばればいいのに。

 

やる前から分かっていたことだけれど、こういう話って皆適当なんだよなぁ…。

 

こういう風にいい加減な話は割とあって、例えば、ベックって人の『鉄の歴史』って本を少しだけ読んでいたら、古代中国の製鉄技術について、『列子』の中の記述を持ってきて紀元前何百年前に製鉄があったとか言っていたけれど、『列子』は戦国時代に書かれた本であるかは強い疑いがあって、一般的には後世の偽書とされている。

 

結局、本で読んだりしたことは確かめもせずにそのことが正しいという前提で色々進むという場合が多くて、古い本は誤りや古い理解が非常に多くて、確かめてみるとそんなことは全然ないということは少なからず存在している。

 

そもそも第一として、公娼について書かれたウェブページで『慰安婦と戦場の性』に言及があるという文言を読んだ時点で、この本はフェミニズムの文脈で書かれた本なのだろうという推論はあったし、そのような場合はクソ真面目に原典を確かめたりはしないだろうとは考えていた。

 

けれども、一抹の期待はあって、その期待を胸に図書館に赴いて『慰安婦と戦場の性』を読んだのだけれど、果たして原初の出典については書かれていなかった。

 

そして王書奴の『中国娼妓史』を読むときも少なからず期待があって、王書奴さんの本を読めば古代中国の娼婦制度について確かな言及があって、どうせ適当こいてるだけだろうという僕の予見が偏見であるということを願っていた。

 

しかし結果はこの記事に書いた通りで、こんなザマを見るためにクソ真面目に資料に当たってきたわけではないと強く思うけれども、一方で、「やっぱりな」と思うような部分も確かにある。

 

とにかく、僕が読んできた古代中国のテキストには娼婦という発想自体が見られない。

 

おそらく、娼婦という発想自体がなかったし、売春宿などは存在していなかったのだと思う。

 

じゃあどのような形だったかと言えば、もっと直接的に人身売買で女性は丸のまま売られていたのだろうという推論はある。

 

以前も引用したけれど、古代中国の儒教の聖典である『礼記』に次のような文章がある。

 

「 孔子が言った。「妻をめとるに同性の者をめとらないのは、男女の分別を遠くにまで広げるのである。それゆえ、妾を買うとき、その姓がわからなければ、吉凶を占ってから決める。(市原 享吉他訳『全釈漢文大系 14 礼記 下』 「坊記」 集英社 1979年 p.227)」

 

古代中国では市場で女性が売られているということがあったらしくて、その時に姓すら分からない女性が売られるということもあったらしい。

 

氏素性の分からない女性となると、さらわれてやってきた女性と考えた方がよくて、人さらいにあったか、戦争奴隷として鹵獲されたような女性が古代中国では市場で売られていたらしい。

 

『尉繚子』という古代中国の兵法書の「重刑」には、逃走兵の家族は市場に売りに出すと言及があるから、そのような形で売られる女性もいたと思う。

 

そして、売る先として売春宿というものは想定されていなくて、個人が買って性奴隷として扱っていたらしいというのが実際で、売春宿と言う発想自体が古代ギリシアや中東周縁の地域の文化であって、古代中国にはそのような文化はおそらく存在していなかったのだと思う。

 

まぁ、性奴隷と言うよりは妾を金で買っていたというニュアンスで、扱いは戦前日本の妾さんと似たようなものだろうとは思うけれど。

 

だから、世界最古の職業が売春婦と言うのはおそらく間違いで、売春行為自体が中東らへん発祥の文化らしい。

 

古代中国は商売として性を売るという形ではなくて、人身売買で人ごと売り買いをしていた様子がある。

 

なんというか、もし、古代中国のテキストの中に売春宿の記述があったとしたならば、王書奴さんはあんな不適切な箇所を公娼の最古の例として挙げることもないだろうし、王書奴さんが次に公娼の例として持ってきているのが西暦977~978年に書かれた『太平広記』だから、その時代になるまでそのような文化は中国にはなかったのだろうと思う。

 

地中海周縁で発生した娼婦と言う職業は、千年以上かけて中国にやってきたというのが実際で、娼婦と言う職業はあの辺りにしかなかったものであるらしい。

 

とりあえず古代中国にはなかったと言って良いと思う。

 

まぁ、今後材料が集まって、古代中国に娼婦がいたと判断できる材料が集まったら考えは変えるのだけれど。

 

そんな感じ。

 

…良いと思う。

 

では。

 

・追記

後々ググったら、唐の時代には妓楼があったようで、売春の文化は西暦600年代には既に中国に存在していたらしい。

 

まぁ古代にはなかったという話には変わりはないのだけれど。

 

・追記2

見てみたらWikipediaの公娼の記事も荘王が管理売春制度を作ったって書いてあるんだな。(参考)

 

こうやってガセは広がって行くんだろうなぁ。