あらゆる事物は時を経て | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は古代中国の情報の日本への伝播について。

 

…前々からそうなのだけれど、日記って何なんだろうと思う時はあるよ。

 

僕はある目的のために、読むことが出来る限りの世界中で古代に書かれたテキストを読んでいる。

 

その目的は人間の文化的な判断と、本能的な判断との峻別であって、ある振る舞いが特定の地域でしか見られないとしたならば、それは知覚によって獲得された情報によって人間が行っている振る舞いであるだろうと僕は判断していて、一方で世界中のどんな地域でも見られるならば、それは人間の本能なのだろうと推測している。

 

人間の本能というよりも、もっと厳密には、人類は今から数万年前にアフリカを出発して今現在の分布で世界中に存在しているけれども、その頃アフリカにいた僕らの共通の祖先たるその生物がその時点で持っていた形質の中に、そのように世界中で見られる振る舞いを引き起こすタイプの遺伝的素因か、もしくはその時点で既に存在していた文化があって、それを引き継いでいるからこそ、世界中でその振る舞いを見ることが出来るのだろうという話になる。

 

だから、究極的に僕がやっていることでは人間の本能の部分は別に掬い上げられるわけではない。

 

そもそも、人間というか多くの哺乳類にとって、性行為自体は本能ではなくて、学習経験しなければ行えない類の振る舞いになる。

 

いくつかの動物に対する実験、いくらかの人間における報告を勘案するに、人間にとって性行為は本能ではない。

 

けれども、世界中で普遍的に人間は性行為を行うわけであって、これはかなり古い段階で獲得された文化的な情報であるだろうと判断できる。

 

結局、分かるのはその程度のことであって、けれども、このことから僕は一つの知見を得ることが出来た。

 

それは何かというと、哲学という学問が本当に重要ではない学問なのだという理解になる。

 

そもそも、僕自身は哲学畑の出身で、これを読んでいる大体の人よりは哲学についての知識は持っている。

 

けれども、大学に居た当時からこの学問について強い疑念を抱いていて、彼らの言及がおかしいとしか思えないような瞬間が多々あった。

 

まぁ、どういうことかはこのサイトというか日記で沢山書いてきたと思うから、既に言及しているようなことは書かないけれども、とにかく、哲学は普遍的に人間はそういう性質を持っているとして、ある振る舞いや発想を押しなべて語ることが多いのだけれども、実際問題として、そのことは哲学の文化内でしか存在しないという場合が非常に多い。

 

例えば、カントという有名な哲学者が居るのだけれど、彼の主張の中に嘘をつくことについての言及がある。

 

どうも、カントというか当時のドイツでは、嘘をつくことは絶対に許されない道徳的な悪であったようで、その前提で色々と言及されている。

 

なのだけれども、そのような文化はヨーロッパ限定の文化というか、ユーラシア大陸の西の方のほんの限られた地域にしか存在しない文化でしかないのだろうというのが僕の見解になる。

 

何故と言うと、古代中国では別に嘘をつくという事は必ずしも道徳的な悪ではなかったからになる。

 

『礼記』という儒教の聖典の中には、嘘を推奨するような記述や、やむを得ない嘘を認めるような記述が結構ある。

 

例えば、偉い人から贈り物をもらったときは、重くなくても重いように受け取りなさいとするような言葉があったり、呼び出されてもどうしても行きたくない時は、仮病を使うようにと説いている記述がある。

 

確かに、古代中国の歴史書である『史記』では、行きたくない時にやたらに仮病を使って行かないという場面が多かったのだけれども、これは当時の中国では仮病を使うという嘘が重大な道徳的な過失ではなかったからだろうとしか僕には判断できない。

 

このことがカントが想定するように絶対的な悪であったならば、儒教の聖典たる『礼記』の中で、そのような方法を示すということはあり得ない。

 

このことは一つの例なのだけれども、哲学の中にある絶対的に正しいとするような決めつけは、過半においてギリシア、ヨーロッパ世界に特有の価値判断でしかない場合が多い。

 

哲学の場合だと、世界に真理というものがあって、それを探求するということが多いのだけれども、そのことを人間の本能的な希求として想定しているようなテキストも多い。

 

なのだけれども、古代世界のテキストを読む限り、そんなことを考えているのは古代ギリシア人しか居やしない。

 

古代中国人も、古代インド人も、そんなことを考えている様子がない。

 

けれども、どうしても哲学はそのような真理の追究を人間の本性としているような場合が多くて、そういう所が哲学のダメなところだと思う。

 

結局、真理を追究することを是とするような社会に生まれるか、そのような文化に触れでもしない限り、そのことは人間にとってどうでも良いことでしかないのだろうと僕は思う。

 

他には、数学に関する知識が、"そういう学"と結びついているのも哲学に特有の判断になる。

 

これは哲学を知らない人からしたらピンと来ない話かもしれないけれども、哲学はかなり数学と親和性のある学問になる。

 

例えば、スピノザという哲学のおっさんは、数学的な問題を延々解くという方法によって、世界の真理に辿り着こうとしたりしていて、他にはデカルトやパスカルなども、数学や物理学についての業績を残している。

 

カントにしたところで、彼は認識論や道徳論の他に、天体についての議論をしていて、(当時の)物理学的な観点から天体について考察した著書を出している。

 

だから、クソ真面目に哲学をやるに際して、数学的な素養がないと成り立たない場面も生じてくる。

 

そういう風に哲学は数学や物理学と親和性がある学問なのだけれど、そんな"ザマ"なのは古代ギリシアの哲学と、その延長にあるヨーロッパの哲学の世界だけになる。

 

古代インドでも、古代中国でも、別に数学に関する知見自体は存在するのだけれど、"そのような学"が数学や物理学と結び付けられているというパターンは古代にはない。

 

そのようなことは哲学というか古代ギリシアの特殊で、哲学の場合はその古代ギリシアの哲学の延長線上にあるから、そのような問題が数学と結びついている。

 

一番最初は誰なのかとかまだ厳密にやっていないけれども、プラトン、アリストテレスの時点では、数学的な知識が"このような学"と既に結びついていて、プラトンの作った学校であるアカデメイアの門に、「幾何学を知らぬもの、この門をくぐるべからず」と書かれていたというのは有名な話だし、アリストテレスの『天体論』では、やはり数学的な知識が言説の中に用いられていた。

 

『天体論』を読んでて何が辛いかって言えば、結局、アリストテレスの議論はただ間違っているのであって、一生懸命アリストテレスの言っていることを足りない頭を使って理解しても、何にも役に立つことはないという所なんだよなぁ…。

 

『天体論』については、アリストテレスの言及するいくつかの要素の中に、古代インドで見た発想が見て取れて、そういった意味では面白かったりするのだけれども、それ以外があまりに無価値すぎる。

 

アリストテレスは宇宙は球体だったんだよ!って言っているけれども、現在の物理学だと否定されているからね、しょうがないね。

 

他には、アリストテレスは重い物が軽い物より早く落ちると本気で考えていて、何のためにこんなクソみたいな本を読まなければならないんだろうという気持ちが強い。

 

そして何より読みづらい。

 

とにかく、哲学という学問は古代ギリシア哲学の延長線上にあるから、古代ギリシア哲学の発想がそのまま残っているということが多い。

 

ただ、そういった発想は人類の普遍的な発想ではなくて、そこら辺の地域にしかないものであるということが今現在の僕は理解している。

 

そんなことを書いたけれども、今回の話とはそんなに関係ない。

 

今回はあくまで、古代中国に見られる文化の日本への流出についてになる。

 

ただ、結局、哲学のお友達が古代ギリシア人みたいな考え方をしているというのは、純粋に、彼らが古代ギリシア人のテキストを読んでいるからであって、そういう風に著作物は人間の発想を左右してしまう力を持っている。

 

日本にしたところで、かなり古代中国の本を輸入していたというのが実際らしくて、そういう理由で古代中国人的な発想が、日本においてよく見ることが出来る。

 

それに加えて、弥生人とか古墳時代の人とかは、普通に大陸から渡ってきた人たちなのであって、元々そういった文化を持っていた人々になる。

 

縄文時代にしてもヒョウタンの栽培が認められて、それは中国由来であって、ヒョウタンを携えて日本にやってきた人々がその時代にも居たということになる。

 

ヒョウタンを用いた食器についての記述は『礼記』にもあるし、農作物である以上、ノウハウがなければ栽培は出来ないのだから、ノウハウを持った人が訪れたと考えたほうが良いと思う。

 

だから、日本において、古代中国的な発想が存在するのは当たり前と言えば当たり前で、ただ、古代中国の本を読んでいると、「これも中国由来だったのか…」と思う時が多いから、そういった事柄についてです。

 

日本の地名で例えば、関東とか関西とか、近畿とか九州とかあるけれども、これについて最近僕は、これらの言葉がそもそも古代中国由来だということを知った。

 

九州という語の使用の例は、『礼記』にある。(参考:九州)

 

近畿地方のことは昔、畿内と呼んだりして、そもそも近畿という言葉自体が、畿内に近いから近畿という意味なのであって、その畿内という語は古代中国由来の言葉になる。

 

確か『礼記』の"王制"の中に、畿内についての記述があったと思うのだけれど、検索しても出てこないからまぁ良いや。

 

テキストに使われている漢字が旧字体だったりで違っていて、検出されない時がままある。

 

注釈によると王の住んでいる地域が畿内だそうだから、日本で畿内という言葉があるということも、結局、古代中国の本を読んでいた当時の日本人が、天皇が住んでいる地域のことを中国に倣って畿内と呼んだと考えていいと思う。

 

…この場でお手元の『礼記』を開いて確かめたのだけれど、『礼記』自体には県内と書いてあって、注釈の方に、「古い時代は県内といったが、後の時代には畿内といった」的なことが書いてあった。(【縣内】 天子のいるところの州界の名。夏では県内といい、殷・周では畿内といった。(市原享吉他訳『全釈漢文大系12 礼記 上』集英社 1976年 p.310)

 

まぁ専門的な話はともかく、畿内という語は中国由来の言葉になる。

 

関東とか関西とかと言うけれども、この言葉自体が中国のある関を元々は指していて、それは函谷関になる。

 

(原泰久『キングダム』25巻pp.152-153)

 

函谷関ってのはこれですね。

 

中国だとこれより東のことを関東と呼んでいて、これより西のことを関西と呼んでいた。(参考)

 

勿論、日本の関東と関西にしたところで、箱根の関より西か東かということに理由があるのだろうけれども、関より西か東かで区別するという発想自体が中国由来だと考えていいと思う。

 

他には、新嘗祭という行事があって、天皇が行ったりしているのだけれども、これについても『礼記』で言及があった。

 

『礼記』の「月令」というテキストの中に、新嘗祭があって、天の神様に供物をささげる前に、王様がそれを舐めて味見してから献上するという話であって、新しく取れたものを嘗めるというところから、新嘗祭という言葉が来ている。

 

そもそも、日本の宮中行事や神社の行事については、ほぼほぼ日本のオリジナルということもない。

 

神社の神主とかが幣(ぬさ)を持っているけれども、幣についての言及が『礼記』にあったし、確か『儀礼』という本にもあったと思う。

 

あのアイテム自体が日本のオリジナルではない。

 

宮中行事の中で、弓を射って何かをする"射礼"という行事があるのだけれども(参考)、この行事も『礼記』に言及がある。

 

そもそも、神社とかは神様を祀っているけれども、こういう風に所謂"神"を祀ること自体が中国の文化になる。

 

日本の場合だと死んだ人が神になったりしていて、恨みを持って死んだ天皇が祟りを招いたり、平将門の首塚があって、それに危害を加えると呪われたりする話があるけれども、そういう発想自体が中国的なそれになる。

 

中国の神は死者の霊である場合があるのだけれど、他の地域の神はそんなことはなくて、僕は古代インドと古代ギリシアについて少ししか知らないけれども、他の地域では死んでも神にはならない。

 

神は神として生まれるのであって、死んだ人が神になるのは日本と中国特有の発想になる。

 

その所謂神なのだけれども、古代中国のテキストを読んでいる限り、いろんな神様が存在しているらしいということが明らかになってきている。

 

例えば、山川の神に供物を捧げるという記述もあるし、道の神に安全を祈願するという話もある。

 

猫の神や虎の神についての記述もある。(『礼記』"郊特牲")

 

もっとも、ここで言う神というのはあくまで猫とかの祖先の霊のことなのだろうけれども、一方で道の神という概念や山川の神という概念があるということは、神は先祖の霊とも限らないということが分かる。

 

かなり広範囲のものに神が想定されている様子ではある。

 

日本だと八百万の神々というけれども、そもそもその発想自体が中国由来である可能性が非常に高い。

 

日本だと田舎道を歩いていると割かし道祖神があるけれども、僕はこれが何のためにあるのか全く分かっていなくて、けれども、古代中国のテキストに道の神が出てきて、古代中国では神に祠や廟を作る文化があることを考えると、道祖神はそういった道の神に対する何らかの宗教的な文化なのだろうと僕は思う。

 

日本の場合は道祖神より地蔵の方が多いけれども、古代インドに道に地蔵を用意するという発想は認められないので、元は中国の文化なのだと思う。

 

・追記

『燕丹子』という、秦の始皇帝を暗殺しようとした人の物語を読んでいたのだけれど、そのエピソードは歴史書である『史記』にも記載されていて、両者を比較するために『史記』も改めて確かめた結果、『史記』の「刺客列伝」の中に、道祖神についての記述を見つけた。

 

「 太子や賓客で事情を知っているものは、いずれも白い装束を着て見送った。易水のほとりまで来ると、道祖神を祭って道程についたが、このとき高漸離は筑を撃ち、荊軻はこれを和して歌った。変徴の声調であった。見送りの面々はいずれも髪を垂れてすすり泣いた。荊軻はなお進み出て歌った。

 風は瀟々として易水寒し

 荘士一たび去って復た還らず 

 (司馬遷 『世界文学大系 5B 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.151 )」

 

ここに道祖神についての記述があるけれど、原文を見たら「至易水之上,既祖,取道」となっていて、ちょっと意味が取りづらかったので色々ネットで翻訳を調べてみた。

 

場合によってはこのシーンは国語の教科書に載っていることもあるくらいに有名なエピソードだから、ネット上にもたくさんこの話の書き下し文が載っていて、それを読んだ限り、直接的にそこについての説明があったわけではないのだけれど、どうも"祖"というだけで神を祭る儀式をするという意味があるらしい。

 

だから、道祖神というのは祭る儀式をした神というニュアンスであって、道に置いてある道祖神は既に道において祭った神であるらしい。

 

『礼記』にも道の神を祭るという話はあるし、『春秋左氏伝』にも道の神を祭る話があったから、やはり道祖神は中国の宗教の宗教儀礼だし、道に置いてある地蔵にしても、それの類似品だと思う。

 

追記以上。

 

僕らが仏教だと思っているものは、基本的に中国の文化と捉えたほうが良いと僕は思う。

 

北枕などというものは普通仏教の文化だと思われているけれども、『礼記』には死者の頭は北に向けると書いてあるし、仏壇や位牌を仏教だと思っているけれどもどうもこれらも中国の宗教のものらしい。

 

位牌という語自体には出会っていないのだけれども、位牌の配置についての語はあって、注釈でそのことが書かれていたのだけれども、そうとすると普通に位牌は中国の文化であって、仏教の文化ではないと考えたほうが良い。

 

墓石についても結局は中国の文化で、原始仏典だと一応、仏塔というか卒塔婆についての記述は『マハー・パリニッバーナ・スッタ』にあるのだけれども、あくまで仏陀のモニュメントを作りなさいと言う話だから、墓についての記述は未だ出会っていない。

 

一方で、位牌は中国の文化で、中国は先祖のために廟を作る文化があるということを考えると、仏壇は中国の文化だし、そうとすると墓についても中国の墓制が元なのだろうという推断がある。

 

・追記

『春秋左氏伝』を読んでいたら、荘公の二十八年の記事に位牌についての記述を見つけた。

 

「 郿(び)に城壁を築いたとあるのは都城のことではないのである。およそ邑に先祖の宗廟や先君の位牌があるものを都といい、無いものをただ邑という。(貝塚茂樹編 『世界古典文学全集 13 春秋左氏伝』 筑摩書房 1970年 p.48)」

 

郿というのは地名で、そこについての注釈の記述になる。

 

一応、原文では位牌にあたる言葉は"主"になっているのだけれど、お手元の筑摩書房の翻訳は上の引用のように位牌になっているし、新釈漢文大系の方も確認したけれど、位牌になっていた。

 

位牌という、現在的な理解しやすい形状であったかはまだ分からないのだけれど、廟に安置する、その廟の主を表す物品は何等か存在していたらしい。

 

というか多分、専門家が別個に位牌とそれぞれ訳しているのだから、やっぱり位牌は古代中国から存在する中国の文化なのだと思う。

 

追記以上。

 

日本の曹洞宗などでは仏壇にご飯を置いたりするのだけれども、先祖の霊のために食事を用意するということは『礼記』に言及があって、これは確実に中国の文化になる。

 

日本の穢多という身分の人は、被差別部落の専門家の本を読む限り、どうも死体という穢れたものを扱ったということがその差別の理由として存在しているみたいだけれども、死体を穢れたものとするのは中国の発想になる。

 

『礼記』の注釈の中に、死体の穢れを避けるために桃を持っていくという話がある。

 

一方で僕は仏教のテキストの中で、死体についての穢れを語るテキストを読んだことがない。

 

仏教だと先祖の供養のために何回忌というものを行ったりするけれども、そんなことをやっているインド人の話には出会ったことがないし、古代中国では伝統的にそういった先祖のために色々行うという儀礼がある。

 

そもそも、インドの仏教の時点で供養という発想が日本的な方向性では存在していない。

 

供養という言葉自体は原始仏典でも存在しているのだけれども、供養という訳は間違っていると考えたほうが良いと思う。

 

仏教学者がこの問題について論文を書いていて僕はそれを読んだことがあって、一応、仏教の中にも先祖のために供養するという発想はあるのだけれども、原始仏典を検証した限りでは、あくまで地獄に落ちた先祖のために修行をするというのが供養であって、僕らが供養と聞いて連想するような墓参りなどは仏教で言及はない。(参考)

 

それに対して、古代中国では墓を非常に大切にするという文化があって、『墨子』という本では、良い防御拠点の条件として、先祖の墓がそこにあるというそれが存在するほどに、墓は大切にされる類のものになる。

 

だから、僕らが仏教だと思ってやっていた、仏壇にご飯をよそったり、線香を焚いたり、墓参りをしたりは全て仏陀の教えではなくて、中国の宗教の伝統でしかないらしいというのが実際になる。

 

原始仏典にも香自体は出てくるけれども、先祖の墓の前でそれを焚くという記述には出会ったことがないし、一方で道教の宗教儀礼でも線香は焚くので、線香という文化自体が中国のものである可能性が高い。

 

もっとも、線香に関する記述には出会ったことがないから、古代中国に存在していたかは分からない。

 

他には、付喪神という概念が日本にあって、Wikipediaを読む限りだと、日本のオリジナルの文化みたいな書き方になっていて、英語版のWikipediaを読んでもそういう感じになっている。(参考)

 

ただ、この付喪神についても中国由来の文化らしくて、中国の『抱朴子』という本の中に、長い時を経た物品に生命が宿るというか、そのようなものが化けるという話が記されている。

 

付喪神は魂が宿った物なのだけれども、その発想自体が中国由来で、若干変形したものが付喪神らしい。

 

ちなみに、その『抱朴子』にある命の宿った物体なのだけれども、鏡に映すと本当の姿が映し出されると言及されていた。

 

『ドラゴンクエスト』のラーの鏡の元ネタはここらしい。

 

もっとも、ラーの鏡の話を考えた人が『抱朴子』を読んだことがあったとは考え難いので、どっかでそういう話を聞いたことがあったのだと思う。

 

『耳袋』とかで。

 

『抱朴子』という本は中々マイナーな漢籍なようで、実際にググってみても、漢籍の研究者の論文と出版社のサイト以外何も引っ掛からなくて、もはや専門家以外の誰も読んでいないのではないかという疑念がある。

 

『淮南子』とか『春秋左氏伝』とかは、専門家じゃないような人のサイトも引っかかるのだけれども。

 

そんな本をドラクエの製作者が読んでいたとは考えづらいから、『抱朴子』の内容を知っていた人が書いた怪談とかに出会ったことがあったのだと思う。

 

そんな感じ。

 

…どんな感じなのだろう。

 

まぁいいや。

 

タイトルを決めて…。

 

これにしよう。

 

では。

 

・追記

菟という語の用法を調べるために、『説苑』という本をチラチラ読んでいたら、五穀を守る狐の神として、稷狐(しょくこ)という言葉を発見した。

 

前後の文脈から言って、狐の神様で、実際五穀を守る存在であるということは確かだと思う。

 

日本の神社にはお稲荷様がいるけれども、どうも、あれは元は中国の文化であったらしい。

 

ちなみに、どうして菟という言葉を調べていたかと言うと、ブラーフマナ文献という、紀元前800年頃に成立したと言われる古代インドの本をチラチラ見ていたら、月に兎がいるという話を見つけたからになる。

 

同じ話を、僕は古代中国の『楚辞』の「天問」という詩で見たことがあった。

 

ただ、Wikiepdiaを見てみると、この『楚辞』の「天問」の兎として理解されている菟という語はヒキガエルであるという説があるらしい。(参考)

 

なので、他のテキストでの菟という語の使用方法を確認していたのだけれども、『説苑』の菟という言葉の用法を見るに、やはり兎のことで良いらしいということが分かった。

 

足の速い名犬を使って狩りをするに際して、普通に見つけた菟は簡単に捕まえられるけれども、遠くに見つけた菟を犬に追わせても捕まえられないとあって、ヒキガエルだったら流石に捕まえられるだろう僕は思うので、菟という語は兎のことであるだろうという判断が出来る。

 

この説話の最後の方に、稷狐という語彙が出てきたので、ついでにここに書き足している。

 

なのだから、『楚辞』にある、月に兎がいるという話は実際、兎がいるという話で良いと思う。

 

だから、月に関する情報は中国とインドで行き交っていて、「月に兎がいる」という情報はかなり古い時代から伝播している類の情報であると考えていいと思う。

 

・追記2

ヤマタノオロチは『古事記』とか『日本書紀』に出てくるけれど、改めて『楚辞』の「天問」を読んでいたら、雄虺(ゆうき)という名前の九つの首がある蛇についての話が出ていた。

 

「そんな蛇何処に居んだよ」って文脈で。

 

とにかく、ヤマタノオロチという一つの化け物は、中国由来の化け物である可能性が高い。

 

首が一本多いけど誤差だよ誤差!

 

あと日本には九頭竜という発想があるらしい(参考)けれども、これについてはまさしく、『楚辞』に出てくる雄虺が元なんでしょうね。

 

・追記3

歴史書の『国語』の「楚語」を読んでいたら、殷の王が住む地域を言って、"河内"という表現をしているのを見つけた。

 

近畿の古い地名の河内(かわち)はこの殷の"河内"が由来だと思う。