日記を更新する。
なんつーかもう個人的にえらい長期間更新してなかった気がするけれども、それにはわけがある。
モチベーションが潰えた。
なーんにもやる気せえへん。
その間にアクセス数を一応見てはいたのだけれど、投稿してなくてもアクセス数は少ない水準で進んだり、投稿してなくてもアクセス数は急増したりして、僕の投稿頻度とアクセス数は関係性がなくて、このことに関しては僕の努力など全て無意味なのだと強く思った。
漫画の解説しかほぼほぼ読まれてないけれども、漫画の解説は書いてて楽しくないし、僕としてはそうではなくて平生の日記に書くようなことを書きたいけれども、大部分がどうせ読まれていないとアクセス数から分かるのであって、じゃあなんでそんなのを書くんだよ、誰も読まない文章を書いてもしょうがないだろうと思って、更新しなかった。
更に言えば、一方であのサイトなんて最後に今年の4月に更新してから一切手を触れてないというのに、いまだにこっちの十倍以上のアクセスがあるわけであって、過去の自分に今の自分のことを延々否定され続けている気分になってしまっている。
まぁ、そんなことがあってもなくてもいつでもどこでも僕は自分自身のことを否定する材料を探し出すし見出すようなパーソナリティーしか持ってないから、このことがなくても結局自己卑下をしていたのは変わらないのだろうとは思うけれど。
感じ悪いから日記にはしていないけれども、本気で自分のことをこの地球上で最下等の生命体だと思っているからね、しょうがないね。
今回はとりあえず、twitterで呟いて刹那で消してしまったようなものの再利用。
twitterで呟いてすぐ消すのは、僕の自己評価が低すぎることに理由があって、このような呟きをして誰かに不快な思いをさせてはいないだろうかとか、何か自分を大きく見せるためにこのようなことを書いているのではないかと誤解されるのではないかとか、ただでさえ愚劣な存在である僕の呟きなんて価値がないものなのだから、ただでさえ価値のない僕の呟きの中で『なるたる』『ぼくらの』に関係のない呟きはフォロワーにとって目障りなのではないか、とかそう言った理由で消している。
大体この日記に書いていることだって、書いたら概ね1時間も経てば書いた内容に自信が持てなくて不安に怯えるのが常だから、いつものことと言えばいつものことになる。
哲学や宗教、そして社会学や精神分析学に対して悪辣なのは、日和見した表現ではその不誠実さを指摘できないからそうしているのであって、彼らが誠実であったならば、僕はそのような表現を選んでいない。
漫画家に対して真心がこもった表現を選んでいないのは、僕は別に彼らの信者じゃないからであって、崇拝していない対象に対しての文章という以上はない。
そもそも、僕は進化論者で、ある程度進化論者のリチャード・ドーキンスの言説の影響下に自分はあると認識しているけれども、ドーキンスの著書にあるいくつかの言説について、心底軽蔑している嫌いがある。
僕はドーキンスがキリスト教を批判するために人間原理という考え方を肯定したことを唾棄すべき愚論だと考えていて、そのことについてドーキンスを心底軽蔑しているし、彼が著述する科学の美しさについて記述について、それは彼の目が曇っているからそのような表現が出てきているだけだと考えている。
科学の美しさについて語る彼は、彼が否定する宗教者と同じくらいクソだと僕は思う。
ドーキンスは『神は妄想である』でガンジーは宗教を信奉する人間ではなかったとしていたけれども、実際のガンジーはヒンドゥー教の哲学を元にした思想を持っていて、そのことは岩波文庫から出ているガンジーの著書の翻訳で確かめることが出来る。
僕は、自分ことを愚かだと考えていて、その愚かな僕ですら理解していることを理解していない人を見る時、何とも言えない気持ちにはなるけれども、そう思った時点で僕自身が何か傲慢であると理解していて、その傲慢さ故に自分がどれ程劣った存在かを噛み締めている。
多くの場合、僕は神聖視が何よりも劣った価値判断だと考えているから、あまり著述者や創作家のことを賛揚するということはないのだけれど、それは劣った僕がそのように神聖視したときは常に、何か間違った情報や情緒に捉われているときだと決めつけているからであって、自己否定に根があるような発想になる。
ただ『史記』の司馬遷と『夜と霧』のヴィクトール・フランクルのことは今のところむしろ敬慕の念に近い情念を抱いていると言っていいのかもしれない。
彼らについて侮蔑の念を抱いたことが記憶にない。
…。
本来的にtwitterの文章を持ってこようと持っていたけれども、そういえばヴィクトール・フランクルについて一つ書きたい内容があったのを思い出して、この記事はその話にしてしまうことにする。
僕はいくつか、頭の中に一つの記事として使う話題を用意しているのだけれども、その中にフランクルの話があったので、今回は変な構成の記事になってしまったけれども、その話にしてしまうことにする。
哲学者や宗教家の言説について、多くの場合何か優れたことを言及しているということになっている。
僕は本当に読んだ上でそのようなことを言っているのかと疑問に思うけれども、事実多くの場合はそのように認識されている。
僕は一つのことを知っている。
それは、発言者の立ち位置や権威、そしてシチュエーションと背景によって、その言葉の信憑性は変わってきてしまうということになる。
哲学者が言ったととなれば多くの場合そのことは正しいことになるし、宗教者の言ったことは多くの場合この世界の真理を孕んでいるとされてしまう。
僕はそのことを考えるに際して、ヴィクトール・フランクルという人物が一つの例になると思った。
彼はユダヤ人で、ナチスドイツの強制収容所に収監されて本当に死にかけた人物になる。
彼はその体験を『夜と霧』という本に記しているけれども、その内容は本当に凄惨極まるものになる。
本文だったか注釈だったか、どちらに書いてあったかは忘れてしまったけれども、彼の収容されたアウシュビッツという場所では、死体が沢山転がっていて、その死体の肉は削れているものもあったという。
あまりの飢餓に死体を食った人も居たらしくて、コート一枚すら大切な資産だった。
水のようなスープ程度しか食料はなく、多くの人はやせ細っていて、そのやせ細った体で肉体労働を強いられていた。
ある日、本当に倒れそうになった時に、ある人がこういう。
「この無様な姿を妻が見ていたらなんて思うだろう。」
実際の文章は少し違うのだけれども、その言葉を聞いたフランクルは、空想上の妻がその場にいて、自分のことを見ていると妄想することによって、しゃんとしようと試みて、どうにかその苦境を乗り切ったという話がある。
そして、その妄想をしたときに別の収容所にいる妻が生きているかどうかすら分かっていなくて、事実としてそう思った日には既に妻は殺されていたと後に分かった。
そんな彼はある日、ナチスの人から医者として働いてくれないかと言われた。
仲間たちはそんなことに従う必要はないと言ったけれども、彼はその誘いにのり医者として従事した。
その理由は誰かを助けたいというヒロイズムではなくて、今の自分はこのままいけば価値のない工夫としてごみのように死んでいくのは目に見えていて、医者として働いたとしても死ぬことは分かっていたのだけれど、そうであるならば自分の生はせめて医者として価値のある形で終わらせたかったから、彼は医者を志願した。
ここに紹介したエピソード以外にも、彼の壮絶な体験はいくつもあってそのことは『夜と霧』に記されている。
第二次世界大戦が終わって幾年か過ぎたある日、収容所の写真を持ってきた人がいて、やせ細ったユダヤ人が幾人も狭苦しい寝所に寝かされいる写真をフランクルに見せた。
その人は言う。
「酷い写真だろう?」と。
フランクルは問う。
「何故?」と。
フランクルは彼らは幸せだと言う。
彼らは布切れ一枚で放り出されて酷寒の中で作業を行わされているわけでもなければ、殆ど食料を与えられていないというのに少しでも遅れたら暴行を受ける行進させられているわけでもない。
あの場所で寝ている彼らには少なくともその苦痛から解放されていて、寝転がることが出来ている。
彼らは苦痛が取り除かれるというショーペンハウエルの文脈での消極的な意味合いではあるが、しかし確実に幸福だった。
そのフランクルの言葉を受けて、写真を持ってきた人は口をつむいだ。
フランクルは何とかそのような収容所から生還して、後に精神学者として活躍することになる。
精神学者と言っても、現在の精神科の医者というよりは、精神分析学がそうであるように、一つの西洋的な学問としての精神学の学者としていくつかの著書を残している。
彼は人間をこう定義する。
「ホモ・ペティエンス(苦悩する人間)」と。
実際、僕はフランクルについては『夜と霧』しか読んでいなくて、彼の言う所の『苦悩する人間』がどのような意味かを厳密に把握しているわけではない。
ただ、次の一つのことは確かだろうと理解している。
フランクルの『夜と霧』を読んだ上でフランクルと会って、面と向かって「人間とは苦悩する存在だ」と言われたところで、「それは違う」と言えるのかどうかと言えば、人間としてそんなことは言えはしない。
問題は、フランクルの意見を否定できないとして、じゃあ事実として人間は苦悩する存在なのかということになる。
確かにそのことをフランクルに対して否定することは出来ないけれども、だからと言ってそのことが正しいということもない。
もし、フランクルのパーソナリティーがちゃらんぽらんで、貴族階級で放蕩生活を過ごした上でそのようなことを言っていたならば、誰しもがフランクルの言葉を受け取ろうとはしない。
実際、ショーペンハウエルという哲学のおっさんは、『自殺ついて』という表題の本を書いていて、僕はその本を読んでいるのだけれど、彼は自殺は悪ではないと主張していて、彼のその意見についての揶揄で「ステーキを食べながら自殺について語ったショーペンハウエル」という批判がある。
このことは確か新潮文庫から出ているカミュの『シーシュポスの神話』に言及があった。
結局、フランクルの意見が正しく見えるのは、彼の立ち位置や背景、その実直なパーソナリティーの影響を無視することは出来ない。
そもそも、そのような人間の本質を何か苦しいものとするような発想は、ショーペンハウエルが元になる。
まぁ先にフランクルが「苦痛が取り除かれるというショーペンハウエルの文脈での消極的な意味での幸福」って言っていたと言及したよね。
そもそも、本質が苦であるというのはショーペンハウエルの意見であって、フランクルは確実にショーペンハウエルの著書を読んでいて、そうとすると"苦悩する人間"も所詮、ショーペンハウエルの意見の流用であるだろうというのが僕の見解になる。
確かに、彼は苦痛に満ちた人生を送ったけれども、そもそもその発想自体はショーペンハウエルの焼き直しであって、彼のオリジナルの意見ということもない。
彼の"苦悩"は"その程度"でしかないというのが実際になる。
そもそも、ショーペンハウエルが何故そのようなことを言い出したかと言うと、元々本質は苦であるというのは仏教の情報になる。
どうも、その頃のドイツには仏教のテキストが大量に流入したようで、その頃のドイツ人の哲学は9割9分、仏教に元ネタを持っている。
まぁ厳密にはキリスト教道徳を元に作られた哲学という学問に、仏教哲学の情報を混入させたと言う方が妥当だろうけれども。
だから、フランクルはショーペンハウエルの情報を流用したに過ぎないけれども、ショーペンハウエルはショーペンハウエルで、ただ単に仏教の情報を流用したに過ぎない。
僕は、実際に人よりは原始仏典を読んでいる。
なんというかそもそも、読んでいるからこそ、彼ら哲学のおっさん連中が仏教の話を焼き直してるだけに過ぎないと知るに至ったのだけれど。
別に人間の本質を苦であるとすること自体については、僕は何も思わない。
そのことに明確な根拠が示されているのならば、という付帯条件は付くのだけれど、そのことについてだけなら何も思わない。
実際に生きることはあまりに苦痛が多すぎる。
僕は原始仏典を読んで、大乗仏典をいくらか読んで、いくらか情報を持っているけれど、その情報の中で、「何故本質は苦であると言及できるのか」という部分について語られた場面は存在していない。
実際、例えば『マハーヴァッガ』の冒頭の文章とかでは、苦こそが物事の究極原因であるという言説は存在しているのだけれども、じゃあ何故苦と言えるのかという部分は存在していない。
そのことを悟ったら解脱出来て、根本が苦だと理解出来たら話は終わり。
何故苦なのかという議論はなくて、苦であると理解することを目指すのが、いくつかの仏教の宗派の目的になる。
何故苦なのかは語られない。
というか、誰も考えていないし、「苦ではないのではないか?」と疑ったら誰も解脱できないから仏教徒は疑わない。
僕は仏教徒ではないから、何故苦であると言えるのだろうと考えて、その根拠たるテキストを目を皿にして探しているけれど、それが語れることはありはしない。
ドイツの哲学のおっさん連中、ニーチェ、ヘーゲル、ショーペンハウエル、サルトル、フロイト、ユングなどは、仏教の情報は用いるけれども、それがどのような根拠に基づいているのか、科学的厳密性はあるのかなどということは問題にしない。
僕は哲学のおっさん連中の本は使い道が分からなくてそんなに読んではいないけれども、それらは科学に対して劣っているということだけは知っている。
フランクルの話に戻ると、彼の境涯、人生を鑑みた上で、彼の意見を悪し様に否定することは出来ない。
けれども、僕はその発想の根本である仏教に十分な根拠がないということは知っている。
なのだから、フランクルの語るところの人間などというものは、ちっとも現実の人間を素描できていないと理解している。
冷静に考えて、あんまり苦悩しないで生きている人も多いと思う。
そりゃ、辛いときもあるだろうけれども、全てが苦悩ということはない。
人間は苦悩に基づいていない。
仏教でもこの世界は苦だ、生きることは苦だ、生まれてくることは苦だ、と実際語っている経典もあるのだけれど、楽しい部分もあるということを一切顧みていない。
生まれてくることが苦だとは原始仏典の『マハーサティパッターナ・スッタ』に書いてあるのだけれども、一方で『テーラガーター』には自然の中で瞑想することの楽しさについて書いてあったり、他の経典でもちょいちょい仏陀の教えに歓喜している。
ていうか、仏典の終わりのテンプレートとして、仏陀の教えを聞いて歓喜するというそれがあって、割とよく仏典で仏教徒は歓喜している。
仏教徒とて喜びを抱いているのであって、人間が苦という一面性だけに成り立ってはいないと仏教のお友達は理解できていない。
まぁ仏教の苦はめんどくさい概念で、宗派によって若干の理解の差はあるのだけれど。
フランクルの場合は彼のその凄惨な人生についてが読者や面談者の判断を鈍らせたけれど、他の哲学者の場合はどうだろう。
僕はフランクルの言説は一見正しいそうに見えるけれども、上記の理由から正しくないと理解している。
他の哲学者の言説や、宗教の聖典の言説はどうだろう。
偏見を持ってそのことは何か素晴らしいはずだと考えて多くの場合はテキストに臨むのだろうけれども、実際に読めば多くの場合ただ荒唐無稽な無根拠が繰り広げられている。
僕は哲学がこの世界の真理を語っているのではなくて、ユーラシア大陸の西の方の限られた地域の文化的伝統に則って、あれやこれや言っているだけだと理解していて、その上で彼らの言葉を読むと辟易してしまう。
彼らの言説は、殊日本では当てはまらない場合が多すぎる。
例えば、哲学では自殺を禁忌としている。
そして、なぜ自殺はしてはいけないのだろうと考えたりしているけれども、そもそも自殺が悪ではないという可能性に気付けない。
元々、ヨーロッパには自殺を悪とする文化がある様子で、そのことはショーペンハウエルの『自殺について』に言及がある。
ショーペンハウエルはけれども、聖書に「自殺をしてはいけない」と書いていないから、自殺をしても問題はないと『自殺について』で言及していて、それが故に先の彼に対する揶揄がある。
哲学は基本的に聖書学であって、過半の哲学の論理が聖書から逸脱しない。
勿論、そうではない場合も多いけれども、そうである場合が多すぎる。
西洋文化で悪である自殺について、そのことは何故悪なのだろうと哲学は考えるのだけれど、何故悪かと考えるというよりも、どうやったら悪だと言い切れるのだろうという言葉を探しているのが実際になる。
けれども、自殺が絶対的な道徳的悪なのはヨーロッパだけらしくて、古代中国では自殺したのにも拘らず聖人扱いされている人がチラホラいて、僕は知っているだけで3人名前を挙げることが出来る。
鮑焦とか、伯夷と叔斉とか。
インドでも自殺について結構寛容で、『ジャータカ』には前世で畜生だった頃の仏陀が自殺するエピソードがそれなりにある。
絶対的な道徳的悪として自殺が認識されているのは、西洋文化圏だけになる。
このように検証すればそのことが正しくないと分かるのだけれども、哲学や宗教のテキストの場合、まずそこに素晴らしいものがあるはずだという偏見から話は始まる。
その偏見を前提にして、彼らのテキストを読むと、何か"理解出来ないけれど"素晴らしいことが書いてあると誤解してしまう。
そう感じたからと言って、そのことが事実ということはない。
僕はフランクルに目の前で意見を言われても、けして否定できないだろうけれども、フランクルのその主張が正しいということはない。
まぁそこら辺は非純判断だろうと思う。
大学の教授という立ち位置から物事を言われれば正しく感じてしまうのが人間だし、高尚なお坊さんから説法を受ければ有り難くて涙が出てくるのが人間になる。
結局、そのような事柄は遺伝的形質なのだと思う。
優れたと周りから認識されている存在の言説を受け入れるという振る舞いと、拒絶するという振る舞いとでは前者の方が生存への期待値が高い。
優れていると認識されている場合は事実優れている場合も多いだろうから、正しい示唆を与えてもらえる期待値が高いし、例え肩書きだけだったとしても、多くの人が彼に付き従った場合は大勢に与したことによって生き残るかもしれないし、付和雷同したおかげで責任を負わずに済む可能性も高い。
優れていると認識されている人物の言葉に従えばそれらの恩恵が受けられるけれども、そのような人物を否定した場合は、集団から爪はじきにされたり、その優れた人物の恩恵や庇護を受けられないというリスクがある。
このような場合だと、やはり優れた人物の言葉は、そのことが正しいか正しくないかは必ずしも重要ではなくて、そのことに従うというだけで利益が得られるということも出てくる。
僕は人間のことを生物としか理解していなくて、そうであるならば、他の生物がそうであるように、淘汰圧に強い形質を持った個体が長期的に進化論的に成功しやすいと考えて、人間の振る舞いをそのような進化論的な文脈でしか理解しない。
僕は哲学書を100冊読むよりも、ドーキンスの本を一冊読む方がはるかに有意義だと考えている。
という日記。
ナニモイウコトハナイ。
久々に書いて少し疲れたので、誤字脱字の修正は明日以降にしましょうね。
では。
・追記
本旨としては、そのことについて反論できないからと言って、そのことは正しいとは言えないということであって、フランクルの意見に反論できないからと言って、フランクルの発想が正しいとは言及出来ないということになる。
哲学のテキストを実際読んでみれば分かるのだけれど、読んだところで何言ってるのかまず分からないし、何が間違っているのか分からないから反論の言葉も思いつかないけれど、とりあえず何か煮え切らない感じになるような場合が多い。
多くの場合その煮え切らない、分からないという判断があれども、「私が馬鹿だから分からないだけで、何か凄いことが書いてあるのだろう」と処理されてしまう。
実際のところは日本人には共感できない意見が多い。
けれども難しくて分からなくて、何か引っかかってもそれで終わりになる。
昔の僕はその"刺さった骨"を取り出すことが出来なかったのだけれど、今の僕は昔僕の喉の奥に刺さったその骨を取り除いている。
古代ギリシアではプラトンというおっさんが有名だけれど、今の僕は彼の"想起説"がどうして間違っているのか言及できるし、近世哲学だとデカルトというおっさんが「我思う故に我あり」と言ったけれども、それがなぜ間違っているのか僕はいま理解している。
けれども、昔の僕は理解できていなくて、僕はそんな過去の自分のことを心底憎らしく思っている。
とにかく、反論できないとしたところで、そのことはイコールで正しいとは限らなくて、何か釈然としない場合は何処かに論理の飛躍がある場合が多い。
特に哲学は飛躍だけで出来ている場合が殆どで、科学に比べてあまりに愚劣な学問だと思う。