『ぼくらの』のチズ編の解説(前編) | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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カコ編の解説が終わったから、チズ編の解説を書いていくことにする。

 

正直やる気が出ないのだけれど、やらなければ先に進まないので書いていくことにする。

 

チズ編はチズが畑飼に手籠めにされて売られた回想から始まる。

 

 

(3巻pp.142-143)

 

チズが畑飼にセックスアピールしているのだけれど、正直僕は「しょってる」って言葉の意味が分からなかったのでググって調べた。

 

自惚れているって意味らしいっすね…。

 

しょってるって使う?

 

鬼頭先生にとってはしょってるって言葉は中学生が使う言葉なのか、それとも大人びたチズが使う言葉としてなのか、良く分からないけれど、僕はしょってるだなんて言葉は『ぼくらの』以外で出会ったことがない。

 

それはそれとして、チズは畑飼に好意を抱いており、それが故に学校帰りに捕まえたらしい。

 

多分、家の方向は違う方向なんじゃないかな。

 

(3巻p.144)

 

畑飼が最後のコマで意味深な顔をしているのは、普通に本田の姉と付き合っているからになる。

 

どうでも良いのだけれど、この本田の姉と付き合っているという設定が、後々の展開の変更によって矛盾というか良く分かんないことになっている。

 

畑飼は大事にしていると言っていて、それが故にキスまでしかしていないとか言っているけれど、その妹を毒牙にかけている時点で全然本田の姉を大切にできてないんだよなぁ。

 

(6巻p.16)

 

本来的に本田の姉は、キリエに畑飼について、「あの人だって本当は悪い人じゃないんです」と言って詰め寄るという設定になっていて、それは『ぼくらの』の画集の初期設定の方で確認できる。

 

その展開だったならば、畑飼が本田姉妹を騙した悪い奴で話は終わるのだけれど、どうも設定の変更があったらしくて、畑飼を殺そうとするチズを諭したり、チズ編最後の回想で鬼頭先生が想定する聖人のイメージとして姉は描写されている。

 

本来的には畑飼はチズの姉もチズ同様に蔑ろにする予定だったとは思うのだけれど、『ぼくらの』本編ではそのように優れた人物であるチズの姉を畑飼も大切に考えていて、実際大切にしていると描写されている。

 

なのだけれど、本当に本田姉を大切に扱うならば、その家族も大切に扱うのが道理であって、設定上チズに酷いことをする畑飼が素知らぬ顔で本田姉には良い人として振る舞うという良く分からないことになっている。

 

妹にあんなことをしといて姉の方だけ大切にして、それを隠す時点で全然姉に対して誠実ではない。

 

ここで本田姉が妹に酷いことをした畑飼にそれでもと言って縋ってくるような人物であったならば、畑飼はそもそも本田姉のことを大切に扱おうとは考えないのであって、そうであるならばチズに手を出した時点で本田姉との関係性は将来的な破滅は約束されている。

 

それなのにチズには酷いことをして、一方で姉の方は大切に扱っていると言っているのはぶっちゃけ矛盾でしかなくて、設定の変更に際して物語が目立たぬところで破綻してしまっていると僕はこのことを理解している。

 

チズに手を出す時点で姉を大切にしていない。

 

本来的には姉も妹もほしいままにする予定だったのだけれど、予定が変わって姉だけ大切にして、大切にする方法も誠意を持って付き合うだなんてそれを選んでしまったがために、矛盾が起きている。

 

大切にする相手の家族も大切にするのが普通の考え方であって、キスまでしかしない誠実さを示しつつ、妹の方は蔑ろにするというのはただの破綻でしかない。

 

まぁ細かいところはしょうがないね。

 

チズの回想に話を戻す。

 

 

(3巻pp.145-146)

 

ていうかちゃんと学区の反対側に行ってたって言及があるな。

 

畑飼の方はチズの好意を理解している様子。

 

理解しているが故に、効果的な言葉を狙って投げかけている。

 

実際、大人目線からして子供の異性愛的なまなざしというのは理解できるようで、僕には高校の先生をやっている友達がいるのだけれど、その友達は先生になった一年目に、生徒の女子高生の問題を一つ解決して、それに際してその生徒が自分に好意的な視線を向けていることが分かったと言っていた。

 

ただ、彼は普通にそれを察して、問題が起きないように対処したらしい。

 

ラブコメとかだと好意の感情は中々汲み取られないものだけれど、実際だと普通に分かるよなぁと思う。

 

畑飼の場合はそのまま手籠めにした御様子。

 

チズの方は、クラスの男子たちが子供っぽくて、それよりも大人な男性に魅力を感じていて、そのようなところが畑飼に好意を向けた理由らしい。

 

(3巻pp.147-149)

 

加えて、性欲がなんとなく嫌な様子ではある。

 

以前、僕は性的なものについての嫌悪感について『なるたる』の解説をしたとき…というかアキラの解説をしたときに言及したけれど、それについては僕の中で完全に決着がついている。

 

アキラの記事を書いたときは、何故性的なものが求められる一方で、嫌悪感を人間は抱くのか分からないと書いたわけだけれど、それは古い理解になる。

 

今の僕は、人間は生来的に性的なものを嫌がるのではなくて、教育の結果そういう事柄への嫌悪を知識として得ていくということを理解している。

 

どういうことかと言うと、公衆の面前で股間を触る幼児を見て、果たして大人はやめなさいと言うか言わないか。

 

僕は言うと考えているし、そうやって性器を触るということがイケないことだと学んでいく。

 

実際、幼児は自分の性器を良く触るし、自慰行為も行うというのが、願望論を除いた実情になる。

 

けれども、大人たちはそれを制して、良くないことと教えるからこそ、子供たちはそれはイケないことだと学んでいく。

 

そうやって、人は性的なものへの嫌悪感を獲得していく。

 

アマゾンの奥地に住むイゾラドと呼ばれる人々はわざわざ隠れて性行為を行ったりはしないし、同性愛も公然と行われているらしい。

 

だから、性的なものが悪だというのは、僕らの文化圏、具体的には西洋的な文化に侵犯された僕らの文化圏特有の価値判断と理解したほうが良いと思う。

 

ルイス・フロイスの記述の中に、戦国時代の人々は割と全裸で歩いてたって書いてあるし、女性も相撲を取っていたのだから、少なくとも乳房や性器の露出については、西洋的な価値観がそれを禁忌としている。

 

古代インドのテキストを読んでいても、精液とか膣とかが不躾なほどにそのまま単語として出てきていて、そのような言葉は僕らの文化では憚られるわけであって、けれども憚っていない人々が確認できる以上、どちらかの判断が文化依存の判断で、個人的には憚る方が本来的ではない振る舞いなのだと思う。

 

ただ、鬼頭先生的には性的なものは何処か嫌なものであるという発想があって、それが故に性欲ダダ洩れのガキたちのことをチズは嫌悪の目線で見ている。

 

一方で畑飼はそうではないらしい。

 

 

(3巻p.152-153)

 

まぁ良く分かんないっすけどね。(素)

 

畑飼が素で言っているのか演出で言っているのか分からない。

 

チズの方はそれでも、周りのガキたちにはない魅力を感じている御様子。

 

チズの姉の方は、何かを充足させてくれるような人が良いと言っていて、チズ的には畑飼は色んな事を教えてくれるし、何らか充足してくれる存在で、姉の言葉もチズの情動に影響を与えているのかもしれない。

 

(3巻p.156)

 

(3巻pp.154-155)

 

チズは畑飼がわたしの全てを充足してくれる存在だとこの段階では理解している御様子。

 

そう…。

 

その後、チズは売られる。

 

(3巻pp..156-163)

 

ロリコンの作者の願望が見え隠れするよなぁと思う。

 

ところで、この扉を開けたら約束と違っておっさん連中が待ち受けていたという一つのテンプレートについてなのだけれど、おそらく、元ネタになる何かがあるのだと思う。

 

実際の事件か、漫画作品か、さもなくばドラマか。

 

何が初出かはちょっと良く分からないのだけれど、とりあえず『GTO』にも同じようなシーンがあるし、Acceedの『リアル強姦』でも同じようなそれがあって、謀略や裏切りの末に見ず知らずの汚い大人に性的な暴行を受けるという発想があって、それらの演出の元になっている何かが存在しているのだと思う。

 

おそらくはドラマ。

 

実際の事件という可能性があって、僕はそうじゃないかな?と思う様な案件があったのだけれど、その事件と『ぼくらの』の描写は実際関係なさそうと検証の結果分かったので、何らか違う何かがあるのだと思う。

 

ドラマか何かであるんじゃない?(適当)

 

どうでも良いけれど、おっさんが「大丈夫。君の気持ちいい所は全部知っているから。」とか言っているけれど、これはロリコンの願望であって、実際的ではないと思う。

 

まぁいいや。

 

それが終わって舞台は翌日辺りの学校に移って、チズは自分が特別でも何でもなく、自分がこの地球の無数の塵の一つだと理解する。

 

(3巻p.167)

 

畑飼のお友達が、「今回の子はまた一段と可愛いねぇ。」とか言っていたので、畑飼はよくこんなことをやっているし、チズはその中の一人だし、次はこのおさげの女の子がターゲットだと理解できる。

 

どうでも良いけれど、貝塚ひろ子と見わけつかねぇなぁ、この子。

 

まぁいい。

 

チズは思いつめて畑飼を殺害しようと考える。

 

(3巻p.168)

 

こういう風に、あまりに酷いことを女性にした男は刺されてしまうという一つのテンプレートが存在している。

 

これについては、おそらく、何らか元になった事件やドラマが存在しているのだと思う。

 

今現在だと女性にどんな酷いことをしてもナイフや包丁で刺すだなんてあんまりしないわけだけれど、あんまり女遊びが酷い男性に警句として「お前刺されるぞ」とは言うのであって、その発想の元になった事件や作品があるのだと思う。

 

正直、平成初期とか昭和とかは世代の問題で殆ど分からないんだよなぁ。

 

多分、何かしらあるのだとは思うのだけれど。

 

(3巻p.170)

 

この相手を殺して自分も死ぬって発想についても、『うる星やつら』でも、「アンタを殺して私も死ぬ!」ってセリフがあるから、なんか共通の元ネタがあるのだろうけれど、そこのところは全く分からない。

 

 

(高橋留美子『うる星やつら』34巻p.98)

 

なんかあるんでしょうね。

 

…やっぱりドラマなのだろうか。

 

良く分からない。

 

話を戻すと、畑飼をSATSUGAIしようとしたチズだけれど、自身の妊娠の発覚によって殺害を断念せざるを得なくなる。

 

(3巻pp.172-174)

 

チズは我が子を犯罪者の子としたくがないために殺人を断念することになる。

 

考え得る中で最も悪いことが起きているけれど、こんな物語なのは普通に鬼頭先生の体調が良くなかったからだと思うよ。

 

本人に聞いても知らないだろうし、当人はインタビューとかで残酷な話を作る気はなかったって度々言っているのだけれど、僕は個人的にこんな物語が放り出されたのは体調の問題だと思う。

 

気分が悪い時は普通に悪い方へ悪い方へ考えは転がっていく。

 

そういうこともあると思う。

 

ここまででチズ編の一話が終わる。

 

二話は回想が終わって、時系列がフィッグ戦に戻る。

 

カコの死体を片付けて、チズがパイロットになるのだけれど、それに際してカコが死んでも誰も泣いていないということをチズが言う。

 

(3巻p.178)

 

確かに皆泣いていないけれど、僕は二コマ目のコモの顔が憔悴し過ぎてて笑ってしまった。

 

このページ自体はモジ編への伏線で、モジがナギを謀殺しようとしているということについてになる。

 

まぁモジはチズと同じようなことをしようとしていたから、お互いにお互いの気持ちが何処か分かったりするのかもしれない。

 

パイロットはチズに変わったわけだけれど、田中さんはチズに大丈夫かと聞く。

 

(3巻p.178)

 

田中さんがそう聞いているのは、胎児がいるということに関してであって、それに対してチズはもうどうしようもないと答えて、それを聞いていたキリエが何とも言えない顔をしている。

 

やっぱり、チズはキリエに仔細を伝えている様子。

 

この後、チズは自分の町へ向かって、復讐行脚を始める。

 

それに際して回想でチズが妊娠していること、畑飼がチズの妊娠を聞いて出産ムービーが撮れるとか言うけれど説明できるところが見当たらない。

 

しいて書くとするならば、チズは最初モジのように謀殺する形で復讐しようと考えていたらしい。

 

(3巻p.186)

 

けれども、そんな上手く行くことはなくて「そんな都合よくいくわけないがないってことか。」とチズは言っている。

 

この頃の鬼頭先生的には「都合よくいく"わけがない"」というのが普通の感覚だったのだと思う。

 

分かる分かる。(タメ口)

 

調子悪いと基本的にあらゆることが上手く行かないから、上手く行かない前提の思考になるのか、ただ症状としてそう思ってしまうのかは知らないけれど、そういう風に感じていた時期は僕にもあった。

 

そもそも、チズの選択肢はありとあらゆる中で最も悪いものが選択的に残されていっているわけであって、やはりそういう思考回路は精神的な不調に理由があったのではないかと個人的に考えている。

 

まぁ僕が勝手に言っているだけだけれど。

 

本編の方に戻ると、チズは復讐を始める。

 

(3巻pp.189-190)

 

この二人目に殺された人物はどうやら警察署長のようで、先の回想でショチョーと呼ばれているから、身分を隠して畑飼らと交際していたとかそういう感じではないのだと思う。

 

(3巻p.159)

 

ショチョーと呼ばれている。

 

最後の吹き出しね。

 

物語の配置としては、こういう風にもみ消せる立場の人が買い手にいたから、畑飼は安心して商売出来ているという話なのだと思う。

 

どうでも良いけれど、キャバクラとかで嬢が警察のお偉いさんと懇意だと、実際軽い犯罪ならもみ消してもらえるらしいっすよ?

 

そういうことをするのが人間だからね、しょうがないね。

 

話を戻すと、殺害を続けるチズを見て、田中さんがそれを制止しようとする。

 

けれども、チズは自分は死ぬんだから何をやっても良いでしょ?的なことを言う。

 

(3巻p.194)

 

一応、こういう場合の倫理的な判断に哲学がどういう答えを出すかについて言えば、合理論的(カント主義的)には駄目で、功利主義的にも駄目だし、徳治論的にも多分駄目ですね…。

 

まぁ普通に倫理学的にこのことは駄目って理解で良いと思う。

 

哲学なんて劣った学問の話はそれくらいにして、キリエはそんなチズを見て、「それじゃあカコ君といっしょだ…」と言っている。

 

何のことかさっぱり分からなかったのだけれど、これはカコが自分の都合で住民を踏みつぶして逃げ出したことを言っているんだと思う。

 

実際、作中でカコはそういうことをしたと理解されている。

 

(10巻p.76)

 

読者的にはそこのところについてあんまり重要視されていないから、ぶっちゃけキリエの発言の意味が分かっていた人なんて殆どいないんじゃないかな?と思ってしまう。

 

キリエはそういう風にモブキャラに感情移入してしまうタチらしい。

 

(6巻p.49)

 

鬼頭先生がそう企図したかは別の問題なのだけれど、人間は感情移入するに際して、自分の仲間かどうか、共通点があるかどうかでその振る舞いをするかしないかが決定される場合がある。

 

さかなクンって人が居るけれど、彼は若い頃に、水槽の中でいじめられている熱帯魚を見て、僕も頑張ろうと奮起したというエピソードが残っているのだけれど、僕はそれを読んで、「あ、さかなクンは学生の頃虐められてたんだな」って思った。

 

普通、自分が虐められてでもしなければ、虐められている魚を見ても頑張ろうとは思えないからね、しょうがないね。

 

僕なんかは虐められている魚を見ても、「攻撃されてんな」で終わりだから、そのように奮起するということはやっぱりそういうことだと思う。

 

さかなクンは結局、自分と同じように虐められている魚に感情移入したように、自分と重なる対象に多くの場合、人間は感情移入をするわけであって、キリエの場合当人が自分のことをモブキャラだと理解しているがためにそのような発想に繋がっていると言えるかもしれない。

 

鬼頭先生がそう考えてキリエのキャラクターを造形したかどうかは分からない所だけれど。

 

どうでも良いけれど、さかなクンは本人がさかなクン呼びを望んでいるんだから、さんをつける必要はないです。

 

話はそれてしまうけれど、鬼頭先生は『なるたる』の単行本のコメントで、「人間は他者との比較で自分を位置づけをする動物である以上、いじめをなくすことは不可能だ」的なことを言っている。

 

(『なるたる』6巻より)

 

これは…間違いですね。

 

他者と比較することにいじめの原因があるのなら、グッピーの世界にいじめはないはずなのだけれど、いじめがある以上、そのこと以外に理由があると判断できる。

 

グッピーは他者との比較で自分を位置づけているわけではないのにいじめが存在する以上、人間が他者との比較で自分を位置づけていることと、いじめを行っていることには必ずしも因果関係はないと言えると思う。

 

まぁ実際、正常な細胞ががん細胞を攻撃することにいじめという現象のフラクタルがあるのだけれど、『ぼくらの』には関係ないからどうでもよろし。

 

…この挿話自体『ぼくらの』とは関係がなかったのだけれど、書くタイミングがなかったのでここで書いた。

 

鬼頭先生は他者との比較にいじめの原因を見出している以上、キリエが虐められているのは劣った存在だと認識されているからなのかもしれない。

 

チズ編に話を戻すと、チズは自分の行動を正当化して田中さんに詰め寄る。

 

(3巻pp.194-196)

 

田中さんが2ページ目で何とも言えない顔をしているのは、チズの心情を慮っていることもあるけれど、普通に田中さんが若い頃に沢山の罪を犯していることも設定にあるから、そのことも理由になっているのかもしれない。

 

(4巻p.108)

 

ここら辺の設定はウシロを産んだこと以外ほぼほぼスポイルされているから、チズ編の時に見せた表情はあんまり伏線として成り立ってはいない。

 

田中さんの過去の掘り下げがなくなったのは多分、アニメ版の視聴者が田中さんとウシロの血縁関係の設定をボロクソに言ったことをが遠因としてあると思う。

 

ただ、先のチズとの会話で田中さんの表情のコマが出てくるのはチズが残された時間がないと言ったことに対してなのであって、田中さんが犯した罪のことは関係なくて、普通にチズを慮っているだけなのかもしれない。

 

チズの方は色々考えた末に、個人の死にはたいした意味がないとか言っている。

 

こういう実存的な問題というかなんというか、死の意味がどーだとかは普通に鬼頭先生の精神が健全ではないからそんなことが問題になってきているのだと思う。

 

健康に生きている人にとってはちっとも問題ではなくて、さもなければまだ若くて色々なことが疑問になっているような人にとってしかこのことは問題ではない。

 

元気で万事上手くいっている奴はそんなこと考えないよ。

 

鬼頭先生はこの頃もう40前後だというのにこんなことを深刻そうに考えているのだから、あんまり健康ではなかったのだと思う。

 

この個人の生や死に重要な意味はないという発想は『なるたる』のある意味での結論であって、その発想は『ぼくらの』でもチズ編まで健在だった様子ではある。

 

ただ、『ぼくらの』後半のキャラクターたちがそれを結論として抱くとは僕には考えられないし、そのような発想は出てこないので、鬼頭先生にとってその個人の死だの生だのはどうでも良い問題になったのだと思う。

 

この後チズは殺害作業を続けるのだけれど、6人目でこんなシーンがある。

 

(3巻pp.200-201)

 

田中さんは母親として思うところがあったのだとは思うけれど、人間の自然な感情として流石に幼児を殺すことは大抵の場合、嫌悪感を抱くそれだと思う。

 

それを見てマチは酷いと言う。

 

(3巻p.202)

 

マチ、敵のロボットに違う地球の人間が乗ってるって知っててよくそんなこと言えるな。

 

キリエの方は何か思っているのだけれど、何を思っているかは分からない。

 

多分、キリエは事情を知っているから、何処か仕方ないと思う反面、それでも名も知らない人々の死に思うところがあるのだと思う。

 

加えて、チズは具体的な人が何処にいるかが分かっている様子がある。

 

このぬいぐるみによる魂の位置把握の能力はチズ編が初出で、マキ編やカンジ編でその設定が使われる。

 

(3巻p.187)

 

この魂の把捉も何か元ネタがあったりするのかねぇ。

 

良く分からないけれど。

 

一応、コクピットが重力の影響を受けず、思っただけで動くロボットというのはドラえもんの映画である、『ドラえもん のび太と鉄人兵団』に登場している。

 

実際、『なるたる』におけるアマポーラの頭部のデザインは多分、この映画に出てくる"頭脳"が元だろうと僕は思うから、鬼頭先生はこの映画を見たことがあるのではないか、とおぼろげに考えている。

 

アマポーラのスタンド能力者も"頭脳"も去勢されて誰かのほしいままになってしまったから、アマポーラというスタンド能力の設定にわずかながらに影響を与えているのではないか、と個人的には思うけれど、根拠は提出できないから微妙だなぁ。

 

それと同じように、何らかこういう魂の捕捉についても元ネタがあるのかもだけれど、僕には良く分からない。

 

ガンダムあたりなんですかねぇ。

 

一作品も見たことがないからイメージで色々言っているけれど。

 

・追記

鬼頭先生が『ドラえもん のび太と鉄人兵団』を実際見ているということが判明した。(参考)

 

…おそらく本当に映画のドラえもんから来ていると思う。

 

この記事にそのことを書いたときは鬼頭先生がそんな映画を見ているという情報を持っていなかったのだけれども、実際見ているというのだから、やはりアマポーラのことも含めた『ドラえもん のび太と鉄人兵団』的な要素は、実際この映画が元なのだと思う。

 

見ているだろうとは思っていたからあのように書いたのだけれども、まさか実際に見ていると判断できる言及が鬼頭先生のブログに存在しているということは想定外だった。

 

追記以上。

 

話を戻す。

 

チズは復讐を続けて、最後に畑飼の番になる。

 

(3巻pp.203-206)

 

考え付く限りで最悪の展開が訪れる。

 

畑飼と姉が付き合っていて、2人がデート中に今回のことが起きた御様子。

 

畑飼と本田姉が付き合っていることに伏線はあって、チズが姉の存在を畑飼に言ったり、本田姉がチズに付き合っている人がいると言ったりしていた。

 

そして最悪のタイミングでチズはその事実を知ることになる。

 

このような最悪な展開なのはやっぱり、鬼頭先生が鬼頭先生の精神状態的に、悪いことは重なってしまうと考えがちだからと個人的には思うのだけれど、根拠の方の提出は出来ようもないのであって、僕個人がそう思ってこのことは終わりにする。

 

とりあえず、ここまで。

 

続きはここ

 

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