緋色のドレスは艶やかに、ヒールの舞踏は軽やかに | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

内容は何故人は踊るのだろうかについてです。

 

実は今月の頭の頃に、笑いについての記事を書いているのだけれど、書き上げた後のいつものビョーキが重篤で、とりあえず非公開にしてある。

 

実際、読み直してみて、公開して問題はない内容だと分かってはいたのだけれど、酷くレイシスト的な言及が多くて、そのレイシズムはただ事実であるだろうことを言及する際に生まれた不可避的な表現であって、僕自身は差別意識は持っていないということについて先に言及しておかないと僕が誤解を受けると思って、その言い訳をする記事を用意してから公開しようと思っていたがために非公開のまま長いこと放置してあった。

 

あのレイシズムに満ちた記事が先頭に来るということを避けるために、新たに記事を用意しようとは考えていたのだけれど、パソコンがぶっ壊れてて、いつ電源が落ちるか分からない状態だったから、めんど中々次の記事を用意できなかった。

 

人間の価値判断は多くの場合敵か味方かだから、敵と認識された場合はもう手の施しようがないし、そういう人は他の記事とか読まないだろうから、僕に悪意がないということは伝わらないと思って、笑いについての記事は、新しい記事を用意してから公開するつもりでいた。

 

…ただまぁ、どの道この記事を書いた後も、部屋の隅でガタガタ震えるような不安に襲われるということはこの時点で分かっているのだけれど。

 

さて。

 

今回は何故人は踊るのかについて。

 

何故人は踊るのだろう。

 

それを考えるにあたって、これについてもいつものように考える。

 

そんなもの、理由なんていくらでもあるだろうと。

 

ただ、僕はあまり好きではないけれど、踊るということは人が好んでするような振る舞いであって、好まれるということは、何らかそのことには遺伝子の存続に対する有利性があるのだろう考える。

 

どうして踊るのだろう。

 

踊って何が楽しいのだろう。

 

僕はそれを考える。

 

そして、その踊るという行為について言えば、おそらく、いくつもの理由があって、そのいくつもの理由が重なり合って、どれか一つが決定的にその原因になっているわけではなくて、複合的な理由を以て人は踊っているのだろうと僕は考える。

 

まず第一として、僕自身はあまり好きではないのだけれど、体を動かすということは楽しいことになる。

 

小さな子供なんて良く走り回っているけれど、それはきっと楽しいのだと思う。

 

例えは何だって良いのだけれど、体を動かして修練するということは楽しいことで、ドッヂボールは楽しいことだし、追いかけっこは楽しいことになる。

 

さもなければ、あやとりは楽しかっただろうし、けん玉だって楽しいからこそ子供たちの遊びなのだろうと思う。

 

遊びが楽しい理由にしたって、幾通りも理由があってそれが重なり合って楽しいのだけれど、その中に体を動かすということが理由としてある。

 

結局、良く運動する個体と、あまり運動を得意としない個体、どちらの方が生存競争で有利かと言えば、比較して運動が得意な方が生き残りやすいだろう僕は思う。

 

あくまで傾向性としてなのだけれど、運動能力が高い個体は、そうではない個体に比べて生き残りやすい以上、そのような運動を好む個体の方が割合として大きいのではないか、と思う。

 

子供が体を動かす遊びが好きなのは、結局、親の世代やそれより前の世代で、運動というか体操というか、体の鍛錬をよくした個体が生き残って、そのような運動を選択する脳の構造を持った個体の方が多いからこそ、多くの場合、体を使った運動を伴う遊びを子供たちはするのではないか?と僕は考えている。

 

勿論、遊びが楽しいのはそれだけが理由ではないのだけれど、以前書いたからこれ以上書かない。(参考)

 

じゃあ踊りは?

 

まず、第一として、そもそも体を動かすということが楽しいという場合が考えられる。

 

僕は運動は好きじゃないのだけれど、結局、踊りを好んでするような人は、そもそも体を動かすのが好きなのだろうと考えている。

 

じゃあ、体を動かすのが好きだから踊るの?

 

僕はそれだけではないと思う。

 

人が踊る理由はいくらでもある。

 

人間の習性として、動きを模倣することによって体得するという機能がある。

 

例えば、以前例に挙げたけれど、スポーツをするに際して憧れている選手の動きを真似てみたりしたことはないだろうか。

 

僕は運動が嫌いだから記憶にないけれど、そういう振る舞いは存在している。

 

そもそも、憧れという情念自体がどういう情念かと言えば、特定の誰かの何かを体得するための脳の機能という以上のことはない。

 

人間なんだから、これを読んでいる人も誰かに憧れたことがあると思う。

 

憧れた誰かがいて、その人物の考えや言葉、口ぶりや動きを自分の中に取り入れたということは果たしてあったかなかったか。

 

僕はある場合が殆どだと思う。

 

尊敬する誰かが着ている服を自分でも着てみたいなと思ったり、その相手が好む何かを自分が好きなっていたり、その人が言った言葉を自分の言葉として吐き出したことはないだろうか。

 

僕は多くの場合、あると思う。

 

結局、人間は社会性の動物で、その所作は本能の部分以外は学習して体得する形で習得される。

 

もし、身近に愚かで鈍いような魯鈍な人物が居たとして、彼や彼女の振る舞いを真似ていくか、いかないか。

 

反対に、自分が尊敬していたり、周りから尊敬されている人物の振る舞いを真似ていくか、いかないか。

 

僕は単純に、自分が馬鹿だと思った相手の何かは自分の中に反面教師として以外取り入れないし、尊敬されている誰かの所作はより取り入れられていくだろうと考える。

 

つまり結局、尊敬という情念は遺伝子の存続をより確実にするための所作を学習するに際して、学習先として相応しいと当人が無意識に判断した対象に生ずる情念でしかありはしない。

 

そして、尊敬の念を抱いたときに、どのようにして学習するかと言えば、彼や彼女の所作や言動を、トレースするように自分の中に取り入れていく。

 

儒教の孔子は尊敬されているか、いないか。

 

お釈迦様は尊敬されているか、いないか。

 

イエス・キリストは敬愛されているか、いないか。

 

結局、どれも同じ脳の機能が働いていて、脳はそれを良き学習対象だと判断したときに、その相手に尊敬の情念を抱き、その言説を自分の中に取り入れていく。

 

一見、踊りの話に関係ないようにも思えるかもしれないけれど、踊りというのは型というか決まった動作を学習して、自分でそれを行うという振る舞いになる。

 

既存の情報があって、それを再現するという所作であって、結局、それを覚えるということが楽しいから踊れているわけであって、この何かを模倣して、それを体得するということを良いものと判断する脳の機能が、踊るという所作をあり得るものとしている。

 

他には、踊りと言ってもいくつか種類があって、一人で型を覚えてそれを披露する踊りと、皆で呼吸を合わせる踊りがある。

 

前者で言えば、それは果たして誰にも見られていない何処かでただひたすらに踊っていて楽しいのだろうかと僕は考える。

 

きっと楽しくないだろうと推測している。

 

人に見せて、評価されて、初めてそれは楽しくなるのだと思う。

 

そして、その発表のために練習する場合は、その発表が目的であって、その練習自体は必ずしも楽しくはないだろうと思う。

 

もっとも、体を動かす時点である程度は楽しいのであって、練習もある程度は楽しいのだろうけれど。

 

ただ、一人で踊るような踊りは、誰かに見せた時に得られる称賛や、他者と競いそれに打ち勝つという喜びによって裏付けされているタイプの踊りだろうと僕は判断している。

 

勝負事に勝つということは楽しい。

 

単純に考えて、人生の中で敗北を悔しいと思わないような個体や、勝利に一切の魅力を感じない個体は果たして遺伝子の存続という競争の中で勝ち残れたか、勝ち残れなかったか。

 

そういう形質を生まれ持った個体も居ただろうけれど、そのような個体は生存競争に弱い。

 

人間は伴侶をめぐる競争や、食料や社会的な地位をめぐる競争を日々行っていて、その勝者のみが子を成すことが出来るし、子を成した後もそれを生育するためには競争が付き纏う。

 

僕らが勝負事に快を感じるのは、結局、それを感じないような個体は生殖が難しいからということになる。

 

大会や見世物としての踊りは、そのような脳の機能がそれを楽しいとさせているのだと僕は考えている。

 

称賛や勝利を求めて人は時に踊る。

 

加えて、ストリップショーを含む興行としての踊りは、純粋に金がもらえるから躍っているという要素も無視できない。

 

以上は一人で踊るような踊りや見せる踊りについてなのだけれど、踊りはそれに限るのだろうか。

 

当然、社交ダンスのようにパートナーと組む踊りや、盆踊りなどの皆で踊る踊りがある。

 

社交ダンスなどの場合は純粋に、その踊りが上手い個体は生殖できるわけであって、セックスアピールという側面が強い。

 

加えて、社会的な位相を示すという役割も社交ダンスは担っていて、分かりやすく生存競争の方法として彼らは踊っている。

 

社会的な位相は高いことをアピールできればそれは生存に繋がる場合が多い。

 

偉い人は優遇するというのが僕らの一般的な感性であって、それはおそらく、旧石器時代からずっと変わっていない。

 

よく、農耕が出来て初めて社会階級が生まれたという議論があるけれど、僕はそれは間違いだと思う。

 

何故と言うと、そもそもにそういう脳の機能を持っていなければ、そのようなもの発生しないだろうと言えるからになる。

 

そもそも、そのようなことが言われているのは、哲学の伝統としてルソーの『人間不平等起源論』や共産主義の原始共産制という発想があって、原始時代は平等だったという誤認識が存在しているからになる。

 

ただ、それらの議論はなぜ平等だったと言えるのかの部分が言及されておらず、僕としてはチンパンジーやゴリラで社会的な地位が確認できる以上、人間とて彼らと共通の生物だった頃からそのような社会的な地位が存在していただろうと考えている。

 

そのような習性を持っているということは、そのような脳の構造を持っているということであって、偉い人を優遇するというのはある程度僕らの本能なのだろうと考えている。

 

社交ダンスで上手く立ち振る舞って、そのことによって何かを得ようと考えるという振る舞いは、純粋に、高い地位にいる人間を生まれついて優遇しがちな形質を人間は持っているからこそ、そのような位相であろうとしたり、それを示そうとするということに理由があるのだろうと思う。

 

それに際して、明確ではないけれど勝ち負けが存在していて、その勝者がより利益を得るわけだけれども、それも結局、そのようなことを求める個体が生殖に成功したという事実が根底にあるとしか僕には理解しようがない。

 

その様な習性がなければ、人より上手く踊ろうと思ったり、逆に下手な踊りをしたに際して羞恥の情念を抱きようがない。

 

その楽しさは結局、旧石器時代から、更に言えば数千万年前から変わらない習性なのだろうと僕は考えている。

 

他には、皆で踊る踊りというものも存在している。

 

民族舞踊や、盆踊りなどは皆で合わせて踊られている。

 

結局、ここで踊らなかったり、踊りが下手糞で見るだけで滑稽な個体は、死や、生殖における失敗を経たからこそ、多くの場合皆で踊りは踊られるし、人はそれを何処の地域でも行うのだろうと僕は考えている。

 

未開の部族の映像で良く人は踊っているし、古代中国でも踊っていたのだろうと思う。

 

『詩経』という古代中国の詩集の詩には本来的に曲があって、特に農耕に関するような詩は、野良仕事に際して歌われたと僕は聞いた。

 

ならば、その音に合わせて踊ったということはきっとあったと思う。

 

原始仏典の『梵網経』で挙げられる種々の遊びの中で踊りはあったと思うし、日本には盆踊りがあって、ヨーロッパ世界にも踊りがある以上、何処の世界でも踊られているのだと思う。

 

踊りそれ自体に意味があるかないかはさておいて、ここで皆と心を通わせて踊るという振る舞いには、非常に生存戦略上の意味がある。

 

結局、一事が万事で、嫌われたら村八分は避けられないし、少なくとも嫌われないようにする努力はしなければならない。

 

誰かが踊ると言い出して、それに乗らないような個体より、付和雷同して踊るような個体の方が結局、何かが起きた時に肩を持ってもらえるわけであって、空気が読めない個体は中々に生きづらい。

 

集団で行う踊りは、結局、集団の中で生きていく上での戦略を司る脳の機能がそれをさせているのだと僕は考えている。

 

最後に、じゃあ具体的な踊りの手ぶりや動作は何なのかについて。

 

おそらく、それに深い意味はないのだと思う。

 

あるのは学習する機能だけであって、目で見て、それを学習して、また模倣するというあり方だけがただあって、具体的な踊りそれ自体に重要な意味は存在しないと思う。

 

最初の一人が深い意味を想定して動作を作ったかもしれないし、適当にやったものがただ残っているだけかもしれない。

 

ただどの道、踊っている人はその動作の意味を知らないわけであって、そこに重要な何かは存在していない。

 

古代インドのバラモン教も宗教儀式に際して何らか決まった動きが存在していると『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』を読む限り読み取れるのだけれど、おそらく、その所作に込められた意味は存在していない。

 

人間的に考えてみる。

 

目の前で何らかの宗教儀式を行っているとして、それを学ぶ立場として、全ての所作がどういう意味があるかを把握してそれを学ぶか、ただそれを体得するか。

 

スポーツをするに際して、その動きの物理学上の意味や、生理学上の意味を問い質して、その妥当性を認識できた場合にのみ、それを学習するのか、さもなければ、言われたことをそのまま覚えるのか。

 

どちらのパターンが多いか。

 

僕は、ただ言われたことを、ただ見たことをそのまま学んでいる場合が殆どだと考えている。

 

そして、人間の模倣は完璧に行えるわけではなくて、当人の癖や、既に得たり、後に得た他の情報とが混ざり合って、微妙にオリジナルと変わってくる。

 

世代を経るごとに従来の踊りとは違いが生じてきてしまう。

 

とすると、この世界の踊り全ては結局、ただ単にその踊りが学習されたから踊られているだけであって、その手ぶりや身振りが、重要な何かを意味しているということはないのだと思う。

 

かつてあったとしても今踊っている人はそれを理解していないし、そもそも最初からあったかどうかも定かではない。

 

その意味について語られることもあるのだけれど、それは大概当てずっぽうでその場しのぎの軽い嘘になる。

 

人間はそういうことをする。

 

縄文時代に作られた貝塚というものが日本にはあるのだけれど、江戸時代ではそれは巨人の捨てたゴミだと考えられていたらしい。

 

結局、巨人云々は何処かの誰かが適当にその場で考えた嘘で、何処かの誰かの当てずっぽうがいつの間にか正しい理解と扱われている一例であって、踊りや宗教儀式におけるその動作の意味について、この営みと何か差があるかと言えば、恐らくない。

 

その動きに意味があるとされたところで、それが後世の人がその時に考えた理由か、さもなければ原初から存在している理由か、その区別はつかないし、旧石器時代から連綿と続いている踊りという振る舞いについて言えば、誰もその原初について知り得ない。

 

だから、具体的な踊りには特に意味はないのだろうと僕は考えている。

 

鳥を使った実験の中で、鳥に餌が出るボタンを与えて、そのボタンを押すことで餌を獲得するということを学ばせるというそれがあった。

 

それに際して、ある鳥は、首を振ったあとにボタンを押したことによって餌を獲得したのだけれど、どうもこの鳥は首を振るということまで必要条件だと思い込んだらしく、必ず首を振ってから、ボタンを押すようになったらしい。

 

そして、その鳥の振る舞いは情報として伝播していったのだけれど、その首を振るという動作は必ず行われて、失われることはなかったとか。

 

…リチャード・ドーキンスの本でそのエピソードは読んだのだけれど、ちょっとどの本で読んだか思い出せないので、ディティールが曖昧なのだけれど、この鳥と人間、どれ程に差があるのだろう。

 

宗教儀式の中の振る舞いは、例えば雨乞いなんかがあって、それに際して踊りが踊られることもあるのだろうけれど、結局、僕らも鳥ほどではないけれど、因果関係を理解できているわけではない。

 

雨が降ったのは自然現象で、人間の干渉があったから、雨乞いをしたから、踊ったから雨が降ったわけではないのだけれど、もしその行為の果てに雨があったならば、次雨を望んだときはまたそれを行ってしまう。

 

宗教儀式の中には、そのように因果関係を誤解したものや、些細な意味のない動きをトレースしたものに由来するものがある。

 

踊りにしたところで、踊っている当人たちはその踊りを学んで、自分の体で実行しているだけであって、先達たちにしたってそれは変わらない。

 

最初の一人がどうして踊り始めたかは知らないけれど、きっと、何らか尊敬されるような立場の人で、彼や彼女を尊敬した誰かによって、その振る舞いがただ真似られただけなのだろうと僕は考えている。

 

なので、踊るという行為において、その具体的な動きに何か意味があるわけではなくて、ただ動きが学習されるという営みの果てに出てきたそれでしかないのだと思う。

 

僕が理解している踊りについては以上になる。

 

前回の笑いについてもそうなのだけれど、僕は全てのパターンを把握していると考えているわけではない。

 

僕は愚かで、間違いも抜けているところも多いのだから、以前書いた内容で間違いがあれば修正するし、抜けているところがあれば足せばいいと思っている。

 

踊りにしたところで、僕が把握していない踊りの理由があったとしたならば、それを付け足していけば良いと考えているし、間違っているところが見つかれば直していけば良いと考えている。

 

以上になる。

 

ところで、全部書いた後に思ったのだけれど、この記事の内容にあるような踊りを最初にした人は、多分服は着てなかったんだよな。

 

踊るという形質は人類で普遍的に見られるから、少なくともアボリジニと共通の祖先を異にした5万年前以上昔から存在していて、アボリジニは服を着ていない人々だから、多分、5万年前の段階では服は存在していなかった。

 

アボリジニの人々も踊る以上、踊りというものは衣服より歴史が古い。

 

まぁそこら辺は良く分からなくて、アボリジニの人々の祖先がある段階でヤーガン族のように衣服を捨てたのかもしれない。

 

ヤーガン族という既に滅んだ民族の人々は、何故だか歴史のどこかの段階で服を捨てて、全裸で過ごしていたらしい。

 

農業やっていた人々が農業を捨てたり、弓矢を持っていた人々がそれを失ったりは良くあることだから、アボリジニの人々の祖先も服を着ていた可能性はある。

 

ただ、踊るという形質はかなり古い文化だとは思うから、衣服を獲得する前の段階で獲得された形質だろうとは思う。

 

そんな感じ。

 

では。