漫画家たちのちょっとした失敗 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

今回は漫画で見られるあからさまな間違いをあげつらうことにした。

漫画家って言ってもやっぱり人間なんだから間違いはするし忙しいし、サポートする編集も疲れているのだからミスを見落とすということもあるし、いくら編集が高学歴だろうがなんだろうが知らないものは知らないんだからどうしようもないものはどうしようもない。

ワンピースでインペルダウンの話の中に、幾層にも重なる地獄の話があったけれど、元は仏教の地獄の説話が元ネタになる。

まぁ具体的にどの仏典に書いてあるのかは知らないのだけれど、尾田先生のスケジュールと漫画家になった年齢を考えると、そのような小難しい事が書かれている資料に目を通す時間が存在するとは思えない。

だから普通に、編集の人がそう言う本を読んで尾田先生にそういう話をして、結果漫画の中であのような仏教的なモチーフが出てくるに至ったのだと思う。

けれども、漫画家も編集もその事を知らなかったり、チェックに漏れたりするとちょっとした間違いが漫画の中に出てきてしまう。

なので、今回はそのちょっとした間違いをあげつらいます。

まぁ多少はね?

まずは『ヴィンランド・サガ』から。


(『ヴィンランド・サガ』18巻より)

何の変哲もないシーンだけれど、僕はある一つの事が気になった。

この豆何なんだろう。

見た感じインゲン豆っぽい。


(Wikipediaより)

まぁ僕らが普通、豆って言ったらこういう形の豆をイメージする。

もしくは大豆ですね。

なのだけれど、豆っていっぱい種類がある。

僕は珍しい食べ物が好きだから、食ったことがない豆を求めて色々ググったけれど、日本だと珍しい豆はあんまり手に入らないらしい。

ひよこ豆とレンズ豆は食べたから、もっと珍しい豆を食べたかったのだけれど。

その延長で色々豆を調べた結果、色々な事が分かったけれど、まぁどうでもよろし。

『ヴィンランド・サガ』については、早い話、当時のヨーロッパにはグリンピースとかソラマメはあったけれど、インゲン豆も大豆も存在していないから、あのような形の豆はないということ。

多分ね。

ていうかそこまで考えて描いたわけじゃなくて、豆を飛ばそうとして適当に豆を描いたから適当な豆が描かれたに過ぎない。

ここで、編集の人が「インゲン豆は中米原産であり、大豆は中国であり、どっちもまだ北ヨーロッパ世界にはない」という知識を持っていたらあの豆が空を飛ぶことはなかったのだけれど、しょうがないね。

でも、『ヴィンランド・サガ』って未知の土地であるアメリカに入植したヴァイキングの前日譚なんだから、作中でアメリカ大陸原産の豆が出てきたら世界観が壊れすぎると思うのだけれど。

そんなちょっとした間違いについてでした。

まぁこの手の間違いは結構あって、『シグルイ』にもある。


(『シグルイ』7巻より)

当然の権利のようにサツマイモ食ってるけれど、当時の日本にサツマイモは無いんだよなぁ…。

青木昆陽がサツマイモを江戸の中期に導入して飢饉を救ったのは結構有名な話だけれど、作者も編集も気づかなかったなら仕方がない。

『シグルイ』は江戸初期の話だから、その当時にサツマイモはない。

ちょっとしたミスで、別に物語の何かを損なうということはないのだけれど、間違いは間違いだからね、しょうがないね。

ちなみに、『シグルイ』にはもう一つ誤謬がある。

まぁあのサイトで既に触れたけれどね。




(『シグルイ』11巻より)

だから無明はそういう意味じゃねぇって言ってんだろ(棒)。

人の心の奥底にある無明という闇を見た云々書いてあるけれど、無明って普通に光がないって意味じゃない。

む‐みょう〔‐ミヤウ〕【無明】  
《(梵)avidyāの訳》仏語。邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩で、十二因縁の第一、三惑の一とされる。(http://dictionary.goo.ne.jp/jn/215945/meaning/m0u/より)

普通に、この世界が苦しみであるということに気付けていないという状況のことを言う。

なのだけれど、字面のイメージに引っ張られるとシグルイみたいなことが起こる。

作者も編集もこの知識を持っていなかったらしい。

ちなみに、これはシグルイだけではなくて『BLEACH』でも同じ誤りはあったし、『ディスコミュニケーション』でも同じ誤りが認められる。






(『ディスコミュニケーション』7巻より)

別にこの事で物語が損なわれるということはないのだけれど、知らなかったのなら仕方ないね。

ていうか、これで秋田書店、集英社、講談社と三社の漫画に渡って同じ誤りがあったのだけれど、高学歴でも仏教的な知識はそんなに知っているモノではないのかもしれない。

まぁ僕も今年に入るまで知らなかったし、しょうがないね。

で、『シグルイ』に戻ると、まだいくつかある。

ていうか、『シグルイ』の事が好きすぎて読み過ぎていて、そういうことに気づいてしまったというかなんというか。



(『シグルイ』4巻より)

これに関してはどうしてこんな間違いが起きたのかがちょっとわからない。

鎌ェ門のへし切り長谷部が水月、伝鬼の斬馬刀が首筋に、って書いてあるけれど、鎌ェ門が持っているのが斬馬刀で、伝鬼が持っているのがへし切り長谷部になる。

斬馬刀っていうのは、二重の極み使う人が初期に持ってたでっかい刀ではなくて、馬も斬れそうなくらい刀身が長い太刀の事であって、上のページを見る限り、斬馬刀は鎌ェ門が持っている方になる。

何をどうやったらこういう間違いが起きるのかちょっとわからない。

作者の方は斬馬刀だと思って描いただろうし、うーん…。

 

あと、これは後日知ったのだけれど、そもそも大太刀を斬馬刀と呼んでいたという事実はなくて、斬馬刀っていうのは中国の武器のことらしい。

 

ってWikipediaの大太刀の記事に書いてあった。

 

『バイオレンスジャック』とか『るろうに剣心』から始まった間違いらしい。

 

僕も知らなかったから、そこら辺はツッコミ入れられませんね…。

 

まぁいい。


『シグルイ』の刀に関連してもう一つ。



(『シグルイ』15巻)

二度目の鍔迫りは脊柱に達したって書いてあるけれど、鍔迫りはあくまで刀同士で迫りあっている状態のことを言うのであって、この状態では鍔迫りとは言わない。

言うならへし切りと言った方が良い。

へすというのは押し付けるという意味。

へし切り長谷部って刀は織田信長が茶坊主を刀でへして切り殺したというエピソードから来ている。

だからなんというか、とにかく鍔迫りではない。

日本語って難しいね。

だからジョジョのこのシーンも間違っている。



(『ジョジョの奇妙な冒険ストーンオーシャン』7巻より)

顔面の何処かの骨がへし折れたようだがとか言っているけれど、へし折れては無いんだよなぁ。

とにかくへし折れてはないのだけれど、じゃあ何て言ったらヘンにならないか考えた結果、「ブチ折れる」なら問題ないという結論に至った。

ぶち折れたなら使っていいッッ!って感じだと思う。

さて。

次は『キングダム』から。



(『キングダム』5巻より)

ここで九族処刑とか言っているけれど、多分この段階では九族処刑というミームは存在しない。

九族打ち首って印象的な言葉は、『三国志』辺りで出てくるのだと思う。

『キングダム』は中国の戦国時代の話だけれど、この時代から数十年後に三族皆殺しという事例が存在していて、韓信って人とその一族がその憂き目にあっている。

韓信はクーデターを起こそうとして失敗した結果、処刑された。

中華というのは過去の事例を大切にする。

まぁ時代によりけりということはあるのだけれど、『史記』が書かれた前漢の時代だと特に、「過去にこれこれこういうことがありました。よって今こうすべきでしょう。」という論調を取る。

なので、もし韓信の処刑より前の時代に前例として九族皆殺しが存在したのだったならば、韓信はそれに倣って九族皆殺しされている筈になる。

そうなってはおらず国家転覆を狙った韓信でさえ三族で済んでいるのだから、この時代というか秦の法律では三族までしかおそらくない。

その事を知らないで、作者は三国志的な董卓の暴虐の文脈に引きずられて九族という言葉を使ってしまっている。

まぁ、仕方ないね。

・追記
検索で「キングダム 九族」というキーワードがあった。

ので、そのキーワードでググったら李斯って人のpixivの事典が引っ掛かって、見てみたら九族を殺されたと書いてあった。

ウッソだろ!?と思って早急に手元の『史記』の李斯列伝を読み直したけど、李斯は三族までしか殺されてなかった。

「父と子(李斯とその次男)は声をあげて泣き、ついにその三族はことごとく根絶された。(『世界文学大系 5b 史記』筑摩書房  昭和37年 p.163 ()内引用者注釈)」

適当な事を書いてはイケない(戒め)。

 

…以下の文章は追記に対する追記なのだけれど、この李斯って人が死んだときの楚漢戦争が舞台の漫画で『レッドドラゴン』というものがあって、それを読んでいたら李斯が九族皆殺しにされていた。

 

だからあのpxiivの記事を書いた人は、『レッドドラゴン』の読者だったのでしょうね。

 

『レッドドラゴン』の方も、董卓の九族という情報に引っ張られて九族殺してしまったのだと思う。

実際は三族です。

追記以上。

恐らく、僕よりよっぽど『史記』を原先生と担当の編集の人は読んでいるのだろうけれど、間違いは間違いだからね、しょうがないね。

まぁ『史記』なんてファンタジーをクソ真面目にやっても「読んでて面白い」以上の事はないのだけれど。

あと、『キングダム』では戦車兵が出てくる。





(『キングダム』6巻より)

ちょっとした強雑魚みたいな扱いで殺されているけれど、戦車に乗っているのって基本的に貴族なんだよなぁ。

この時代になるとどこまでそれが通用するのかは分からないけれど、太古に於いて、平民と貴族を分けたのは戦争の勝敗であって、貴族は戦車に乗っていたからこそ、土着民を蹴散らして服属させるに至っている。

なので、その戦車という技術は貴族側の技術になる。

それを平民に渡してもし、自分たちがその技術で襲われたらたまったものじゃないから、貴族側は住み分けというか技術の秘匿を徹底的に行っていたと思う。

戦車は実は高等な技術が必要で、あれって全部ドリフトで曲ったりしている。ってWikipediaだったか、civ5のwikiに書いてあった。

とにかく、貴族が貴族たる所以は戦車の技術なのだから、乗っている人たちは貴族である可能性が高い。

権威に繋がるものは形骸化しても固持されやすくて、多分まだこの時代では貴族が戦車の乗り手だった。

僕は『キングダム』を読んで、多分そこら辺知らないで描いているだろうなぁという表情を読み取った。

ただ、秦が中国を統一した後、貴族なんて言うほど残ってない筈なのに韓信が戦車兵を編成して項羽と戦っていたから、戦車の技術がどうなっているのかちょっとわからない。

まぁ、『史記』なんて数百年後の人が勝手に書いているだけだし…。

次に横山光輝版の『三国志』持ってきて鐙の話をしようと思ったけれど画像を用意するのが面倒だからキャンセルだ。

鐙って言うのは馬に乗る時に使う足置き場の事で、これがあるとないとではだいぶ違う。

なければ踏ん張りなんて効かないから、曲芸のようにただ馬に跨っている状態で槍を振り回したり弓を射ったりすることになる。

けれども、鐙が発明されたのは紀元後1000年前後…だったと思う。

『スティール・ボール・ラン』にその話があったけれど、7部はどのエピソードがどの巻に載っているか理解できるほどに読んでないので持ってこない。

とにかく、『三国志』の時代には鐙はないのだけれど、横山先生は知らなかったみたいで関羽が鐙の上に足を乗せている。

ただ、『三国志』が描かれた時代は何というか資料量不足が深刻だったらしく、張飛のメインウェポンは蛇矛ってものなんだけれど、どういうものか分からなくて普通の槍を張飛は最初の方使っている。

で、後々劉備と別れた後に再開した時から蛇矛を装備してた。

それを僕が読んだ当時は、「何処でその変な槍手に入れたんだよ」って思ったけれど、そのあたりでやっと蛇矛の資料が手に入ったって話らしい。

だから『三国志』へのツッコミは野暮でしかない。

というても、この記事自体が野暮でしかないのだけれど。

・追記
この前博物館に行ったら、三国時代の北アジア出土の鐙が展示してあった。

大体2~3世紀には鐙は発明されていたらしい。

要するに、ヨーロッパへと伝播したのが『スティール・ボール・ラン』で言及された年代みたい。

で、『三国志』についてだけれど、舞台は後漢だし、そのような先端軍事技術がそうそうに漏れるとは思えないし、まぁ中国人は鐙を使ってなかったんじゃないかな?と思う。

まぁ実は三国志の時代は戦車が現役だし、どの道時代考証はあんまり良くできていないということは確かなのだけれど。

次は『魔法先生ネギま!』から。





(『魔法先生ネギま!』12巻より)

スッゲー細かい話だし、スッゲーどうでも良いことではあるのだけれど、これね、このトルストイの『アンナ・カレーニナ』の引用がちょっと間違っている。

引用文自体は本文からだろうけれど、文脈を理解していないというかなんというか。

多分赤松先生は『アンナ・カレーニナ』自体を読んだことはないんじゃないかな…?

「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ。」ってあるけれど、どういう話かということを説明する。

幸せな家庭は相性が合って幸せで、相性が合うというワンパターンしかないから夫婦は何処も似通って幸せだけれど、不幸な家庭は相性が合わないのだけれど、それぞれ具体的に何処の相性が合わないかということが家庭によって違っているから、不幸の様を異にしているという話らしい。

って『銃・病原菌・鉄』に書いてあった。

僕は『アンナ・カレーニナ』を読んでませんね…。

だから、ジャレド・ダイアモンドが間違っていない限り、赤松先生の使い方が間違っていることになる。

ちなみに、『銃・病原菌・鉄』ではどんな時に『アンナ・カレーニナ』の話が出たかというと、家畜の話。

牛、豚、鶏、犬、羊、馬、ヤギ、アルパカ、ラクダ、ホロホロチョウ等々の家畜がいるけれど、野生の動物の数に対して家畜の種類が少なすぎる。

それは上記の家畜が家畜にするための条件を持っていて似通っていたけれど、それ以外の動物はそれぞれ理由を異にして家畜に出来ないというという話。

シマウマとか馬にそっくりで家畜に出来そうだけれど、スッゲー凶暴らしい。

詳しくは『銃・病原菌・鉄』を読んだ方が早い。

で、ネギまの話に戻ると、あくまで夫婦間、もしくは家族間の相性の違いは様々だという話を『アンナ・カレーニナ』はしているわけであって、不幸な境遇や境涯が様々だという話をしているわけではない。

だけれど、ネギまの言い様だと、文字通りトルストイの文章の意味として引用していて、引用文特有の前後関係の欠落が起きている。

そういう風には書いてあるけれど、そういう文脈で言っているのではないというかなんというか。

別に生まれとそれぞれの悲劇の話ではないんだよなぁ。

という赤松先生のちょっとした失敗。

まぁダイヤモンドが嘘ついていないという前提の話だけれど。

これくらいかな?

あと、ハンター×ハンターのツェズゲラさんの話とかあったのだけれど…。

まぁ、大したことじゃないから書くか。



(『HUNTER×HUNTER』13巻より)

ツェズゲラさん、意味分かんないこと心の中で言ってるんだよなぁ。

「何処から入手したかは知らんが 俺より進んでいるデータはあり得ん」って独白してる。

マジで意味が分からない。

いや、普通にゴンがゲームに居ないってことは知っている以上、そのデータはまるで意味がない。

何故なら、G・Iのルールでは10日以上ゲームから離れるとデータが消える。



(『HUNTER×HUNTER』17巻より)

このルールがある以上、ゴンが何処でデータを入手したにせよ、そのデータは10日以上経過しているそれであるならデータは消えている。

それとも10日以内に誰かから渡されたと考えているのだろうか。

加えて、データの引き継ぎはゲンスルーチーム以外知らない。



(『HUNTER×HUNTER』15巻より)

このことはゲンスルーが過激でゲームから出たプレイヤーを追跡して殺してみたから知っていることになる。

ゲンスルー達はこの事を知ることが出来るとして、彼らはこの情報を絶対に秘匿する。

そうである以上、ゲンスルー達以外で同じことをやった人が存在しなければその情報をツェズゲラが知ることはない。

もしかしたらG・Iの熟練プレイヤーの間では裏ルールの事が知れ渡っているのかもしれないけれど、ゲンスルーの言い振りからしてゲンスルーはこのことを自分で知ったと考えられる。

その情報がG・Iプレイヤーの間で知れ渡っていたらゲンスルーが名づけることはない。

なので、ゲンスルーは少なくともG・Iプレイヤー伝えで知ったということではないということが分かる。

一方ツェズゲラさんがその事を知っているかどうかは本編からは汲み取れない。

知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。

その上でツェズゲラさんの独白の話に戻ると、ツェズゲラさんが「何処から入手したかは知らんが 俺より進んでいるデータはあり得ん」と考えるということから導き出されるツェズゲラさんの脳内でのゴンのデータの入手方法は、この10日以内にG・Iプレイヤーと接触して且つその相手から何らかの理由でデータを譲り受たという流れであって、且つツェズゲラさんが裏ルールの事を知っていたということしか想定できない。

一応、矛盾も破綻もしていないけれど、どうだろう。

ここで冨樫先生が意図したのは、ツェズゲラのプレイ進行の自負心と余裕の演出であって、その為にあのような事を言わせただけであって、多分この時点では「10日ゲームから離れるとデータが消える設定」を冨樫先生が考えてなかっただけだと思うよ。

ていうか、その設定が頭の中にあったらツェズゲラさんはあんなことを言わないと思う。

針に糸を通すほどの繊細さとミルフィーユみたいな積み重ねがあって初めてツェズゲラさんのセリフは成り立つけれど、ねぇ…。

冨樫先生だって人間だし、ハンター×ハンターが面白いのは休載してその間にストーリーをめいっぱい考えて詰め込まるからであって、G・I編の時も休載していた。

多分、その間にセーブデータの消失の事は考え付いたのだとは思う。

別にツェズゲラさんが矛盾したことを言ったわけではないのだけれど、普通想定するなら10日以上経過した遺棄された指定ポケットのカードの消失したそれを考えるはずであって、そうではなくてしち面倒くさい状況を想定しなければ成り立たない発言をツェズゲラさんはするのだから、多分そこまで設定考えてなかっただろうという話。

これくらいかな。

あとシグルイのガバガバ年表の話があったけれど、これ二時間書いてるからもういいでしょ。

年表で書かれてる猿を射殺した年と、狒々を徳川忠長が捕獲した年がずれているという話。

だからさ、漫画家だって描きながらストーリー考えるんだよ。

年表が載っているのは1巻だけれど、この時点では忠長が猿を撃ち殺したってことにするつもりで、後々猿を伊良子が切り殺す話に変えたということ。

ストーリーは作画と同時進行で考えられている。

それは冨樫先生だって山口貴由先生でもいっしょ。

色々ほころびが出てきてしまう。

1話の時点で終わりまで想定している鬼頭先生が異常なんだってば。

だから普通に、ツェズゲラさんのあのセリフは冨樫先生の設定の練りが甘かった結果だと思う。

そんな感じ。

では。

 

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