日記を更新する。
ホントはね、ショタの話かヘーゲルの話かで迷ったけれど、両方ともキャンセルだ。
いや、ヘーゲルの話は段取りまで全て脳内で構築していて、あとは1時間かけていつも通りに書くだけだったのだけれど、キャンセルだ。
なんでヘーゲルの話をしようと思ったかといえば、『金剛般若経』という仏典を読んでたらいくらか分かったことがあったから。
ヘーゲルが読んだのはこの仏典。
で、そこから色々わかったことをホモでも分かるようにチンタラ説明しようと思ったけれど、今日は疲れているのでキャンセルだ。
あ、そうそう、あのサイトに鬼頭先生の漫画の解説書き足しといたから、はい。
なんでこんなロリペド漫画の解説しなくちゃいけなかったんですかね?
それ以上に3500円返して!
あーもう、疲れすぎちゃって支離滅裂だよ。
明日にはこの記事消してそうだと思った。
ショタの話の方なんだけれど、普通にかなり面白くはなるのだけれど、最近僕の存在を知った誰かが読んだらドン引きする内容になりそうだから自重した。
ただなぁ、結構そういう日記ばっかり書いてきたんだよなぁ、昔日記書いてたあのサイトでも。
たかだか日記を書くのに誰かの何かを憚らなければいけない理由が分からない。
さりとて、あんまり酷いこと書いてドン引かれても僕に利益はない。
だからショタの話は出来ない。
しょうがないね…(血涙)。
まぁ、ショタの話はジャレド・ダイヤモンドの『セックスはなぜ楽しいのか』という本に関連した内容になる。
この本は凄い。
何がすごいかって言えば、セックスはなぜ楽しいのかって表題の本なのに、セックスがなぜ楽しいかは書いていない。
えぇ…。
ただ、内容は非常に新鮮で、非常に面白いので評価することも吝かでない。
基本的に進化論の本ですね。
結構書いている内容がドーキンスの『利己的な遺伝子』とかぶってる。
で、利己的な遺伝子は読みづらいので、普通にセックスはなぜ楽しいのかだけ読めばいいんじゃない?
普通に面白いし。
ただ、このセックスはなぜ楽しいのかという本を読んでいて、なんというか宗教って頭が悪いよなぁという判断を多くしなければならなくなった。
まぁ、それは前々からの判断なんだけれど。
この本には面白い事が書いてある。
訓練次第では妊娠の有無に関係なしに母乳を出すことが可能らしい。
えー、マジで。
母乳が出てる期間は妊娠はしないので、薄い本が厚くなるな!
この母乳の話については、女性だけではなくて男性でもそうであるらしい。
「哺乳類のいくつかの種では、乳頭に繰り返し機械的な刺激を与えるだけで、処女メスにも乳の分泌が起こる。(中略)十代の少年が自分の乳頭を刺激した結果、乳汁分泌を起こすのは珍しいことではない。(『セックスはなぜ楽しいのか』p.84)」
こんな文章が存在する。
ん?
うん。
僕がどんなショタの話をしようと思ったか仄めかしたところで、さっそく旧約聖書の話になる。
で、なんだか聖書のルツ記には、両親を亡くした嬰児を育てることになった女性が、その子供を母乳で育てるという記述があると書いてあった。
その事を日本語以外で確かめようとして、Wikipediaのウィキソースのルツ記4章16節を英語で読もうとしたら全く読めなくて、何だこれ?と思ったら訳が1360年代のモノだった。訴訟。
で、日本語訳にはそんなこと書いてなかったから、普通に日本語に訳す時点でそういう変化が起きてしまったから正しく伝達で出来てないじゃないか(憤慨)と書こうとしたけれど、既に英語訳の時点で胸に子供を寝かせて育てたとしか書いてなかった。
こんなんじゃあ話になんないから、ヘブライ語の方を見てみたけれど、30分格闘したけれどヘブライ語で該当の記述を探すのは無理だったよ…。
いや、その後ルフ記のヘブライ語のページまでは辿り着けたのだけれど、ヘブライ語を翻訳する術がなかった。
グーグル翻訳ならある程度できると思ったのだけれど、からっきしだった。
ここで判断すべきは、ジャレド・ダイヤモンドが適当な事を言っているか、それとも普通にヘブライ語の旧約聖書では年老いた女性が母乳で嬰児を育てたと書いてあるのかということ。
うん、まぁ、そう、良く分かんなかったですね。
ただまぁ、結構宗教的判断は柔軟で、受け入れられなさそうだったらそれを捻じ曲げるなんてことは良く起きている、
割礼ってのは聖書で書かれている儀礼だけれど、普通にキリスト教徒はそこまで皮を切っていない。
旧約聖書の方にはしっかり切りなさいと書いてあるのだけれど、ペテロがユダヤ人以外に広めようとした時、受け入れられなかったらしい。
だからペテロは切らなくてもちゃんと信心があれば大丈夫ですよー、って言っている。
普通に、当時もそこに居たのが人間だと判断するならば、そういう話になる。
けれども、エホバの証人の人に話を聞いたら、割礼は真なる教えではないから割礼はしなくて良いと言っていた。
どうやって、同じように聖書に書いてある事柄について、どっちが真なる教えでどっちが真なる教えではないかを判断できるんですかね?
両方とも真として提出されている以上、行えることは沈黙しかない。
で、ここで真なる教えとして扱われているのは、割礼をしないという自分たちにとって都合の良い教え。
何故都合がいいかといえば、普通に割礼は痛いからしたくないし、そんなことを布教の場で相手に強要することは、強要しないことに比べて非常に利益が少ない。
だから、その事は利益の問題に過ぎないと判断することが妥当なのだけれど、信仰者の方々はそうは考えない。
仕方ないね。
彼らはそれで幸せなのだから、とやかく周りから言えることでもないし。
信仰ってのは実際便利で、その事が正しいか正しくないかなんてお構いなしで自分が信じるところが真になる。
これは仏教も同じ。
久しぶりに『バガボンド』読んでて、なんかねー、良く分かんない所があった。
あのー、沢庵和尚の話なんだけれど、よぐわがんにゃい。
(井上和彦『バガボンド』29巻より)
沢庵和尚のお話は長い…というか文章量がページに対して少ないから全部は引用しないけれど、天という概念が出てくる。
この天という概念は、インドには存在しない。
けれども、中国には存在している。
僕は四書は『大学』と『中庸』と『論語』しか読んでないけれど、この天の概念は『大学』で出てくる。
あと、バガボンド全体の話だと、偏らず真ん中が良いという話なんだけれど、これは『中庸』の教えになる。
(同上30巻)
で、まぁ、戦国時代の話だし、当時の一般教養であった大学とか中庸の話が出てくるのは分かるのだけれど、なんで仏教徒である沢庵が天の思想を語ってるのか全く分からなかった。
お前の宗教観ガバガバじゃねぇか。
と思ってたのだけれど、僕の認識の方にどうやら誤りがあったらしい。
どういうことかというと、そもそもの仏典の方に中国的な思想が書かれているものが存在する。
実際、僕は『四十二章経』という仏典を何も知らずに読んだことがあって、本文中に中国的な「道」の概念が出てきてめまいがした事があった。
あと、この仏典には、「春は花咲き、夏は葉が茂り、秋は実を 結び、冬は落葉する(『仏道入門【四十二章経を読む】 p.77』)」という文章があった。
まるで仏陀が居たインドに四季があったみたいな記述だぁ…。
書いたのは中国人ですね…間違いない。
でもこの仏典が偽書として謗られることはない。
今日はあんまりその事については書かないけれど、そもそもインドで書かれた仏典もガバガバすぎる。
まだ3つしか読んでないけれど、ガバガバすぎてどうしようもない。
まぁ、そういう風に中国的なエッセンスが入っていたとしても、仏典だけ受け取った日本人はそれが正しいか正しくないかなんて分からないのだから、正しいものとして受け入れるしかなくて、沢庵和尚はそういう仏教的な風土のうちに生きているわけなのだから、彼らの仏教には天という概念がそもそもに存在していた可能性が高い。
そうというより、井上先生が勉強した仏教か、吉川英治が土台にした武蔵がそういう仏教だったという話だと思う。
ここで分かることは、仏陀の教えが正しいから仏教が広まったのではないということ。
インドで少なくとも書かれたものは、僕は多くのものがただの後世の人の創作だと判断するけれど、それでも本人の教えの部分が多いと思う。
けれども、『四十二章経』のような中国の仏典は、仏陀のエッセンスは入っていようと、それは仏陀の教えではない。
カントを勉強したからって、カントのエッセンスはその哲学の中に包含してようと、フッサールの哲学はカントの哲学ではないのだから、仏陀の教えのエッセンスが入っていても、それは仏陀の教えではない。
なのにもかかわらず、仏教徒たちは自分たちは仏教徒だという。
仏教。
仏陀の教えと書いて仏教。
でも、彼らが信じているものは?
僕はそれを名状する言葉を知らない。
仏陀の世界に天はなかった。
日本だってそうだ。
天があるのは中国だけだ。
その天は仏陀の教えであることはあり得ない。
それにもかかわらず、彼らは何を信じているのだろう。
僕はただただわからない。
そんな話。
ちょっと、中盤でルツ記調べる作業で疲れすぎた。
まぁ、一切書く内容決めてなかったから仕方ないね。
そんな感じ。
ショタの話とヘーゲルの話ってどっちの方が需要あるんですかね?
需要ない?
あ、そっかぁ…。
では。