はい日記を更新するよー。
今日はね、小難しい話だから読まなくて良いよ。
当然、煩雑な予備知識がなくても読めるようには書くのだけれど、デカルトが何故間違っていると言えるのかという話になる。
いや、間違ってるんですよ、デカルト。
結局、哲学者の殆どが間違っているのだけれど、デカルトは中々にその間違いが見出しづらい。
けれども、今日仕事から帰ってくる途中に普通に何で間違ってると言えるかということに辿り着いたからその事を書きたいと思った。
いいでしょ、日記なんだから。
まずね、種々の哲学者は基本的に間違っている。
特に哲学の中で重要に扱われて、哲学を作ったと言われる程のカントがまず間違っている。
カントの場合はいくらでもその間違いが指摘できるのだけれど、哲学者たちはそれを指摘しようとしない。
カントによれば、時間と空間は直観らしい。
ほんとぉ?
だって僕はストップウォッチのように時間を直観することはできていないし、現在自分が居るところによって時間の進み方は違うし、相対性理論で時間の進み方は変化すると明らかになっている。
空間はボールを目のあたりに喰らえば簡単に歪むし、酒を飲めばぐらぐらと揺らいでしまう。
文脈上、直観で認識してると言えるけれど、だからなんだという話に過ぎない。
例えそう表現できたとしても、その直観は正しいとは限らない。
カントによれば、人間は12のカテゴリーによって物事を認識しているらしい。
けれども、そんなことはない。
僕はその12個を言えない。
これを読んでいる人で、カントを専門的にやった人がもしいたとしたならば、それはきっと言えるだろうけれどほぼ全ての人がその12個を言えない。
何故なら存在しないから。
この12のカテゴリーは、カントによって我々に与えられることによって成立する。
要するに、カントが言わなかったら存在しなかった。
別に12のカテゴリーなんてカントが勝手に言っているに過ぎない。
実際問題として、これを読んでいる人の全てが12のカテゴリーの中のいくつかによってこの文章を認識しているわけではない。
カントは道徳法則を理由はないけれど正しいと言ったけれど、僕は前々からその理由について書いている。
カントは美的判断、美しいと思える諸物には合目的性があると言った。
合目的とはそれが持つ最終的な目的のことを言っている。
美的なものはそのような合目的性を持っているらしい。
別に根拠はない。
そう見えるだけ。
こんな風に、例えばカントは間違っている。
これはカントに限るかと言えば別に限らないわけであって、基本的にイギリスの経験論者以外の全てがこの調子。
今回はその事が主題ではないのだからそれについては書かないけれど、構造が宗教と全く変わらない。
昔の人はそれだけで何か優れていたと判断されがちだけれど、そんなことは実際なくて、一つIQという指標を取ってみても100年前と今では20くらい違いが出ている。
実際は優れていなかったということが殆どで、実際に彼らの本を読んでみると、「哲学者で凄いことを言っている」という偏見を取り除いて読んでみたなら、ただの妄想の羅列でしかない。
ほぼ全てがその調子であるというのが実際のところで、確かに哲学という前提があればそれは学ぶ価値があるのかもしれないけれど、哲学という枠組みを超えて、ただ純粋にその論説が正しいか間違っているかという俎上に上げた時に、大概がただ間違っているというのが現実になる。
僕は哲学が好きじゃないから、というか上の文章を読んだらわかると思うけれど、彼らは別に正しくないから、そんなことを勉強しなければならない理由がイマイチ分からなくて殆ど哲学の勉強はしていない。
恐らく、アメリカの哲学、プラグマティズムが結構正しい示唆を孕んでいそうなのだけれど、初めて手に取ったそれがW・ジェイムスで彼はただ間違っていたからどうしようかと思った。
まぁ、その話は良い。
そんな中で、西洋的な哲学の伝統を作り上げた一人の男、一人の哲学者、一つの論説について僕は彼の言を認めざるを得ないと昔思っていた人物がいた。
それは誰かと言えば、デカルトになる。
デカルトのことは基本的に『方法序説』の第四部を読めばいい。
まぁ、内容が煩雑だから読まなくていいのだけれど、一応リンクは用意した。
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/140723CartesianQuarto.html
でも僕がどういうことか説明するからどうでもいいよ。
デカルトは、この世界の全てを疑った。
するとこの世界の全てはその疑いに果たして、ちっとも信頼がおけないということを理解する。
そのように次々に自分が認識するものを疑いのはかりにかけていく。
そうやってどんどんと懐疑し、最終的にほとんどすべてのことが否定されてしまう。
正確には正しくあるとはすることはできないという結論に至るのだけれど、ある一つのこと、ある一つの事柄だけは否定できないという答えにたどりつく。
それは、今この瞬間何かを疑っているという自分自身のことになる。
それだけはデカルトは否定することが出来なかった。
これを言われてどうだろう?
デカルトは正しいと思うだろうか間違っていると思うだろうか。
西洋の哲学者は、デカルトを間違っていると判断できなかった。
即ち、デカルトのその省察は正しいものであるとして、認識され継承され、後の哲学の骨格にあたる部分になった。
つまりは認識する主体、疑われない主体。
けれども、デカルトは本当に正しかったのだろうか。
多分、これを読んでいる人はデカルトの何が正しくないかが分からないと思う。
デカルトは、そのような懐疑する自分を信頼できる友人-勿論実際の言葉は違うとして-そう認識したけれど、この友人は本当に信頼における人物なのだろうか。
デカルトの議論に則ると、それはきっと信頼がおけると判断するしかない。
けれども、哲学から離れよう。
離れて判断してみよう。
すると、この友人はちっとも信頼できないということが分かる。
現実世界に置いて、この疑っているという自分は、本当にいつも正しい判断を下しているのだろうか。
確かに、デカルトの言った様に疑っている自分はそこにいるけれど、その彼は本当に正しい判断として疑っているのだろうか。
人間は風邪を引いたら人恋しくなる。
判断能力が低下して、正しくない判断をしてしまいがちになる。
最も身近な例としては、寝不足で疲労困憊という状態で行われる判断がある。
それは大いに疑ってしかるべき判断であって、その判断をしている自分は間違いを実際問題として起こしている。
怪我をすればその瞬間はその怪我のことしか考えられなくなるし、親しい人を亡くしたらメランコリックな判断しか出来なくなる。
震災に巻き込まれたとしたならば興奮状態できっといつもと違った判断をするだろうし、酒を飲んで浮れていたならば、きっといつもはしないような軽率な判断をしてしまう。
デカルトはある意味では正しい。
確かに、その疑っているという自分はそこにいる。
けれども、その疑っているという自分という彼は、絶対的な真理として全ての出発点と置ける信頼すべき友人ではないということ。
彼は簡単に判断を誤る。
だとしたならば、デカルトがそうしたようにその事を出発点として全てのことを演繹することなんて出来やしない。
けれども、デカルトはそうしたし、後の人々も彼の轍を踏んだ。
それは何故か。
僕は哲学関係の本を読むといつも感じることがある。
それは基本的に西洋哲学で見られることで、何かと言えば「キリスト教の話のかな?」ということ。
哲学の話のはずなのに、キリスト教を前提とした話ばかりが繰り広げられる。
これについては、僕の方に誤りがある。
西洋哲学はイコールでキリスト教と言って良い。
インド哲学はウパニシャットや仏教の話だし、東洋哲学は儒教という宗教の話になる。
方法が全て一緒。
結局、やっていることは宗教も哲学も変わらない。
経験論者以外の哲学者は、等しくキリスト教の護教者になる。
「神は死んだ」と言ったニーチェが居るじゃないか、と思うかもしれないけれど、そもそも神が存在しなければ死にはしない。
要するに、ただのキリスト教の延長戦の話に過ぎない。
W・ジェイムズの議論を見てみる。
すると、彼が何をしたかったかが良く分かった。
彼は自分の信仰を守りたかった。
彼は基本的に経験論者なのだけれど、経験論的に物事を考えると、神はいなくなる。
経験論というものは実際に存在するものから出発する議論であって、実際に観測されたものしか問題にされない。
反対に合理論というのは…まぁカントが言ってたからとか、フッサールが言ってたからとか、はたまた直観的にそうだから、という議論をする人々のことを言う。
この直観というのが問題であって、この直観は等しく神を認識するそれのことであって、人間は直観的に神を認識する。
それは言語活動ではなくて、感覚的な物になる。
僕の父親は熱心な浄土真宗の教徒だけれど、ある日ふと阿弥陀様に後生を守られているということを理解して、全てのことが軽くなり、救われたと話していた。
これが直観になる。
キリスト教か日本的な仏教かという差はあるのだけれど、認識の構造として全く同じ脳みそのある部分が働いて、そのように感じるに至ったという話に過ぎない。
だから、合理論が直観を信じるということはどういうことかというと、イコールで神を信じるということになる。
逆に、経験論的に直観を認めないとしたならば、神を否定することになってしまう。
経験論者は根拠のない合理論者を馬鹿にするけれど、合理論者は経験論者のことを馬鹿にしている。
それは何故かと言えば、経験論者は神を否定しているから。
合理論的な直観は、経験論的には認識しようがない。
根拠はそれを言っている彼にしかない。
僕は当然そのような無根拠を馬鹿にする以上、きっと経験論者なのだと思う。
日本人的な感覚では神を否定することがイマイチつかめないだろうけれど、感覚としては例えば自分の親のことを蛆虫だと公言しているような理解できないそれなのだと思う。
道徳的に親のことをそのように言って良い道理は普通ない。
基本的にキリスト教は道徳になる。
日本の道徳は特殊だけれど、世界中の殆どの道徳はイコールで宗教が与えてくれる。
昔の人は馬鹿だから、基本的にその事が悪いと思っても何故悪いかまでは分からない。
だから、神様に代わりにその事は悪いと言ってもらうことで、心のもやもやを払おうとした。
実に合理的な判断だと思う。
なにせ、当時はそれは解決不能な問題だったのだから、そのような当座の解決方法が用いられたなら、それは仕方がない事でしかない。
けれども、実際問題において現代では科学が進み、過去に理由も告げられず禁じられていたことが、その合理性が明らかになってしまった。
だけれど、伝統として宗教特にキリスト教が与えた道徳が「答え」になってしまっている以上、新しく正しい答えを受け入れられない。
だから進化論を否定する。
現実は彼らにとってどれほど不条理だろうか。
けれども、それがただ正しい在り方である以上、本来的には受け入れるしかない。
然れども、彼らは受け入れない。
彼らに受け入れさせる方法はない。
彼らが幸せならそれでいい。
それの何が間違っているのだろうか。
それと同じように、哲学者は信仰を捨てきれない。
時が進むにつれて、信仰が不合理を伴うようになってくる。
けれども、彼らは信仰を捨てられない。
何故か。
当然、彼らはそれが正しいとされる土壌で育ち、それが正しいと思って生きているからだけれど、その事を疑問に思うことを許さない風土が存在するから。
例えば、僕がこの瞬間に天皇が如何に無価値かを声高々に喧伝したとして、それはきっと謗られるしかありえない。
実際問題として、尊敬して敬拝する理由なんて一つたりともありはしないのだけれど、風土がそれを許さない以上、それを公言することは賢い判断とは言えない。
W・ジェイムズの議論にはそのようなものが見て取れる。
即ち、経験論的な判断が正しいということは分かるのだけれど、そうとすると信仰を捨てざるを得ないし、周りから無神論者のレッテルを貼られかねない。
そうとすると不都合があるから、その折衷案として、プラグマティズムを持ちだし、合理論と経験論を統合しようとした。
詳しい議論は煩雑だから良いよ。
これを見ればわかるように、哲学の問題はただのキリスト教の問題でしかない。
じゃあ、デカルトは何故、その疑っているという自分を信頼できたかという話になる。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。1:27
これは創世記の一節だけれど、人は神の塑像ということ。
神に似せて作られた以上、この疑っているということは神がするそれと同じ営みということになる。
結局、彼はキリスト者だった。
方法序説にはそこまでキリスト教的な話は出てこないけれど、他の著書を見れば彼がキリスト者だということが分かる。
要するに、哲学はキリスト教の問題でしかない。
だから僕はそんなことを勉強する理由を見いだせないし、きっと必要なんてないと思う。
ただ一つ疑問なのが、それがさも正しいというようにこの世界の片隅に鎮座し続けているという現実になる。
それは西欧世界ならいいと思う。
神の国しかないのだから。
けれども、どうして日本でまで?
恐らくは多くの人が権威主義だからだと思う。
まぁ、実際のところは分からないけれど。
という日記。
長いな。
何文字だろう。
ちょうど一時間で、5455字か。
普通だな!と言おうとしたけれど、結構書いたな。
そんな感じです。
では。