日記を更新する。
僕は哲学科出身だけれど、哲学的な営みの全てを否定的な目で見てきた。
何故だろう。
多くの事柄、哲学で勉強して身に付けた事柄、哲学書で散見するような事柄、哲学的と言われるような事柄、一般的に哲学と言われるような事柄、それらに対して僕は何を思ったのか。
一般的に哲学と言われるような事柄が知りたくて哲学科に入ったけれど、けれど。
僕が求めたものはそこにはなかった。
というよりも、僕が求めていない様なことが大概でそのような事柄があまりの多すぎた。
だから僕は哲学は無意味と判断した。
この前、なるたるの須藤の記事に於いて、僕はだいぶひどい目を見ている。
相手は自分の願望がすべて正しいと思い込んで、その願望の結実を計る為に、彼女の脳内にしか存在しない真理を普遍的なものと押しなべて、僕にそれを承認することを要求してきた。
彼女とのやり取りはクソみたいな時間だった。
僕は彼女とやり取りに随分と辟易して疲労もしたけれど、あの出来事が実は僕という存在について、いや、僕の考え方について大きく及ぼすことになった。
彼女とのやり取りで一つ分かったことがある。
それは「願望から出発する論は全てクソである」という一つの在り方になる。
これについて、それだけを読むと何だそれは当たり前のことじゃないか、と思うかもしれない。
けれども、この事について、願望から出発するやもしれない全ての議論について考えてみて、この事が煩雑な議論の多くを惹き起こしているという現実を僕は認識した。
一つ、進化論について。
進化論を否定する人たちはいる。
まぁ、居るのは良いよ。
問題は次の事柄になる。
進化論を否定するのは、キリスト者しかいないという現実。
もしくは宗教家かな?
どの道、自分が信じる創造、キリスト教なら天地創造に続く神による人間の構築、それが聖書にしるされている。
彼らはそれを正しいと思う。
正しいと信じる。
正しいと願望する。
そこまでは良い。
けれど、聖書が正しいという前提が存在すると、進化論という一つの理由を持った考え方が自身の願望するところと合致しない。
するとどうするだろう。
どちらかを否定するしかなくなる。
当然、彼らの願望は聖書は正しくあることなのであって、そうである以上、進化論を否定するしかない。
彼らの進化論の否定の議論は、正直何を言っているのかわからない。
エホバの証人に聞いた時、ライオンとトラがライガーとして一代しか子孫が残せないという事実は、それはやはり神がその二つの種類を分けて作って、それを乗り越えて交配させようとするから上手行かないと言っていた。
けれども、ライオンとトラいう区別は人間が恣意的に作ったもので、交配が出来ないから別の種類として人間が分類したに過ぎない。
彼らの思考停止、全て神の思召しによって成立するという思考停止はどうして起きるのだろう。
全て神が理由になるからだろうか。
でも、何故神が理由足り得るのだろうか。
それは彼らが信仰者だから。
神を信じているから。
神の存在を願望しているから。
普通に考えて神は居ない。
神を原因の説明に使えばそれは説明は楽になるから正しいように感じるけれど、神が存在しないという前提で行われる説明は、その説明に対する「納得」を除けばすべて成り立つ。
一番根っこの部分、それを受け入れるということは個人の問題なのであって、そんなもの全体に及ぼすことはない。
人間は何故死ぬのか、という問いに対して、テロメアが複製の限界を迎え老化し、それによってホメオスタシスが保てなくなった、という答えが存在する。
というか、それが答えになる。
けれども、それでは納得できない。
何か違う意味が欲しくなる。
何故だろう。
とにかく、自分が欲するところの意味がそこに存在しなければそれは答えではなくなる。
哲学もそこに関しては一緒であって、正しいからそれは哲学の学説なのではなく、それに賛同する人が多く存在するからこそ哲学の学説として成り立つ。
ヘーゲルは世界の全ての事象は対立しており、対立の結果、自分ではない対立する事象を否定することによって確立されると考えたけれど、普通に考えてそんなことは物理的に起きていない。
けれども、哲学の世界ではそれがある種正しい事として成り立っている。
頭がおかしい。
しかし、彼らはその答えにある種の納得を得ている。
結局、それは正しくないと否定するということは非常に難しい。
例えば僕がこの場で、この世界には目には見えず現在の観測機では観測できないが、微量の影響物質が存在しており、それが我々の情緒に及ぼしているという現実が陰ながらあり、我々が体調を崩したり回復したりということにランダム性があるのはその物質の濃淡の問題だ、と権威ある立場からさも本当の様に難しい言葉で長々と説明した場合、それを否定するということは非常に難しい。
しかも、哲学の場合に於いてはその学説が多分な累積の結果でてくる。
ヘーゲルを否定しようとしたならば、ヘーゲルの前の星のような数の哲学者、それを経てカント、更に中間の哲学者を経てデカルト、それが終れば中世哲学の諸人、そうしてアリストテレス、プラトンという様に一々遡らなければまともに否定できない。
そして、それを否定できるような知識の蓄積が存在するのは、そのようなものをある種正しいと受け入れてきた哲学の民しか存在しない。
だからただ間違っているというのにそれがさも正しいとして扱われているのに関わらず、それが一切是正されないというクソみたいな現状が起きてくる。
哲学は大体においてそういうことになる。
宗教者の願望に話を戻す。
とりあえず、彼らの価値観は人生のどこかの段階で完成されてしまった。
その完成された価値観の中には死生観も存在する。
キリスト教に限定するならば、生も死も、この世界に存在するすべての事柄も、全て神によって構築されているという前提が存在する。
その前提がある以上、彼らの納得は何処に終着するか。
それはやはり神の動因そこに存在して初めて成り立つ。
つまり、進化論に於いてもそれは同じであって、実際に進化論は彼らにとっても一部正しいと思えるようなところが存在するのだろうけれど、そこに神という要素が存在していないから納得できない。
だから、進化論を否定する。
彼らの願望は進化論を否定することになる。
進化論は、ダーウィンがもたらした大枠をはるかに超えて、微細な領域、遺伝子の分析など非常に精密な方法によって確かな学として成り立っている。
けれども、彼らの願望はそれを平然と捻じ曲げる。
しかも、その動機はただ神を聖書を信じたいというだけなのだけれど、その為に膨大な量のテキストを構築する。
それを読むとなんだかこの人たちは間違ったことを言っているわけではないのではないかと思えてくる。
けれども、その説明に神を用いれば確かに成り立つとして、そもそも神が正しくない。
どうして、紀元前の今の高校生にも劣る学の蓄積しかなかった誰かが、何の根拠もなく適当に書いたかもしれない文字の配列が、ただの私小説が正しいと断言することが出来るのだろうか。
結局、聖書は正しい、という前提なしでそれを正しいものとして扱うことはできない。
ここで第一に聖書は正しくないかもしれない、と考えなければならないのでだけれど、彼らにその発想はない。
何故なら、彼らには聖書は正しくあってほしいという願望が無意識のレベルで存在するから。
人間は基本的に保守的な存在になる。
特に成人してからは、それは殆ど揺るがない。
文化が可変的なのは、青年期までになる。
そこから先はもう、既にあるやり方を変更することを拒む傾向にある。
それは猿のレベルでも同じであって、もはやそういう性質であると言ってもいい。
それが聖書によって構築されたならば、それはもう変更できない。
けれども、その変更できない考え方に真っ向から対立して、進化論が出てきたとしたならばどうするだろうか。
進化論は実際正しい。
だけれども、自分の考え方は変えられない。
ならば、進化論は正しくないと変えるしかない。
結局、彼らの願望は事実を平然と捻じ曲げているということになる。
そして、この事はほぼ全ての人間で起きている。
この前のなるたるの記事、彼女は恐らくは須藤は混沌であるということで成熟してしまったのだと思う。
その後に正しいと思えてしまうようなことを目の前にして、自分を変えることはできずに目の前の物を変えようと画策した。
当然、間違っているのは彼女方なので、言葉は虚しく全て言い返された。
哲学はどうだろう。
恐らくは、そのようなことが起きている。
一方でたちが悪いのは、彼らは膨大なテキストを内に秘めているということになる。
そして、彼らの言葉を否定するには、その膨大なテキストを否定者も持たなければならない。
そうである以上、哲学を否定するということは並々外れた営みであって、しかもただ研究者から鼻つまみ者として扱われるだけであって、誰にとってもそれを行うメリットはない。
だから、哲学何ていうクソが未だに残ることになる。
そして、哲学者には願望がある。
それは「真理は存在して欲しい」という願望。
真理ってなんだろう。
真なる悪、真なる正義、真なる人間、真なる自由。
とにかく、物事に究極的に理想的であってほしい在り方になる。
真理とは本質とも換言できる。
人間の本質、自由の本質、知恵の本質、価値の本質。
けれども、それは存在しない。
あるのは哲学者の、そうしたものは存在して欲しいという願望だけになる。
カレーを考えよう。
カレーを考えてみよう。
真なるカレーは存在するか。
カレーとは何ぞや。
数種のスパイスを混ぜたスープ上の半固体のものになる。
数種類のスパイスにカレーの本質が存在するのか?
例えば、日本人がカレーをカレーだと思う香りはクミンというスパイスがもたらしている。
けれども、クミンは日本のカレーにしか入っていない。
それともあの茶色さをもたらすウコンにその本質があるのか?
いや、ホウレンソウの緑色のカレーにはウコンは入っていない。
じゃあ、半固体状のスープが本質か?
スープカレーはカレーじゃないのか?
つまり、特定のスパイスも、ルーも何もカレーの本質足りえていないことが分かる。
カレーは数種類のスパイスが入った状態の何かでしかないわけであって、そのすそ野は広く中心部はない。
つまり、真なるカレーは存在しない。
これはただある事実だ。
ただ、事実として真なるカレーは存在しない。
これはあくまでカレーの例だけれど、何故、真理においてもそれが真理が存在しないと考えないのだろうか。
何故?
そんなことは分かっていて、真理はあってほしいと願望されているから。
この願望が全てを駄目にする。
全ての議論をクソにする。
日本軍が当時優良だったと考えたいから、日本は仕方なく戦争してアジアを開放したということになっているし、アメリカは正義のために戦争して欲しいからそういうことになっている。
普通に考えて、日本は自国の利益のために戦争したし、アメリカも自国の利益のために戦ったに過ぎない。
けれども、願望がそれらを全てそうさせない。
ただの事実ではなく、自分の願望に沿った学説しか採用されない。
そしてそれを他人に強要する。
願望は全てを駄目にする。
事実を平然と捻じ曲げる。
フロイトの議論も全てそれで、人間の発想の全てが性的なそれが原因であってほしいという願望から全ての議論がなされている。
それがクソでなくて何がクソか。
少し長々と書きすぎたためにこれくらいで。
まぁ、連続で次の記事書くつもりだけれど。
では。