日記を更新する。
本来的にタイトルは「メルヘン論における視点の欠如の問題への考察」が最もそぐうのだけれど、そう言った小難しいタイトルにすると、とかくアクセスが悪い。
よって、そう言ったタイトルにはしないけれど、内容はそういう内容です。
この前、200円で売ってたから『メルヘンの深層心理』という本を買って読んでみた。
いやね、メルヘンといえばなるたるですよ。
なるたるの事で何かの足しになるかなぁ、と思って買って読んだのですよ。
嘘だけど。
実際このようなものが役に立つはずはなくて、このようなものは大概、既存の心理学者の学説に則って妄想が繰り広げられている、と予想してから読み始めた。
で、結果どうだったかといえば、当然、既存の心理学者の学説に則って妄想が繰り広げられていた。
まぁ、そう言うもんだからね、メルヘン論って。
実は、メルヘン論を呼んだのは2度目で、以前にルドルフ・シュタイナーという哲学者?いや、多分宗教学者だな、の『メルヘン論』を読んだことがある。
なんというか、基本的に根拠は存在しないし、言ってることがアレ過ぎて内容の一切を覚えていない。
ただ、メルヘンという言葉は「ひとしずくの大海原」とかいった意味であるという言葉だけを覚えている。
他は覚えているに足る何かは存在しなかった。
で、今回は『メルヘンの深層心理』か。
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こんなの…
えーと、内容はメルヘンの物語をユングの学説に則って考察するといったモノ。
良いんだけどさ、根拠は何なのさ、根拠は。
次のは『池に住む水の精』という童話の考察の一部からの引用なのだけれど、それはどうなんだろうということばかり書いてある。
「ある日の事、狩人は鹿を追いかけて射止めた後、血だらけになった手を洗おうとして、いつの間にか例の池に近づいてしまいました。<鹿>は異性、<追いかける>は欲望、<射止める>は獲得、<血だらけ>は性的結合を意味すると考えて間違いないでしょう。(森 省二『メルヘンの深層心理』p.135)」
多分間違いあると思うんですけど。(名推理)
なんなの?
根拠は何なの?
なにに基づいてそれを言っているの?
勿論ユングだろうけれど、ユングが言っていたらそれで正しいの?
違うでしょ…
そういう風にも取れるし、一方でそうでないかもしれない。
というか、視点が足らない。
どんな視点が足らないかといえば、その物語を作った人間の、その作り手の視点が足らない。
このようなメルヘンは誰が作ったか、それは分からないよ。
けれども、それを語っていたのは親であって、それを聞いていたのは子供でしょう?
どんな親が子供にそんな外界でのセックスの話を子供に聞かせるの?
特にこれらはヨーロッパのメルヘンなのだから、性的なものは子供に教えるのは当時では厳禁でしょう?(ラッセル『結婚論』)
だから、作り手の意図に性的なものはあり得ないのだから、作り手の意図に則った解釈が必要になる。
これは例えばメルヘンだけれど、このようなものは小さい子供が楽しむために作られている。
現代で言うところの『アンパンマン』とかそういったモノだ。
アンパンマンも恐らくは、メルヘン論と同じ仕方で解釈できる。
森でかばおくんがバイキンマンにいじめられていて泉に落とされて、それをアンパンマンが救い出した後にバイキンマンをアンパンチで吹っ飛ばした、という一連のエピソードがあるとする。
それをこの本に則って、というかユングに則って解釈するならば、森は自身の無意識の象徴であって未知の空間であるので、そこで外敵に襲われるということがあるのだから、ある少年の精神的な葛藤の事を意味していて、その末に泉に落ちたのだから、泉というものは湧き上がる無意識の源泉であって、そこに沈んだということは深く内的なものへ埋没していったということを意味していて、それを空から飛翔するものが助け出したということは、その空から来たものは外界からの刺激によって形成された新しい自分であって、その自分が泉の中から引っ張り出し、その無意識への埋没を惹き起こした存在を倒して除けたのだから、精神的な成長を意味していて、弱い自分を打破して新しい自分を作り出した一つの物語である、と解釈できる。
出来るけれど、こんなの正しいと思ってるの?
正しいわけないでしょ…
ただの妄想じゃないですか…
やなせたかしは絶対そんなこと考えて作ってない。
これはアンパンマンだけれど、そのアンパンマンとメルヘンと、何が違うのだろうかということが問題で、実質的なものは全く変わらない。
喜ばせたい子供が居て、それに対して誰かが物語を作って与えたという構造が揺らぐはずがない。
親が居て、語り部が居て、それを子供に聞かせるという構造しか存在しない。
多く、メルヘンで見出される典型が存在するわけだけれど、おそらくそれはそのようなものが子供に受けやすいという話に過ぎない。
それ以上はない。
頭の固い人たちは、そこに人間の源泉があると考えて無理な解釈ばかりしているけれど、実際はそのようなものを聞いた子供が喜びやすいという話に過ぎなくて、古今東西子供が好むものはある程度典型があるということ。
探るならそういうことを、どんなものが子供に好かれるかということを探らなければならなくて、人間の源泉はというものは存在しない。
子供が何を喜ぶかは一つの興味深いテーマだけれど、そこを追求しないで意味不明な深読みばっかしている。
例えば、力のない子供が成功する話が多いとあるけれど、それに対してなんて書いてあったか忘れたけれど、高尚な解釈がなされていた。
けれども、物語にふけっているような子供が力がないということに過ぎない。
力のない子が、それでも成功する話を好んだために多く語られたということに過ぎない。
末っ子が主人公の事が多いと書いてあるけれど、それに対して「新しい未来を切り開いていく主人公は、跡継ぎなどとして制約を受ける兄や姉よりも自由な立場の末っ子の方が適役だからでしょう。(p.95)」と書いてあるけれど、実際は最後に語ったのが末っ子だからに過ぎない。
要するに語り部が長男から順々に語って行って、最後に語られるのが末っ子なのであって、メルヘンを本にして収拾する段階になって、その末っ子用に作られた物語が多く残っているということに過ぎない。
それ以上はない。
僕はこういった根拠に基づかない妄想的な議論が…といっても僕も彼らと立脚点が違うだけだけれど、とにかくそういった議論が嫌いで仕方ない。
少なくとも僕は実際的なところからスタートする。
多く、人々は昔の人を神聖視しすぎている。
武田信玄が優れていた、って言ったってさ、ただのおっさんだぞあの人。
けれど多くの人は武田信玄が優れていると勘違いしていて、それと同じように過去の哲学者とか過去の学者の言うことを吟味せずに受け入れている。
ユングの何処に正しいものがある?
あいつは…自分が400年前にどこの家庭でどんなことをしていたか覚えているような妄想家だぞ?
信じるに値する何かが存在するのか?
僕はそもそも存在しないと思うし、議論を読んでみても根拠が脆弱過ぎる。
妄想から始まって、妄想に終始している。
次の文は『裸の王様』で最後に王様の裸を指摘した子供に対しての解釈の言葉なのだけれど、それにしたってなぁ。
「このように、<いたずら者>には秩序を破壊するパワーがあります。そのとき、彼らは相手の心の影の部分を暴き立てるので、人々はいやおうなく無意識の問題に直面させられて、生き方を考えなくてはならなくなるのです。その結末が混乱を引き起こすだけならば、いたずら者は人騒がせな、単なる「破壊者」に過ぎませんし、新しい秩序を導くことになれば、「英雄」にもなりえるのです。(p.185)」
という事が書いてある。
書いてあるけれど、裸の王様なんて聞いた子供は「なんて馬鹿な王様なんだ!」と思って笑う以外の事はない。
笑わなかったら語り部の話し方が下手なんだ。
語り部にはこの物語を子供にして、笑って貰おうという意図しか原初存在しなかったはずだ。
世界は単純で実際的なものしか原初存在しない。
中世の人々だって僕らと同じ人間であって、僕らと同じような事を考えて生きている。
その上で僕らが子供たちに物語を語って聞かせようとした時に、子供を楽しませようということ以外何か存在するのだろうか。
僕らは既存の物語を語るのかもしれないけれど、それをもし作り出さなければならないとして、そこに無意識的源泉などを意識して作るだろうか。
恐らく、作るとしたら子供が喜んでくれるようなものを作るし、喜んでくれなかったら喜んでくれるように物語を少し変える。
変えた結果が今残っているペローの寓話やグリム童話、種々のメルヘンになる。
つまり、そこには子供がそれを聞いて喜ぶか否かという判断しか存在しえない。
メルヘン論という学問には、あまりにも作り手の視点と聞き手の視点が欠けている。
それを考慮するならば、それ以上の事はあり得ない。
もしかしたら100年後にはアンパンマンが同じように精神分析的に解釈されるようになるのかもしれないけれど、そうならなければその営みが欺瞞に満ちていることに気づけないのだろうか。
根拠なんてないんだから、それに価値があるとは思えない。
あのサイトにもなるたるの事を精神分析的に解釈したものを求めてのものと判断できる検索ワードがあった。
確か「なるたる ラカン」だったけれど、精神分析なんてどこまで行っても妄想なのだから、そのようなものに価値はない。
という話。
どうだろう。
どうなんだろう。
勿論、なるたるも精神分析的に解釈できるけれど、価値があるようには思えない。
どうせコメントは貰えないものだと思っているので、はい。
では。