日記を更新する。
タイトルなんだけれど、「哲学を否定するということ」とどちらが良いか悩んだけれど、この日記では華美なタイトルの場合が多いからその轍に倣うことにする。
今日は僕が常日頃から考えている哲学という学問の不毛さを書くから、当然小難しい話になる。
要するに面倒だと思えば読まなくていいし、別に読んでも面白いとは限らない。
まぁ、そんなのいつもの事だけれど。
さて、今さっき例の水谷先生の授業を受けてきた。
授業は去年受けたそれと細部が違うだけなのだから、割とここに書きたい内容はない。
ただ、話の中で現在の心理学の第一人者の話があった。
彼は上智大学の哲学科出身で常日頃から哲学を否定していたという。
ここで水谷先生は「哲学を否定すること」を話す。
曰く、「真理の実在を否定すること」を言うらしい。
僕はこれを聞いた時、やはりというかなんというか、哲学はやっぱりこの世界に不要だな、と思わざるを得なかった。
以下ではその理由を書いていく。
さて、真理とはなんだろう。
おそらくそれは「真なる」という形容詞のつく言葉になると思う。
真なる悪、真なる善、真なる平和、etc..
本当のでも良い。
本当の愛、本当の友情、本当の勇気、等々。
こんな抽象的な概念でなくてもよくて、真なる赤でも真なる青でも良い。
こういうものを求める営みが哲学だという。
もし、そういうものを探求しなくなったら、哲学ではなくなるという。
僕はそれを聞いて、哲学が本質的に不要であると再認識した。
まぁ、本質も哲学用語なのだけれど。
考えてもらいたいことがあって、例えばその…なんだっけ?
真なる善でもいい。
それについて、それがあると考える理由に「あって欲しい」という感情的な理由はないだろうか。
恐らくはあると思う。
僕だってそのような漠然としたものを求めた時期があるのだから、そのようなものを求める人の心理というものは理解できる。
僕はそのようなものを探求していた時、確実に「あって欲しい」と思っていた。
僕の場合はもっと違って、「生きる意味」とかになる。
実に哲学的だなぁ。
けれども、この生きる意味を求めるという事はどういうことかというと、生きる理由を求めているということ。
生きる理由が欲しい、生きるに足る何かが欲しい、今はここにないけれど、その理由となるものを、なり得るものを渇望していた。
これは例えば僕の場合だけれど、どうだろう。
感情的判断は果たして存在しているのかいないのか。
そんなもの考えなくたって、存在している。
けれども、この感情的な判断は果たして重要なのだろうか。
恐らく、哲学を志した人々は、そのような真理を「渇望した」。
けれども、それは欲しいという感情に過ぎない。
ここでラッセルのティーポットの話が出てくる。
いや、幽霊でも良いよ。
先に幽霊の話をすると、幽霊が居ると信じている人は、「居てほしい」と思っているに違いない。
論理を重ねれば重ねるほど、幽霊などあり得はしない。
何故存在するのか。
みんな気づいている思うけれど究極的な理由は死が恐ろしいから、ということになる。
主観の永続が人間の根本動機であるので、その存続が原初に理由としてある。
つまり、死ぬということが恐ろしいから、続きを考えるということが始まりになる。
そしてその後は、そのようなものが居るという前提で、暗がりに見た柳でもなんでもいい、とにかく人の形に見えるようなものを人間と勘違いして、そこから幽霊が居るという前提なのだから、死後の永続が欲求としてあるから、幽霊を認識してしまう。
主観の永続ではなくて、関係者の永続でも良い、とにかく失われることが怖いから、ということが本当の原初にはあると思う。
人間の知覚は基本的に錯誤しやすい。
車を正面から見た時に顔を連想するのもその一例になる。
これは車と分かっているけれど、それが暗がりの漠然とした何かが顔に見えてしまったとして、それを見たという事実が彼や彼女にはある。
けれど、普通に考えたらそれは脳の錯覚に過ぎない。
それでも、彼や彼女は自分が見たと信じているので、見たということを否定する理由なんてこの世界にいくらでもあるというのに、自分が見たのだからという論拠に依らない主観的な主張をする。
じゃあ、主張をするのは何故だろう。
見たと思いたいからだ。
合理的に考えたらそれは暗がりに見た顔や人影のように見える要素を包含する見間違われた何か、に過ぎない。
それ以上でもそれ以下でもない。
けれども、その人は感情的に合理的な判断を退けて、自分が見たのだから間違いない、間違っているのはそれを否定する全ての人達だ、という。
ここに感情は存在するだろうかしないだろうか。
あるのは合理性に基づかない、感情論だ。
自分が見たのだから見たのだ。
自分がそう感じたからそうなのだ。
見たことがなくて幽霊を信じている人は、まさしく上に書いたこと一切が不要なレベルで「居てほしいから居ると思う」と考えているはずだ。
もしかしたら居てほしくないけれど、居るという人もいるかもしれない。
けれど、究極的に自分自身に問答して、本当に心の何処にもいてほしいという感情が存在しないかどうかを確かめてもらいたい。
嫌よ嫌よも好きの内、ではないけれど、何処か居てほしいという感情がないだろうか。
本当に居てほしくないなら、論理的に否定すれば良い。
人間は知らない何かが恐ろしいのだから、究極的に理詰めをし続ければそうした未知なものに対する恐怖はなくなる。
根源的な恐怖である死を除いて。
この事は恐らくは幽霊を信じない人にとっては筋が通っていると思う。
けれども彼らは、感情的に自分が幽霊という存在を信じたいからそれを信じ続ける。
ラッセルのティーポッドだって同じだ。
神を信じる人に、ラッセルは「神の存在は否定できない。一方で、衛生軌道上に我々の天体望遠鏡では絶対に観測できないティーポッドが存在することは否定できない。」と述べている。
要するに、神を否定できないから存在すると主張する人は同時に衛生軌道上に存在するティーポッドをも否定できないわけであって、信仰を強要することは、ティーポッド存在を強要することに等しい。
ラッセルに反論する人は感情的に神が存在して欲しいというところから始まる。
ここで、哲学に戻る。
幽霊を信じる人は、居てほしいという感情に基づいて主張するということはまぁ良いと思う。
多分殆ど納得と賛同は得ていないだろうけれど。
一方で哲学における真理はどうだろうか。
僕は無いと考えている。
無いものは無い。
この三千世界に想像上を除いて火を吹く竜や、空飛ぶ魔女が居ないように、ないものは無い。
だって考えてほしい。
真理を探究し始めたのはいつだ?
紀元前何世紀だ?
タレスから始まるのか?ゴウタマ・シッタールダから始まるのか?
もう2000年以上経っている。
けれども、その真理とやらは見つかったか?
見つからない。
何故なら無いから。
あるのは自分が納得できるかどうかだけだ。
考えてもらいたいのだけれど、連綿と続く哲学の営み、それは大層なものなのだと思う。
けれども、そのような真理を求める探求に、答えの存在しないものへの探求にどれ程の価値があるのだろうか。
錬金術を考えてもらいたい。
彼らは科学的に金を作り出す方法を探求した。
けれどそんなものは存在しなかった。
例えば今も錬金術を志している人が居ると仮定しよう。
彼は利口か愚か者か。
ただの馬鹿だ。
無いものを求めてどうする。
無いと分かっているものを、探求してそれ故に自分が賢いと吹聴していたとしたらどうする。
身内だったら滑稽を通り越して心配になってくる。
これが真理を求める哲学だ。
彼らは頭が良いと自認して、存在しないものを存在するとして探求している。
何故探究するのか。
あって欲しいと思うから。
感情的なものは議論から廃絶すべきだ。
同性愛が最近アメリカで合法になった。
それに対して否定的な意見を述べている人に、感情的な理由がない人が居るのだろうか。
感情的な理由は目を曇らせる。
妊娠中絶反対派に感情的な理由はないだろうか。
死刑反対派に感情的な理由はないだろうか。
感情的な理由はよろしくない。
何故ならその感情は個人の体験に過ぎないのだから、それに対して相手にあたる人間が賛同できるとは限らない。
実にくだらない。
感情的な理由は多く、実際の所不合理を伴っている。
確かに、ある面では合理性を孕んでいる場合も当然あるのだけれど、それは現在においても合理的かどうかは分からない。
日本の鯨の問題だって、感情の問題に過ぎない。
外国での非難は、色々な理由が言われているけれど、最も根本の部分では「鯨を食べるということが理解できない」という感情的な議論が存在する。
西洋の伝統では聖書に指定された、もしくは伝統的に食べてきた食材以外は食べてはいけないという考え方が存在する。
一方で日本人はもったいないから、という感情的な理由で調査して捕鯨した鯨を食べている。
両者は永遠に分かり合えない。
感情的に鯨を食べるということが理解できないし、感情的に鯨を食べないということが理解できない。
合理的に考えるならば、別に食いたきゃ食えばいいし、食いたくなきゃ食わなきゃいい。
それだけに過ぎない。
けれど、両者共に感情的に自分の考えを相手に押し付ける。
人間は承認欲求を持っている。
自分の考えを相手に認められたいという感情。
これは恐らく、自己の生存にその事が関わることに原初がある。
自分を理解している相手と、または自分を理解していない相手、そのどちらが自分の生存に与えるものがあるか。
自分を理解していたら、食料が欲しいと言えば分けてくれる相手であって、自分を理解していないのならば、きっと食料を分けてくれないし、命の危険が近づいても助けてくれない。
つまり、自分のことを相手に分かってもらうということは、原初では生存に直結した。
だから、承認欲求がある。
けれども、この承認欲求はただの欲求であって、自分を理解してもらう以外に何もない。
その中身に合理性は必ずしも必要ないし、合理的である必要もない。
多くの感情論はこの承認欲求に基づいて行われるので、この感情論が執着する場所は、相手にその意見が認められる以外にありえない。
よって、感情論に合理性も理論もない。
感情論の究極は、相手がそれを認めればそれで良い。
相手が自分と同じ考えに落ち着けば、相手は自分のことを承認してくれたのだから、それで良い。
実に合理性に欠ける。
もっとも利益を得る選択が必要なくなる。
一番初めにあるのは自分にとって大切な事であって、それが何故大切かは考えられない。
習慣的に大切として扱われてきたから大切であるかもしれないし、実生活の中での経験が結びついてそう思い違いしているのかもしれない。
けれども、究極において自分がそうあってほしいという願望が存在する。
議論の場合だと自分がそうあってほしいから、相手にもそれに従うように求める。
しかし、それは願望に過ぎない。
議論は願望によって始まり、その願望の押し付けに終始する。
では、哲学における真理はどうだろう。
彼自身が哲学において真理があってほしいという欲求を持っている。
けれどもこれは感情論だ。
感情論というものは別に合理性というものは必要ではない。
感情論という言葉が駄目だというのなら、願望論でもなんでもいい。
そうあって欲しいという気持ちが存在する。
理由はない。
彼らはその理由を考えずに、あって欲しいから真理を探究する。
一方で、何故彼らが真理をあって欲しい考えるかということには理由がある。
究極的に不安だから。
不安で不安で仕方ない。
というより、物事は確かにしていくことで不安がなくなるということを知っている。
初めて来た場所で道に迷えば不安だけれど、何度も通えば不安はなくなる。
知るということで不安が解消されるということを経験的に学んでいる。
一方で、誰かが真理という言葉を使い始めてしまった。
で、それを探求するのだけれど、それには答えが最初から存在しない。
そうなると不安で不安で仕方がない。
存在しないという答えは発想にない。
なんとなくあるように思えるような事柄だから。
というより、哲学者の口が達者だということだと思う。
哲学者の言い振りを聞くと、なんだか本当に存在しているのではないだろうかと思えてきてしまう。
で、哲学者は頭の良い人たちの集まりだという臆見があるのだから、頭の良い人たちがあると言っているのだからあるというスタートラインになる。
そこから求める。
つまり、スタートラインが間違っている。
キリスト教的伝統で、鯨が食べてはいけない動物、賢い動物なわけだけれど、そのスタートラインは宗教的な慣習になる。
とすると、僕らはこのスタートラインは共有できない。
万人にとってのスタートライン足りえないので、お互いに干渉しないということが最善なのだけれど、承認欲求を行使してくるからタチが悪い。
これはスタートラインの間違いの例だけれど、哲学の場合もっとタチが悪い。
何故ならもし、真理が存在しないと考えたならば、自分が今までしてきたことを全て否定するということになるか。
要するに、今までの自分を否定したくないという感情に基づいて、真理を否定することをしようとしない。
真理が存在すると考える人は、胸に手を当てて考えてもらいたい。
本当にその考えの中に「存在して欲しいという欲求はありはしないだろうか」ということ。
感情論には合理性は必ずしも必要ではない。
となると、それは合理的な営みではないのかもしれない。
ならば何故捨てないのか。
捨てたくないからだろうけれど、その捨てたくないという「感情」にどれ程の価値があるのだろうか。
僕は寸分もあるとは思えない。
別に自分を満足させる範囲だったらいくらでもやればいい。
けれども、それをしてなんになる。
もっと生産性のあることをやるべきだ。
意味がないならしなければいい。
まぁ、もっともやりたいのならやればいい。
ただ、やるのならば自分の愚かしさを自覚した上でやってもらいたい。
それを振りかざされる人間のことを考えてもらいたい。
いい迷惑でしかない。
この事は諸宗教の布教者全てに言える。
振りかざすな。
内に秘めろ。
ということ。
スッゲー小難しかったと思うけれど、どうだろうか。
まぁいいや。
では。