皆さんは「働かされているのですか」、「働いている」のですか?働かされているというと受動的で、働いているというのは能動的に捉えられると思いますが、結果としては働かされているのであり、働いているのだと思います。

 

 仕事というものは、何かの意味があり、そこに存在をしているのですが、そこに意味を見出せないと感じる瞬間も多々あるかと思います。それは自分にとってはあまり意味が感じられなくとも、その仕事を必要としている人がいるということを忘れてはなりません。

 

 このように述べると…

 

 大きな反論が聞こえるのが、目に浮かびます…

 

 そうですよね…

 

無駄にみえる仕事の数々、迷走する上司の指示、自分のスキルアップに役立たない作業等、皆さんの周りには自分が無駄と思う仕事の数々が転がっていることが多いにあることは容易に想像できます。私自身も未だに無駄なことに時間を費やすのには辟易してしまうことも多々あることは事実です。

 

しかしながら、そのように無駄にみえる作業の数々も、その指示をした上司にとっては無駄ではないことが多いのです。だから、その人たち(正しい指示そしてくれればよいのですが)にとっては無駄ではなく必要な仕事なのです。

 

そして、そのような作業等を無駄と感じてしまう瞬間は、その更に上の上司や顧客にその作業自体を一刀両断されるときに、一番の虚脱感を感じ、無駄なことをやらされたと強く感じてしまうのです。

 

しかし、これを前向きに捉えると、無駄なことをしない経験値を自分自身が積むということに他ならないのですから、次にこのような作業を依頼されたときには、キッパリと断ることができるはずですから。

 

分かっていますよ…

 

そうは言っても…

 

そんな簡単に上司の命令に刃向かうことはできないということも。

 

でも、そんな上司に刃向かうこともできない自分というものにも気づくことができ、そのような災害から逃げる方法を次に考えることができるようになるのではないでしょうか?

 

今回のコラムにおいて主張したいことは一つです。

 

この世の中に存在する仕事で無駄なものなどないのです。その仕事は何かを気づかせてくれるために存在するのですが、気づかせてくれるものは、自分がそのとき望んでいることではないかもしれません。そして、仕事とは何かの役に立つから存在しているのであり、もし、その仕事が役に立たないと感じているのであれば、たとえ上司であったとしても、毅然とした態度で明確に否定することが自分の仕事だと気付かなくてはならないのです。

 

どのような仕事にも無駄はないのです。シゴトを死事とするか、志事とするかは、自分自身の心の持ちようと、行動ということ他ならないのです。理不尽だが、歯向かえないときには、そのシゴトは何かを自分に教えてくれるためにあるものなのだから、シゴトがあることはありがたいと思い、仕事に臨むことをお勧めいたします。

 

それではまた、気がむいたときに投稿いたします。

 

それまでは、御機嫌よう…