利己主義な現代社会において、人を思いやり、人のために何かをするということは難しくなっているように感じます。このような社会環境において、義を貫くということが、どんどん難しくなっていると感じるのは私だけでしょうか?

「善」と「悪」の対比というのは、物語の中ではよくみられるものなのですが、「総論賛成 各論反対」の人間社会の中にあり、「善」の「善」なることを知り、絶対的な「善」を貫くためには、「悪」とはなにものかを知る必要があるのではないでしょうか?

「悪」という概念は…よくないこと、道徳的悪の象徴、みにくいこと、不快なこと etcですが、漠然としていて、抽象的な表現であり、何か「パッ」と「ハッキリ」しないように感じます。

抽象概念としての「悪」は多くの人の中に漠然とは存在しているでしょうが…

何が「悪」で、何が「善」ということを判別するとき、人は自分という基軸で判断をしてしまうのではないでしょうか。

自分に都合の悪いことは「悪く」、自分にとって都合の良いことが「善い」というように、みていたりしないでしょうか?

私は自分の人生を振り返り、漠然ととらえている悪いことというのは、実は自分にとって都合の悪いことを「悪」という抽象的なレッテルを貼り、処理しているように思えてなりません。

自分自身の反省の念も込め、少し、「悪」というものを分類し、今後の判断基軸にしていければと考え、本稿を寄稿しました。

多分、多くの人の総意として、「悪い」こととして、捉えている、「殺し」「盗み」等の行為は、絶対的な悪ではないでしょうか。仮にこの分類を「絶対悪」と仕分けしてみます。

「絶対悪」が「絶対悪」たる所以は、悪の権化という表現があるように、人が根源的に持っている基準の中で、「悪」というものを捉えたものであり、ほとんどの人が、その行為が「悪い」というような行為のことを指しているとイメージしています。

上記の行為自体、「悪い」行為であることを疑う人はそれほどいないように思えます…

しかし、厄介なことに、誰かが「悪い」ことをし、その「悪い」ことにより、利益(褒賞)を得ているのをみると…「あの人があれくらいやっているのなら…自分はこれくらいやっても問題ないだろう…」というようになりませんか?

罪の意識はあるものの、誰かが、大きな「悪さ」をはたらくことに対し、自分はこれくらいならいいだろうという行為は誰にでもあるかと思います。

「悪」がより主観的な目線になると、誰かと比べるというフィルターが入り、このような「悪」は、誰かと比べるということから、「相対悪」という分類になります。

「嘘」はよくありません。

私たちは、幼少の頃から、社会に「嘘」というものも罪なる行為であることを学びます。

しかし、誰かを守るための「嘘」ならどうでしょうか?

もしくは、100人を守るために、何人かが犠牲なるような判断に迫られる…

人生とは無情なもので、もしかしたら、明日、このような大局的な判断を迫られることがあるかもしれません。

「嘘」はよくないことです、「人の命は、この地球よりも重い」、そのようなことはわかってはいるとは思いますが、誰かを守るため、犠牲を払わなくてはならないような事案の場合、心を鬼にしなくてはならない場面もあるものです。

このような悪は「必要悪」と分類できるのではないでしょうか?

長々と書き連ねてしまいましたが、「絶対悪」とは、誰もがその行為を「悪い」と言える、最も客観的な「悪」であり、「相対悪」は主観的な比較の中で、誰かと比べた多寡を指し、「必要悪」とは、大義のためにはたらく悪(罪)を指します。

今後、皆様が何かしらの局面に出会ったときに、何かの、参考になればと思い、本稿を寄稿しました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。