何をやってもうまくいかないときってありますよね…
色々なやり方は試してはみるものの、どれも、これも、ことごとくうまくいかず、失敗を積み重ねてしまい、おおいに落ち込んでしまうようなときは、誰にでもおとずれることかと思います。
私たちは生活する上、人生を歩む上、運命を全うする中で、越えなければいけない試練というものに遭遇します。
何度も挑戦し、失敗を繰り返しならがら、懸命に努力することで、いつしか活きた経験や知恵を身につけていくものです。
「神様は超えることができない試練を与えない」とよく言いますが…
どうにも、こうにもその試練がしっくりこないとき、どうしても塞ぎがちになり、何もしたくないようなときには、どうすればよいと思いますか?
立ち向かうことができなくなるくらい、心が疲れきってしまい、塞ぎがちになり、人に会いたくないようなときは、思い切って塞ぎこんでしまえば良いのではないかとおもいます。
少し…
唐突でしたね…
前回は成長というテーマで神話をモチーフにしました。
日本創生神話である、古事記にも、いくつか教訓が込められております。
今回は、その中でも、思いつめ、落ち込んだときに、どのようにしたらよいかという教訓の逸話を紹介したいと思います。
古事記の冒頭では、天地が分かれ、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)はじめ五柱の天の神が現れ、伊奘諾(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)を含めた、神代七代が現れ、伊奘諾と伊邪那美が国を産み、神々を産み出していく物語になっております。
そして、時が経ち、伊邪那美(イザナミ)が亡くなってしまい、愛しき妻に会いたい一心で、黄泉の国に伊奘諾(イザナギ)が出向きます。
伊奘諾(イザナギ)は、黄泉の国で、変わり果てた妻の姿を見、恐れおののき、黄泉の国から逃げ出してしまいます。
黄泉の国の穢れを落とすため、清流で両目と口を洗ったところ、生まれてきたのが、三貴神と言われる、天照大御神、月読命、須佐之男命です。
天照大御神は太陽神
月読命は月の神
須佐之男命は海の神
という使命を天神から仰せつかります。
天照大御神と月読命は自らの使命を全うし、それぞれの持ち場をしっかりと守っていきますが…
末っ子の須佐之男命は、本分を全うすることなく、毎日、毎日、黄泉の国にいる母君に会いたいと泣き喚きます。見るに見かねた、父の伊奘諾(イザナギ)は須佐之男命を勘当します。
腹をたてた、須佐之男命は高天原を治める姉の天照大御神に、黄泉の国に行く許しを得ようと、高天原に向かいます。
須佐之男命を待ち受けていた、天照大御神は須佐之男命を一喝するばかりでなく、制約(ウケヒ)という神々の勝負を挑みます。
須佐之男命は勝負の結果(負け)にも、自分の言い分を聞き入れない、姉の態度にも納得がいきません。
腹の虫が収まらない須佐之男命は、力も我も強いため、高天原の農地を荒らし、大きな石を水路に投げ込み、神聖な神事を執り行う御殿に大便までしてしまいます。(食事中の方申し訳ありません)
報せを聞いた天照大御神は、自分の弟がそのような狼藉をはたらくはずはなく、須佐之男命なりの考えあってのことと、事実と向き合おうとはせず、必要な対応を怠ります。
歯止めのきかない須佐之男命は、機織り小屋に馬を投げ込み、ついには織女(オリメ)を殺めてしまいます。
遂には犠牲者まで出てしまい、事の重大さ、自分の判断の誤りに気づく、天照大御神…
高天原の神々に向ける顔がないと、深く落ち込み、誰とも会いたくないと思ってしまいます。
このような自分が、これ以上、政(マツリゴト)を続けるわけにはいかない…
そして、天の岩戸に引きこもってしまいます。
太陽神である天照大御神が岩戸に隠れてしまったため、陽の光が消えてしまいます。
天照大御神を岩戸から引っ張り出すため、楽しげな宴会を開き、気になった、天照大御神が岩戸から覗き見たところを引っ張り出すというのが、今回のエピソードの天の岩戸の物語です。
この物語における教訓は、どのように聡明で思慮深い人であったとしても、間違いは犯すものであるということではないでしょうか。
高天原の統治者であり、聡明で思慮深い、天照大御神にも思い違いや判断ミスがあったのです。
そして、自らの過ちにより苦しめられ、誰とも会いたくないようなときは、難しいことを考えず、ただ、ただ、自分自身の殻に引きこもってしまった方が良いこともあるということを示唆しているのではないかとおもいます。
確かに、何もかも投げ出してしまい、無責任に引きこもるのはいかがなものかという、反論はあろうかと思いますが、心のバランスが崩れてしまうときには、どうしようもないこともあるものです。
そんなときは、その試練は自分のためのものではないと、割り切って、しっかりと休みをとることを教えてくれているのではないでしょうか。
然るべきタイミングで、誰か、もしくは、何かが、キッカケとなり、自分の殻(天の岩戸)を開くことになりますが…
それは、自らが岩戸を開きたいと思わないと開かれないということを古事記は教えてくれているのではないでしょうか。
神話は、宗教的なバックグランドを作るという意味合が、強く出がちであり、多くの方はそのような理由から敬遠するのかもしれませんが…
神話の物語のコードには、私たちが、毎日の生活を乗り切れるよう、様々な場面での生き方の示唆が、教訓として埋め込まれているものだと私は思います。
日本の神話である「古事記」にも、このような教訓が盛り込まれていることに、日本人として、少し誇らしく思っております。
色々なやり方は試してはみるものの、どれも、これも、ことごとくうまくいかず、失敗を積み重ねてしまい、おおいに落ち込んでしまうようなときは、誰にでもおとずれることかと思います。
私たちは生活する上、人生を歩む上、運命を全うする中で、越えなければいけない試練というものに遭遇します。
何度も挑戦し、失敗を繰り返しならがら、懸命に努力することで、いつしか活きた経験や知恵を身につけていくものです。
「神様は超えることができない試練を与えない」とよく言いますが…
どうにも、こうにもその試練がしっくりこないとき、どうしても塞ぎがちになり、何もしたくないようなときには、どうすればよいと思いますか?
立ち向かうことができなくなるくらい、心が疲れきってしまい、塞ぎがちになり、人に会いたくないようなときは、思い切って塞ぎこんでしまえば良いのではないかとおもいます。
少し…
唐突でしたね…
前回は成長というテーマで神話をモチーフにしました。
日本創生神話である、古事記にも、いくつか教訓が込められております。
今回は、その中でも、思いつめ、落ち込んだときに、どのようにしたらよいかという教訓の逸話を紹介したいと思います。
古事記の冒頭では、天地が分かれ、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)はじめ五柱の天の神が現れ、伊奘諾(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)を含めた、神代七代が現れ、伊奘諾と伊邪那美が国を産み、神々を産み出していく物語になっております。
そして、時が経ち、伊邪那美(イザナミ)が亡くなってしまい、愛しき妻に会いたい一心で、黄泉の国に伊奘諾(イザナギ)が出向きます。
伊奘諾(イザナギ)は、黄泉の国で、変わり果てた妻の姿を見、恐れおののき、黄泉の国から逃げ出してしまいます。
黄泉の国の穢れを落とすため、清流で両目と口を洗ったところ、生まれてきたのが、三貴神と言われる、天照大御神、月読命、須佐之男命です。
天照大御神は太陽神
月読命は月の神
須佐之男命は海の神
という使命を天神から仰せつかります。
天照大御神と月読命は自らの使命を全うし、それぞれの持ち場をしっかりと守っていきますが…
末っ子の須佐之男命は、本分を全うすることなく、毎日、毎日、黄泉の国にいる母君に会いたいと泣き喚きます。見るに見かねた、父の伊奘諾(イザナギ)は須佐之男命を勘当します。
腹をたてた、須佐之男命は高天原を治める姉の天照大御神に、黄泉の国に行く許しを得ようと、高天原に向かいます。
須佐之男命を待ち受けていた、天照大御神は須佐之男命を一喝するばかりでなく、制約(ウケヒ)という神々の勝負を挑みます。
須佐之男命は勝負の結果(負け)にも、自分の言い分を聞き入れない、姉の態度にも納得がいきません。
腹の虫が収まらない須佐之男命は、力も我も強いため、高天原の農地を荒らし、大きな石を水路に投げ込み、神聖な神事を執り行う御殿に大便までしてしまいます。(食事中の方申し訳ありません)
報せを聞いた天照大御神は、自分の弟がそのような狼藉をはたらくはずはなく、須佐之男命なりの考えあってのことと、事実と向き合おうとはせず、必要な対応を怠ります。
歯止めのきかない須佐之男命は、機織り小屋に馬を投げ込み、ついには織女(オリメ)を殺めてしまいます。
遂には犠牲者まで出てしまい、事の重大さ、自分の判断の誤りに気づく、天照大御神…
高天原の神々に向ける顔がないと、深く落ち込み、誰とも会いたくないと思ってしまいます。
このような自分が、これ以上、政(マツリゴト)を続けるわけにはいかない…
そして、天の岩戸に引きこもってしまいます。
太陽神である天照大御神が岩戸に隠れてしまったため、陽の光が消えてしまいます。
天照大御神を岩戸から引っ張り出すため、楽しげな宴会を開き、気になった、天照大御神が岩戸から覗き見たところを引っ張り出すというのが、今回のエピソードの天の岩戸の物語です。
この物語における教訓は、どのように聡明で思慮深い人であったとしても、間違いは犯すものであるということではないでしょうか。
高天原の統治者であり、聡明で思慮深い、天照大御神にも思い違いや判断ミスがあったのです。
そして、自らの過ちにより苦しめられ、誰とも会いたくないようなときは、難しいことを考えず、ただ、ただ、自分自身の殻に引きこもってしまった方が良いこともあるということを示唆しているのではないかとおもいます。
確かに、何もかも投げ出してしまい、無責任に引きこもるのはいかがなものかという、反論はあろうかと思いますが、心のバランスが崩れてしまうときには、どうしようもないこともあるものです。
そんなときは、その試練は自分のためのものではないと、割り切って、しっかりと休みをとることを教えてくれているのではないでしょうか。
然るべきタイミングで、誰か、もしくは、何かが、キッカケとなり、自分の殻(天の岩戸)を開くことになりますが…
それは、自らが岩戸を開きたいと思わないと開かれないということを古事記は教えてくれているのではないでしょうか。
神話は、宗教的なバックグランドを作るという意味合が、強く出がちであり、多くの方はそのような理由から敬遠するのかもしれませんが…
神話の物語のコードには、私たちが、毎日の生活を乗り切れるよう、様々な場面での生き方の示唆が、教訓として埋め込まれているものだと私は思います。
日本の神話である「古事記」にも、このような教訓が盛り込まれていることに、日本人として、少し誇らしく思っております。