もうすぐクリスマスですね…

個人的にはクリスマスイブには恨みはないのですが、あまり良い思い出もないので、この日が特別な日でなくてもあまり私にとっては関係がないのですが…

日本人はクリスマスを祝い、子供の頃はサンタさんを信じ、正月には神社に行き、結婚式は教会であげ、葬式はお寺に頼むという具合に、ある意味宗教的な多様性が受容できているのではないかと感じておりますが、何故か、日本人は無宗教という議論をみかけることがあります。

本当に日本人は無宗教なのでしょうか?

もっと言うと宗教的に無関心なのでしょうか?

私自身はそのようなことはないと考えております。

先ほども記載いたしましたが、日本人は宗教的多様性に寛容であり、すべての神を飲み込むだけの度量を持っている民族であると主張したいと思います。

先ず、宗教という概念ですが、世界の伝統的3大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教ということになります。3大宗教のうちの二つはユダヤ教の分派であり、アジアで広く信仰されている仏教だけが独立してインドでお釈迦様によって悟りが開かれました。

その本家本元のインドも仏教ではなく、ヒンズー教という、インドの古典宗教が変化したものが大勢となっております。

日本では仏教が伝来したころには、森羅万象の事象に神を見出す、自然崇拝が主流でしたが、最終的には仏教の菩薩等と併合をする形で両方を残していきます。

日本人の多くは霊を信じますが、その死生観は輪廻転生の仏教の影響を多分に受けたものではないかと考えらえます。

私の考える宗教とは「説明できないことを説明する」「人として在り方を説く」「幸せとは何かを説く」の3点についての答えを教えてくれるものかと思います。そのうちの「説明できないことを説明する」という観点は最近では科学という領域が説明をしてくれるようになっております。

我々が今まで理解できなかった、遺伝子、脳の仕組み、宇宙の起源などについての答えが、ゲノム解析、脳科学・認知科学の進化、量子学の進化によりある程度のところまで説明できるところまできております。

しかし、「人としての在り方」「幸せの定義」に関しては科学の教科書をいくら読み返したとしても、答えを教えてくれるものではありません。そのようなことに答えをもたらしてくれるものが宗教なのではないでしょうか?

ユダヤ教から派生した宗教は神との契約をそのスタート地点とします。人と人との間でも神と交わした契約と同様に契約という行為を結ぶことにより社会を運営してきます。一方日本は人と人との和や信用という、目や形に見えない人と人とのつながりという観点での社会運営をしてきました。(現在の日本は随分と様変わりをしておりますが、基本的はスタンスにおいて、我々は性善説です)

欧米社会は性悪説から、契約社会となっているのです。性悪説ということは欺瞞はあたりまえ、だまされる方が悪いという常識があるから、強い戒律により縛り、罰則も厭わない絶対神が目を光らせる宗教体系を作る必要があったのだと思います。

日本人はそのような契約主義ではなく、人と人の和により基本的にはお互いを信頼しあうという考えのもとに社会システムを構築していました。農耕社会だからお互いい助け合わないといやっていけないわけですね。その社会ルールを破った者達に対する罰則が村八分なんですね。

宗教とは社会を運営するルールの根源的な道徳心のようなものです。欧米人は宗教教育をされていない日本人が東日本大震災等で道徳的に振る舞うことに驚きを持ちます。宗教が道徳心と結びつくのであれば、日本人が無宗教でなく、目にみえない何かを心の中に信じているということになると思います。

私はそれが、人を信じ、信頼するというナイーブではあるが、性善説に上に立ち、おもてなしと優しさを生んでいるのだと考えております。日本人はだれしも、故郷を持ち、その故郷とは人と人とがつながる場所です。人が心で究極につながり、思いやるという心こそが日本人が根源的に宿している高い道徳心でしが、日本の宗教の原型でなないでしょうか?

私たちの国にはかつて聖徳太子が「和をもって尊しとなせ」と言ったように、古くから、人と人とが思いやることが尊いものであるという考えがあるのです。