4月初めに陸自の土浦駐屯地を訪問してきたのですが、その最終回です。ここは元土浦海軍航空隊(予科練)が駐在していた場所だったため、当時の記念施設が駐屯地内外に併設されています。
■雄翔園(ゆうしょうえん)
雄翔園は土浦駐屯地の敷地内にある庭園です。予科練関係の慰霊碑などがあります。昭和41年に予科練生存者の寄金により建立されました。
制服を着た予科練生と飛行士の銅像。
「予科練」とは、「海軍飛行予科練習生」の略称です。つまり海軍航空少年兵を指していたわけですが、この制度は昭和5年6月に横須賀海軍航空隊内に創設されました。
昭和5年といえば、ロンドン海軍軍縮会議(1~4月)があった年です。この国際会議で、各国は巡洋艦などの補助艦の保有数を制限されました。予科練創設の経緯は知りませんが、多分これとは無縁でないのでしょうね。
ロンドン軍縮会議にも出席し、「艦艇数も今後は制限される。これからは航空機の時代」と海軍の将来を予見していた山本五十六も、もしかすると予科練創設を後押ししたのかもしれません。
予科練は昭和14年に横須賀から、ここ霞ヶ浦へと移駐してきました。
1943(昭和18)年に「決戦の大空へ」という予科練を取り上げた映画が公開されました。「若鷲の歌」は「♪若い血潮の予科練の・・」で始まる映画のテーマソングで、当時大ヒットした歌です。
ほとんどの方がご存じの歌と思いますが、一応曲のリンクを貼っておきます。
【動画】「若鷲の歌」(03:13)
http://www.youtube.com/watch?v=sSp_BrnJ7rY
■予科練平和記念館
土浦駐屯地に隣接した場所にあります。予科練があった阿見町で運営しているようです。
実はここ、去年も来たのですが記事を掲載しそこないました。上の写真は去年のものです。今年撮った写真より見栄えが良かったので。
昭和5年の予科練創設時の第一期生は5,807名応募があり、そのうち合格したのが79名。競争倍率は73倍と大変な人気ぶりで、予科練生はエリートでした。
まだ戦争の気配がない昭和5年、第一期生の入隊動機は「飛行士になりたかった」「生活の安定」「官費で教育が受けられる」などが多数でした。日中戦争以後は志望動機が「国を守るため」に代わっていきます。
戸外に「回天一型模型」が展示されています。平成18(2006)年にドラマ「僕たちの戦争」で使われたものです。遠方に見えるのが予科練平和記念館。
予科練平和記念館で印象に残ったのが、実物大の後部3分の一位の回天操縦室模型でした。
上の画像のような模型の中に入れるようになっているのですが、操縦席が本当に狭いのです。ちょうど飛行機のエコノミー席にすっぽりハマって抜けられない状態。
学芸員さんは、当時の搭乗員は身長約157cmだったと言われていたので、170cmもある人が入ったら、それこそ身動き取れないでしょうね。
この状態で海中に射出されて死ぬとは、実に恐ろしい。内部はまさに棺桶状態で、狂い死にしそうです。(;´Д`)ノ
学芸員さんに「回天の蓋は閉めた後、中から開けることはできたのですか?」と尋ねたのですが、一度外から閉めたらもう開けられなかったと仰っていました。
中には「回天のハッチは内部からも開けられた」という説も聞くんですよね。実際には閉めたら最後、出られなかったという話でした。
土浦駐屯地シリーズはこれで終わります。これから夏にかけて、駐屯地祭・護衛艦見学などイベント目白押しですね。
●予科練平和記念館