
練馬駐屯地の創立記念行事の際の訪問記です。訪問の第一の目的が史料館見学のことも多いのですが、駐屯地イベント参加者としては異色なのかもしれませんね。
練馬駐屯地の広報史料館には、帝国陸軍と陸上自衛隊の展示物が置いてありました。

この史料館は第1師団と歩兵第1連隊にゆかりのある軍人の展示と、乃木大将の遺品があるのが特徴です。練馬駐屯地自体が今でも第1師団の司令部となっています。
歴代歩兵第1連隊長のパネル写真がありましたが、乃木希典(2代)、真崎甚三郎(19代)、東条英機(24代)、本間雅春(27代)、牛島満(29代)など有名軍人が多いです。
第19代歩兵第1連隊長、真崎甚三郎(1876-1956)
昭和11年の2.26事件では、東京の歩兵第1連隊と第3連隊が事件に関わっています。真崎甚三郎も事件関与の疑いがかけられましたが、軍法会議で無罪となっています。
第29代歩兵第1連隊長、沖縄戦を指揮した牛島満(みつる)中将。今まで記事で取り上げたことなかったので。
「温厚な人柄であり、牛島中将に接したことのある沖縄県民のあいだでは牛島中将の人柄を懐かしむ声は多い。
米国軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは『太平洋戦争において日本の名将を2人挙げるとすれば、陸の牛島、海の田中』と評している」
イベントで自衛隊の史料館へ行っても中に警備がいないことが多いですが、ここ練馬では何人か配置されていました。多分値打ちのある展示品があるのではと思ったのですが、それは乃木大将の遺品かもしれないですね。
乃木希典(1849-1912)、享年62歳
明治37年、日露戦争が始まると乃木大将は第3軍司令官となり旅順、奉天の戦いに参加しました。
乃木大将が使用した湯飲み。
明治38年1月5日、日露戦争で旅順の北方にある水師営でロシアのステッセル将軍と会見した時、懇親用に使用したもの。
「湯飲み」とあったけれど、お猪口にもできそうな小さめの物なのでお酒も飲んだのかも。よく見ると茶渋のような跡があります。
「水師営の会見」(ウィキペディア)。
中央が乃木希典とステッセル将軍。この写真有名ですが、湯飲みもここで使われたんですね。
乃木大将謹書教育勅語「乃木大将が学習院長拝命時に書かれたもの」。
非常に美しい楷書体です。文末には「明治23年」と書かれていますが、これは勅語が発表された年で、乃木大将が実際に書いたのは日露戦争後の明治40年でしょうね。
学習院には当時、のちの昭和天皇など、明治天皇の孫が入学することになっていました。明治天皇は直々の指名で、日露戦争で2人の息子を亡くした乃木大将に学習院長として、その養育を託したと言われます。
乃木大将の遺書。「自刃前夜(大正元年9月12日明治天皇大喪の礼前日)に書かれたもの」
乃木大将は明治天皇が崩御してから後を追って殉死しました。解説文によると「陛下の跡を追い自殺するが、その罪は軽くない」という書き出しで始まっています。
遺書の末尾。「大正元年九月十二日夜 希典」とサインがあります。乃木大将はその翌日の、明治天皇の大葬が終了した午後8時頃、夫人と一緒に自刃しています。
あとは乃木さんのパネル写真など。遺品は数点でたくさんあるわけではないですが、やはり遺書が目玉でしょうか。
この記事1回で終わすつもりが長くなってしまい、後編に続きます。