怨恨の地・日本で布教を始めた元米国人捕虜 | 太平洋戦争史と心霊世界

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戦闘1 


 数日前、真珠湾攻撃の際の飛行隊長であった淵田美津雄・海軍大佐が、戦後どのようにしてキリスト教伝道師となったのかを以下に掲載しました。

 

 

■キリスト教徒となった軍人(1) -吉田満・淵田美津雄

http://p.tl/Qhi6

 

 

 実は彼がキリスト教に入信する契機となった、もう一つのエピソードがありました。ここではその話をご紹介します。

 

 1949(昭和24)年12月、東京の渋谷駅前を通りかかった淵田美津雄は、路上に立って小冊子を配布していたアメリカ人から、そのうちの一冊を受け取りました。

 

 1942(昭和17)年418日は日本で初めて米軍機による空襲があった日ですが、これは空襲の指揮官名からドゥーリトル空襲と呼ばれています。そのドゥーリトル爆撃隊の中に、ジェイコブ・ディシェイザー伍長という爆撃手が配属されていました。

 

 小冊子は彼の戦時中の物語を綴ったものでした。ディシェイザーは1940(昭和15)年に陸軍に入隊し、真珠湾奇襲に遭遇した時には、アメリカ西海岸のある陸軍航空隊で炊事を担当していました。

 

 「ジャップ、やりやがったな、俺も仕返ししてやるぞ」と敵愾心に燃えたディシェイザーは、やがて復讐のためにドゥーリトル爆撃隊に参加しました。

 

彼は爆撃手としての訓練を受け、翌昭和1742日、行き先不明の極秘任務を受け、空母ホーネットでサンフランシスコを出港、その後に艦内で「東京爆撃」の命令が発表されました。

 

 一行は418日に爆撃行を実施、ドゥーリトル中佐が先行する爆撃機が次々と空母から飛び立っていきます。ディシェイザー機は最後尾から発進しました。

 

 東京空襲の後は空母には戻らず支那大陸に向かい、蒋介石空軍の溧水(りすい)飛行場へ着陸することになっていました。乗組員は飛行機から落下傘で着地しましたが、運悪く日本軍の敵地に降下したらしく、日本軍に捕獲されてしまいました。

 

 まもなく兵営に連行され取り調べが始まりましたが、ディシェイザーは一切口をつぐんで何も答えません。翌日になると手錠を掛けられ12時間以上目隠しをされて、輸送機に乗せられ到着した地が上海でした。

 

 そこでの取り調べにも沈黙を通したため、尋問官に往復ビンタを喰らいました。翌朝、また目隠しをされて着いた所が東京です。ここで彼は、発信した空母の名前や空襲隊の指揮官の名前など、ひどい拷問の末に自白させられました。

 

 次にディシェイザーはドゥーリトル隊の他の捕虜と合流、計8人は上海に送られ軍律会議に掛けられました。最初の判決は8人全員死刑でしたが、その後ディシェイザーを含む5人は無期監禁に減刑され、残りの3人が銃殺刑を執行されました。 

 

 ディシェイザーは3人の処刑を聞き、憤慨に絶えませんでした。

 

「ディシェイザーは無期監禁に減刑されて生き残ったのであるが、彼は日本人という奴が憎くて仕方がなかった。

 

また彼らに対する捕虜収容所の待遇も、虐待以外ではなかった。何かと言えば、殴られる、蹴られる。食物は不足で、半ば飢餓の状態に置かれた。彼の心は、収容所の看守に対する憎しみと怨みとで一杯で、堪え難いものであった。

 

やがて14か月を経て、仲間の一人バップ・メーダーが栄養失調で死んでしまった。そのときディシェイザーは、気狂いになるほど日本人が憎くてたまらなかった。

 

『日本人と名のつく奴、全部地球から消えてなくなりやがれ』

 

 と、彼は呪った。

 

 しかし憎しみがこのように絶頂に達した頃から、彼は人間のかかる憎しみの原因について思いめぐらすようになった。何が日本人をアメリカ人嫌いにさせたのか。また何が自分を日本人嫌いにさせたのか、その原因について考え始めた。

 

考えている中に、子供のころ、このような人間同士の憎しみを、まことの兄弟愛に変えるのがイエス・キリストであると聞かされたことを思い出した。

 

そしてもう一度、その秘訣をさぐり得るかどうか、聖書を読んでみたいとの不思議な欲求が胸にこみ上げて来るのを覚えた」

 


淵田美津雄とディシェイザー 

淵田美津雄(左)とディシェイザー(右)


 ディシェイザーは看守に聖書の差し入れを依頼し、手に入れると無我夢中で読み始めました。どの御言葉も彼を魅了しました。そして彼はなぜ、現在の状況に自分が置かれたのかを悟りました。

 

「彼の身体は相変わらず笞(むち)で打たれたり、食物の不足等で極度に苦しんではいたが、彼は、神が自分に変った精神的な眼を与えて下さったことを発見した。

 

その眼で、残酷にも彼や彼の仲間を飢えさせ、殴りつける日本の看守たちを見たとき、ディシェイザーは彼らに対する憎しみがすでに慈愛へと変っているのに気が付いた。

 

これらの日本人は、救い主について何も知らず、イエス・キリストが彼らのうちにいらっしゃらないのだから、残酷であるのも当然である。

 

昨日までの自分も、イエス・キリストが自分のうちにいてくださらなかったから、彼らを憎み、いがみあったのである。しかし今日からは違う。イエス・キリストにあって、彼らを兄弟として眺めることが出来る新たな眼を与えて下さっている」

 

 彼は以降、捕虜収容所では聖書に親しみ、1945(昭和20)年820日、米軍により救出されると、アメリカ本土に送還されました。

 

 こうして除隊したディシェイザーはカレッジに学び、やがて結婚し宣教師の資格を得ました。

 1948
(昭和23)年12月には、一家を伴って商船ゼネラル・メイグス号でサンフランシスコから出港、イエス・キリストの言葉を述べ伝えるため日本へと向かいました。

 

 かつては日本爆撃のため出港したサンフランシスコから、今度は宣教のために日本へ向かったのです。米国人捕虜としてこのような背景に至った彼が記したのが、「私は日本の捕虜だった」という小冊子でした。

 

 

『真珠湾攻撃総隊長の回想』-淵田美津雄自叙伝、中田整一・編、講談社、2007