樋口季一郎、日米開戦に苦言を呈す 【前編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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樋口季一郎1 
樋口季一郎中将


 先週から今週にかけ、樋口季一郎・陸軍中将についてご紹介してきました。彼は満州でユダヤ難民を助け、アッツ島での進退窮まった状況下で選択の余地なく玉砕命令を出し、その代償としてキスカ島での撤収作戦を進言し成功させました。

 

 終戦直後には、千島列島の占守島に侵攻してきたソ連軍に対し独断で反撃命令を下し、ソ連軍の北海道への南下を未然に阻止しました。樋口中将は多難な人生において数々の重大な決断を下す場面に遭遇しましたが、未曽有の国難という混乱下にもかかわらず、彼の判断は常に正道を得ていました。

 

 樋口中将は戦後『樋口メモ』と称される手記を残していますが、その中には海軍主導で行われた日米開戦を批判している箇所があります。慧眼と呼ばれる彼が導き出した結論は一顧に値するのではないかと思い、その一部をここでご紹介することにします。

 

 

「昭和14年前後、独伊との三国同盟の議があったとき海軍は明確不動の意志を堅持した。私は海軍の『良識』にひそかに敬意をはらっていた。とくに、国防に関する責任感においてである。

 

 だが、第三次近衛内閣の退陣と、東条内閣出現の可能性の濃くなった時点で、海軍は沈黙の美徳を発揮し、別人の感を抱かしめたるは、果たしていずれに起因するものなのか。

 

 それは『人』であり、これも『人』であった。海軍首脳も陸軍のそれを同様に、不動の一貫した信念がなかったと断ずべきである」

 

 

 昭和159月、日本が日独伊三国同盟を結んだことでアメリカの怒りを買って経済封鎖され、これが日米戦争の遠因となります。樋口は三国同盟締結の有無を決定する肝心な場面で沈黙してしまった海軍は、結局陸軍と同類であったと論じました。


大本営の御前会議 

 

 

「それにしても、昭和16年の末期、三国同盟を極端に警戒していた米内、山本両提督が東京にいたにもかかわらず、東条の無謀なる企図を、挟撃することができなかったのは、なんと説明すべきであろうか。

 

 私の同期生であり、古い友人である石原莞爾(かんじ)は、こういっている。

 

『戦争に突入するすこし前、陸軍は海軍に十分にダメを押している。山本(五十六)などは、肚の底では開戦に反対でありながら、部内の豊田(貞次郎)、岡(敬純)、沢本(頼雄)らの中堅組が陸軍と合流し、断固として反対もせずに、信念に欠けて戦争に突入してしまったのだ。』

 

 (中略)それにしても、剛腹の提督として私が信じていた山本大将が、この無謀な戦争の主役を演じたことは、痛恨のきわみである。

 

 もし彼が、東条のごとく、戦争に勝てるものとの『確信』をもったとするならば、私はあえて、山本をかくまで問題にはしないのである。

 

 それでは、豊田、岡、沢本らと同類以下のなにものでもないからである。ところが、彼は、

 

『一年ぐらいは存分に暴れてみせるが、それからさきは自信がない』

 

 と、のべている。これは国民すべての常識となっていることである。それをもって、山本の『先見の明』となす者もいるが、私が論究したいのはこの点である。

 

 彼のこの言は、おそらく公式会議の席上における発言であろう。そして、99%真実であろう。それは彼の『必敗』に関する預言である。このような予言をなし得る武将が、なぜこの点を強力に主張し、後輩の妄動を封じ、東条らの暴挙を阻止させなかったか、ということである」

 

 

 海軍が日米戦争に徹底的に反対できなかった理由の一つとして、海軍の予算を削減されるのではないかと危惧していたことがあります。当時、海軍は陸軍以上に規模が小さいにもかかわらず、予算だけは陸海軍で折半していました。

 

 そこで海軍が日米戦争にも反対し、陸軍に協力しないのであれば、陸軍からの不満で海軍の予算額を削減される恐れがあったからです。

 日米戦争において、海軍が結果的に消極的賛同にまわった背景には、海軍組織内での利益の損失を危惧するという、官僚主義的側面が隠されていました。